幸福否定の研究-10 【幸福否定の発見と心理療法確立までの経緯-3】

*この記事は、2012年~2013年にかけてウェブスペース En-Sophに掲載された記事の転載です。

【幸福否定の研究とは?】
勉強するために机に向かおうとすると、掃除などの他の事をしたくなったり、娯楽に耽りたくなる。自分の進歩に関係する事は、実行することが難しく、“時間潰し”は何時間でも苦もなくできてしまう。
自らを“幸福にしよう”、"進歩、成長させよう”と思う反面、“幸福”や“進歩”から遠ざける行動をとってしまう、人間の心のしくみに関する研究の紹介

今回から、笠原氏の心理療法の出発点となった小坂療法を論じますが、まずは小坂医師、笠原氏が治療法を作る上で用いる方法論…実証主義について説明します。

当時の小坂の教えで、今なお、私の考え方の中に色濃く残っているのは実証主義(注1)という研究姿勢であろう。(略)患者の病歴や発病前の出来事などの情報が、ある程度にせよ得られた場合には、それから推理した事柄を、実際に症状を示している患者に口頭で指摘する。あるいは、そうした情報がほとんどない場合には、全くの徒手空拳で患者と対面し、記憶が消えているはずの、発病直前の出来事を探り出す。

いずれにせよ、それによって患者に何らかの反応が起これば、その反応を手がかりにして面接を進めてゆく。そして、原因と目される出来事が患者の意識に浮かび上がると、それを強く否定しない限り、その瞬間に分裂病の急性症状が一掃される。

このような手順を踏むことにより、その出来事が、その時の心理的原因に関係していたことが確定されるのである。私は、心理療法の経歴の最初にこのような経験をしていたために、何らかの手段によって、現実に症状を消すことこそ、心理療法に欠くべからざる条件であると、当然のごとく考えていた。

それができなければ、何を心理的原因と言ったところで、単なる推測の域を出ず、その当否を確認することはできない。
(引用:「幸福否定の構造」/ P57~P58)

冷静に考えれば信じられない話なのですが、現在行われている心理療法、カウンセリングの殆どは、患者を治す、という事を前提にしていません。多くの精神科、心療内科の医師は患者の状態を聞いて投薬をし、症状を緩和することを目的にしています(注2)。

そこから一歩進んでカウンセリングを行っても、治すというよりは、病気との付き合い方を相談するような面接ばかりだと聞きます。数々の心理療法もありますが、それでさえ患者の環境(主に家族の状態、人間関係など)や性格の傾向を知るという範囲にとどまっているのが現状ではないでしょうか?

また、病気の再発を繰り返す場合は、本人も治ると思っておらず、家族や周囲も、どうやったら治るのか?ではなく、どう付き合えばよいのか?という、いわばマニュアル的なものを求める傾向があります。

比較的正常の範囲内にいる軽い疾患の患者は、自力で立ち直るので、一時的に症状を和らげる投薬も役に立ちます。しかし、精神疾患の症状がある、ない、にかかわらず、人間関係がうまくいかない、自虐的な傾向がある、などもともと人格的に大きな問題を抱えている患者は、投薬によって症状が緩和したところで社会生活がスムーズにできるようにはなりません。

小坂療法の小坂医師、そして小坂療法を発展させ独自の心理療法をつくった笠原氏が他の医療従事者たちと異なる点は、大前提として根本的な解決、もしくは根本改善(途中で治療をやめても後戻りしない)を目指しているという点です(注3)。そのためには、症状が実際に変化したり、病状が本当に改善しなければ意味がありません。

実証主義という方法論をとる場合、治療者や患者が腑に落ちるかどうかは関係なく(正確に理解すれば誰でも行える)、客観的な指標を持つ方法で症状や病状に変化が起こるか否かが重要になります(小坂医師、笠原氏の場合の客観的な指標は"反応")。

一例を挙げると、親子で料理をしていた際、子供に症状が出て、喧嘩になったというケースがありました。
治療者が原因を疑っていた親子関係の話では全く反応がなく、たいした事ではないと思っていた料理の話をしている時に患者があくびをしたり、落ち着かなくなったりなどの反応が起きれば、料理の話に注目します。

治療者は、最初は意味が分からなくとも、患者の反応のみを追いかけます。

親子関係ではなく、料理に関係する事なのか?
そうすると、料理の出来栄えが以前と違うのか?
料理の好みが変わったのか?

そうした周辺事象から、反応を探っていきます。

反応を追い続けると次第に症状が強くなっていくのですが、あるところまで追うと急にそれが軽くなったり、消失するという現象が起きます。
上記の例では、料理がうまくなった、という話で反応が強くなり、親が初めて子供に任せたという事を(患者である子供が)思い出した途端に症状が消失する、という経過を辿りました。

反応のみを指針にし、原因を探ると、以下の結論が導き出されます。

原因となった出来事=料理を任せられた事。
その否定=症状が発生し、親と喧嘩になった…親は、子供に任せる事によって、間接的に料理が上手くなったと指摘している。
(患者本人に、料理が上手くなったという記憶や認識が消えているかどうかを確認してみたところ、自覚はなかったが、言われてみるとその時作っていた料理は親よりも上手いかもしれない、と答えた)。

しかし、客観的な指標を使っても、治療者側に抵抗が働いていると症状消失を無視してしまうことになります("料理がうまくなる事が症状の原因になるはずがない"と頭から決めつけてしまう)。

実証主義の場合には、原因として考えやすいか考えにくいかは関係ありません。客観的証拠として使える "反応" のみを指針とします。

その結果(=反応の観察)、症状が出る直前の出来事は本人にとって幸福であると考えられるケースが多く、笠原氏は幸福否定という概念を見出すに至りました。
逆に言うと、現在行われている精神科、心療内科の治療では、患者の症状や病状に注目しようとせず、また何の客観的な指標も持たないため、"こういう理由だろう"という思い込みを積み重ねて(注4)袋小路に入り、治す事を放棄してしまっているように見えてしまいます。

私も追試を行う上でこれまで何度か笠原氏に注意されているのですが、考えやすさや分かりやすさ、または過去に経験したパターンを優先してしまい、どんなに腑に落ちない理屈であろうとも反応を追いかけ続ける、というを原則を忘れる事があります。

反応を追い続けるのは至難の業なのですが、ここで方法論を間違えてしまうと、正解から大きく外れてしまう事になります。

さて、小坂療法に入る前に、最も重要な「目的(治す事)と方法論の違い」について述べましたが、次回は小坂療法自体をもう少し詳しく解説したいと思います。

(続く)

注1:笠原氏が、よく混同される、と言っていましたが、論理実証主義ではありません。

注2:症状の緩和のための投薬が目的となっているため、現在の精神科、心療内科では他の科と違って診断が曖昧になっているようです。行く先々の病院で違う病名がついたり、出す薬が違うという事は日常茶飯事のようです。

注3:以下に例を示しておきます

治療ではなく慰める事が目的=圧倒的多数のカウンセリング

患者の傾向をつかむ目的=数々の精神分析、心理テストなど

投薬以外の手段で症状を消す目的=TFT療法、EFT療法、行動療法など
(筆者はTFT療法の追試をしていましたが、確かに症状が瞬間的に消える事があります。しかし、重度の場合にはすぐに元に戻ってしまうので、小坂療法や笠原氏の心理療法に比べると あくまで症状の一時的緩和で、根本的な人格の変化は起こらないと考えています)
                     
患者の人格や考え方の改善が目的=内観法、森田療法など

その他=催眠療法など

注4:ストレス、もしくはトラウマが原因とされてしまいます。

文 ファミリー矯正院 心理療法室/ 渡辺 俊介

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