見出し画像

ていねいな暮らし、無情のペヤング。

「ていねいな暮らし」の波がまた来た。コイツはわりと頻繁にうちに来る。ピザ屋のチラシより来る。

ていねいな暮らし、その清潔感あふれる響きはたいへん魅力的である。ていねいな暮らしに憧れない20代女子が果たしてこの世にいるだろうか、いや、ない。(反語)

最初のきっかけは、まあ、ありがちだけど、25になってひとり暮らしを始めたときだった。せっかくのゼロスタートだし、誰もが羨むようなステキな生活を送りたい!と息巻いて、何かを始めるときの情報収集に余念のないわたしは、Instagram、note、キナリノ、リンネルなど手当たり次第に情報を仕入れていった。

そして、本当の「ていねいな暮らし」を考えた

そして、めくるめく情報収集の中で「形だけを真似るのは本当のていねいな暮らしではありません。自分らしい暮らしをきちんと送ることこそが、本物の、ていねいな暮らしなのですよ。」というような論旨の記事に出会った。

それらを読んで、わたしは自らを恥じた。形だけにこだわって、ていねいな暮らしをわかったつもりでいた、愚かなワタクシを。

……そして時は過ぎた。



うっそぴょ~ん!マネでもええやん!

あぁ〜、よっしゃ。無印良品の家具に囲まれた部屋でリンネルに載ってた作り置きレシピを野田琺瑯のタッパーに詰めて成城石井でしか売ってないオリーブオイルをかけたよくわからん名前の葉っぱでできたサラダを旅行先で買った民芸品のボウルに盛り付けて水出しハーブティー飲んで生活の木で買ったティーツリーのアロマオイル混ぜたスプレーでリネンのカーテン除菌しよ〜!!

マネっこに過ぎないことはわかっている。本物の「ていねいな暮らし」を送る方々には恥ずかしくて顔向けできない暮らしっぷりだ。でもそれが、なんだってんだ。ええやん!楽しいやん!自分のやりたいこと正面からやれてるわたし最高ゥ!ヒューゥ!

いつか本当に愚かな自分を恥じるときが来たとしても、まずは自分が今やりたいことをやり、暮らしたい暮らしを送る。それを咎める権利が誰にあるというのだ。そんなふうに毎回パッカーンと開き直りながら、ピクルスを瓶にギュウギュウ詰め込むのである。

しかし、無情にもペヤングが襲う

それは、おおよそ、ていねいな暮らし2日目か、3日目にやって来る。

いつもよりちょっと遅めの朝8:00。前日洗ったおかげで柔軟剤とお日様の香りのする清潔なシーツと布団の間で目を覚ましたわたしは、まずお手洗いに行き、作っておいた水出しざくろハーブティーを飲みながら、「今日はどんなていねいな暮らしを送ってやろうか」と考える。

近所を散歩して図書館に行ってモームの『月と六ペンス』でも借りてこようかな。ちょっと京都まで足を伸ばして鴨川が見えるカフェにでも行こうかな。ああ、でも今日は暑いし家の中で『ローマの休日』なんかを観て過ごしてもいいし……。

まあ、伊達に「#ていねいな暮らし」情報を追いかけてるわけではないので、我ながらなかなかにステキな過ごし方をぽんぽん思いつく。

そんなふうに、グルグルめぐらせている思考がふと途切れたその一瞬をついて、ヤツはおもむろに匂い出す。
ペヤングだ。

こうなったらもうおしまいで、昨晩タッパに作り置きしたきんぴらの滋味でも、朝市買って来たアボガドの甘味でも満たされない。もうあのソースのことしか考えられなくなり、気がつくとコンビニの袋を片手に家路を急いでいるのである。

それでもしたい、ていねいな暮らし

みじかかった「ていねいな暮らし」劇場は、無情にもペヤングによって幕が降ろされる。チキンラーメンに降ろされるときもある。もちろん、ペヤングやチキンラーメンが「ていねい」でないと言いたいわけではないのだが、わたしの「ていねい」はそこで終わってしまうのだ。

最近はこの現象について、「ていねい」の緊張感に疲れて、早く終わらせたいという潜在意識が、あの香りを呼び覚ましているのではないかと考察している。なかなかいい線いってると思う。

それでもわたしは懲りない。次回の公演は3週間後か、それとも今週末か。冷蔵庫には、手つかずのピクルスが瓶ごとズドンと存在感を放っているのだった。

(Photo by Elle Hughes on Unsplash)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?