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「学校に行かない」ことの罪悪感

「学校に行かない」ことの罪悪感、ありますか?

本日は、我が家のことを書こうと思います。というか、私のことを。

まだ、我が家は不登校歴が半年強と浅いので、「ホームスクール、してますか?」と問われたら、「ホーム、ですけど、スクール(学びの場)になってるかどうか…」と答えてしまうのですが、不登校そのものは肯定的に受け止めています。

「不登校」という状態を、親子どもども平穏に受け止め、楽しめるかどうかは、タイトルにあるとおり、「学校に行かない」ことへの罪悪感の有無に尽きる、と私は思っています。

学校へ行かない罪悪感を拭うプロセスを「デスクーリング」というそうです。詳しくは、kokageさんのnoteを…!!

この「デスクーリング」を経ないで、不登校の状態を続けると、子も親も苦しい時が長く続きます。「学校に行かなきゃいけないのに、行けない…」負い目に苦しむのは、本当につらいです。

私は、娘が小1で不登校になった大きな理由が「担任の先生が怖いから」だったので、小2になって先生が変わったら、行けるようになるのでは、と密かに期待していました。
ですが、4月になって先生が変わっても、状況は変わりませんでした。

娘曰く、「集団がキライ…」。
そうなんですね。。。

学校に必ずしも行く必要はない、と思ってたし、そんなに期待してなかったはずなんですが、学校とのやりとりと娘とのやりとり、仕事状況との狭間で、私はすっかり疲れてしまい、ゴールデンウィークに寝たきりになってしまいました。

デスクーリングのきっかけ

そんな私にとって、「学校に行かない」罪悪感を払拭するに至った「デスクーリング」のキッカケってなんだったんだろうな…と思うと、4つあって。

一つは、娘が「学校に行くくらいなら死にたい」といったこと。

2つめは、学校に行かなくても社会人になれる。ということがわかったこと。
当たり前といえば、当たり前なんですが。

私たちは「20歳になった時に、心身共に健全で、自立していること」をいったんの目安にしているのですが、それが本当に成り立つか分かるまでは不安でした。

社会で活躍するフリースクールの卒業生を目の当たりにし、小幡和輝さんの著書「学校は行かなくてもいい」を読んで、「あ、これなら行けるかも」と思いました。

3つめは、夫が「娘がやりたいことをやっていけるなら、中卒でもいいじゃん」と言ってくれたこと。
私がゴールデンウィークに寝込んでいる時、たまたま弟夫婦が3日間も娘を預かってくれ、その間にいろいろ話して、聞けた言葉。

今も未来も、本人の選択を尊重する、ということが夫婦間で共有された瞬間でした。

4つめは、同じ5月に、ホームスクーラーさんが主催してくれたおでかけ企画に行ったこと。
娘の大好きな「クレヨンしんちゃん」の聖地、春日部の内牧公園というところ。

思えば、学校のある時間帯に外に出ることをなんとなく避けていたのですが、登校の小学生たちと顔を合わせてしまうくらい、朝早く出発し、だれもいないフィールドアスレチックについた時。

緑の合間に光が漏れていて「こんな明るい世界もあるんだー」と靄が晴れる思いがしました。それが、タイトルバックの写真(絵のように加工してありますが…)です。

そして、元気に遊ぶ、子供たち。
はじめて会っても、仲良くなれる、子供たち。
なんで、こんなにコソコソする必要があったんだろう…、と思いました。

美術館も、動物園も、ショッピングモールも、平日の昼間は遊び放題です。こんな環境をエンジョイしない手はありません。
(昨日も、ホームスクーラーさん企画で、おでかけしてきました)

一人ひとり違う、デスクーリングのプロセス

そんな私の経験から言うと

1.本人の意思
2.家族全員(少なくとも夫婦間)が、本人の意思を尊重すると決めること
3.未来と今のポジティブな体験

他にもあるとは思いますが、少なくとも、我が家ではこんなことがあって、デスクーリングは成り立ったと思っています。

他の人のきっかけも聞いてみたいですね。
みんなで出し合うと、参考になりそうです。


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