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自然派と言う人間本位主義

 自然である事が絶対的正義で、そして身体に優しく、人類も地球も繁栄するだろう――と言うのが自然派の根本的な考えだろう。

 自然主義の誤謬と言う言葉があるけれど、多分そう言う問題点を一つ一つ説明したところで、「その結論自体が科学的であり自然に反する」と考えるのだから、どうしようもない。

 彼等には科学的手法が分からない。
 だから電子レンジの横に置いた花は枯れると言って、窓のないキッチンのレンジの横と、窓際にそれぞれ花を置く訳である。

 或いは同性愛は自然に存在しないから、自然に反していると言う主張も、山ほど出てくる自然界での同性愛について、一切反応を示さない。
 彼等は、自然が大事と言っておきながら、自然を観察し学ぶという事はしていない。

 結局の所、彼等の考える自然こそが本当の自然で、現実の自然とそれは全く異なるものなのだ。

 山にどんぐりを撒けば熊が人間を襲わないというのも、「熊のことを思ってやれば、熊はお返しをしてくれるだろう」と言う発想だ。
 実際は、遺伝子撹乱によって自然をぶっ壊す行動ではあるけれど。

 これは何と言うか、川岸に神社を建てて龍神様を祀れば水害が起こらないと言う考え方と同じだ。
 要は、自然を擬人化して捉えているのだ。

 自然は人間と同じような思考をするだろうという考え方が、そもそも人間的で人間中心的なのだ。

 或いは、キムチと納豆を混ぜて一晩置くと、乳酸菌が百倍になるだなんて与太話もそうだ。
 そんな話が本当ならば、ヤクルトなり明治なりが大量に納豆を作っているだろう。

 結局、納豆菌も乳酸菌も「共に人間のために人間を健康にしてくれる存在」だから「協力して人間の役に立とうとしている」と考えているからこういうことになるのだ。
 別段納豆菌も乳酸菌も、人間の事を思ったり考えたりしている訳ではない、人間に対して偶然にも有用であり、それを人間が利用しているだけに他ならない。

 善玉菌にしろ悪玉菌にしろ、人間が勝手に決めたカテゴリであり、それらが人間に対して意識的に協力するなんてことはあり得ない話だ。

 要は、これも人間が中心的な存在だからそう言う発想になるのだ。

 環境保護とか、健康とか、そう言うものを何でもかんでも人間中心の、そして人間の道徳に合わせた発想に転換させることで、自分自身の道徳を強化しようというだけである。

 自然に対して正しくあることは、自分が地球規模で善人であると言いたいわけである。
 これはまぁ、出羽守が言うところのグローバルな常識と本質的な構造は同じだろう。

 自然を大切にすることは大事だし、健康も大事なことだが、それは自分自身が人間であり人間本位に考える生き物だ、と言う前提を理解した上でなければならない。
 その上で、本当に自然とは、環境とは、健康とは――と言う本質的な次元に下りていかなければ、一生同じ事を続け、そして結果として自然環境も健康も壊す事になるのだ。

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