VINTAGE【時間を埋める】⑯


Sさんが久しぶりにアルバムを出すらしい。
大学の講義が終わって、Vintageに入るやいなや、すぐに教えてもらった。

「すごいですね」
身近に音楽家なんていないものだから、こんな話を聞くと自分のことではないのに少し気分が高揚してしまう。
でも、とうのSさんはカウンターで煙草に火を付けながら少し考え事をしているようだ。

「うん」

あれっ、あまり触れられたくなかったのかな。そう感じるとあまりタッチしない方が良かった話題なの
かもしれない。あまり深く尋ねることもなく、漢字のナンクロを開いた。

「今日はイタリアンとベーコントーストセットで」

最近は銘柄当てばかりでなく、よくイタリアンコーヒーも頼んだ。一番深い焙煎で、スミになる一歩手前だろうか。言いすぎかな。

キリッとした苦みが自分の上半身を駆け抜ける。酸味はほとんどない。上質のビターテイストとでも言うべきだろうか。自分には好みの潔い味だと思った。最近はイタリアンまでの深い焙煎は流行ではないらしい。カフェラテやアイスコーヒーはそれよりも浅い「フレンチ」「フルシティ」が好まれる。でも、自分にはこの焦げたような香りのイタリアンがぴったりだ。

コーヒーを飲みながら、漢字のナンクロに向かい合っていると、三文字の空所で行き詰まった。

名〇屋
  
「みょう・・・・・・」

Sさんも横で考え出した。

「あっ」
すぐに閃くと、とっさに空欄を埋めた。

名古屋

「これ、は、・・・・・・みょう・・・・・・何だろ」
Sさんが考え込むと

「いやいや、なごやですよ」

目を見開いて自分を見たかと思うと、

「はぁっ・・・・・・」

頭を前後に振って、
「もうダメだ。脳軟化症なんです。ボク」

ペンを自分に渡すと、
「これは君がやるんだ!」

と、2本目の煙草に火を付けた。

あたりは穏やかな笑いに包まれ、さっきまであった僅かな緊張感もなくなった。
「最近は忙しいんですか」
何となく沈黙を受けるためSさんに尋ねると、
「まぁ、忙しくしている面はあるけどね。とりあえず何かはしているのかな。何かやることがあるのは幸せだよ」
そう自分に言うと、少し笑って見せた。

「そうですか?」
少し疑って彼に迫った。

「朝起きてから、何もすることがないって、寂しいことだと思うけどなぁ」

「やることかぁ、今少し忙しいけど、そう考えられるときが幸せってことですか。自分にはまだ分からないかなぁ、でも、Sさんも忙しいじゃないですか。充実してるってことですか」

「あ、そういうことになるか。でも自分は忙しいふりをしているだけかもしれないから」

「忙しくないと不安になりますか」

「やることがないって、悲しいと思うよ」

「そう言われると……確かにそうかもしれませんよね」


彼の音楽活動は自分にとって憧れであり、とても素晴らしいことだとは思う。しかし一方で何かで時間を埋める作業を彼はしていたのかもしれない。毎日の生活にハリを持たせるために、必死で時間を埋めていく……。自分自身にも心当たりはある。そういった毎日の空間をVintageで埋めているのはボクにとってもその作業なのかもしれない。でも、音楽であろうが、Vintageであろうが埋めた空間には何事にも代え難い経験があると思うんだ。そう、ここで出会えたことにも。

イタリアンコーヒーの鋭い苦みがやたらいつまでも頭から離れない1日だった。そう、彼もボクも明日から日々の空間を受けることに勤しむだろう。それが繰り返し続いていくのが人生なのか……。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》