「上着を脱ぎ捨てて、躍り上がって」
マルコ 10章46~52節
聖霊降臨節 13主日 2022.8.28
「一行はエリコの町に着いた (46節)」 。一行は「エルサレムヘ上っていく途中 (32節)」 であった。イエスは故郷のガリラヤを中心に活動していた。イエス と弟子たちは、ガリラヤを出てエルサレムに向かつた。ヨルダン川沿いを南に 上リエリコの町を経由した。その後、イエスは「弟子たちや大勢の群集と一緒に、エリコを出て行こうとされた (46節)」 。 その時「ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座つて物乞いをしていた (46節)」 。「盲人」で、「物乞い」をしており、「道端に座つて」いた。 そこにバルティマイの人生が透けて見える。本来、道は歩くべきもの。しかし 彼は「道の端」に途方に暮れ座り込んでいた。その姿は、へたり込みうずくま るしかなかったバルティマイの生き方を暗示している。
そのバルティマイの日の前を「ナザレのイエス」が通っていく。それを「聞 いた」バルティマイは「『 ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください』と言い始めた (47節)」 。「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます『ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください』と叫び続けた (48節)」 。
バルティマイが叫んだ言葉「ダビデの子イエス」にバルティマイの信仰告白がある。なぜ彼は「ナザレのイエス」でなく「ダビデの子イエス」と呼びかけたのか?そこには旧約の「メシアはダビデの子孫から出てくる」との信仰がある。「イエスがダビデの子である」とは、「イエスがメシアである」という信仰告白を意味する。この「イエスはキリストである」という告白はキリスト教信仰の中心である。イエスの他にメシアを名指しするのはキリスト教ではない。
人々は彼を「叱りつけ黙らせようとした」。しかしバルティマイは「ますます」「叫び続けた」。彼はずっと叫び続ける。ここに「諦めない信仰」がある。「一瞬の信仰」ではなく「続く信仰」がある。信仰は一時の感情の高ぶりではない。私達の信仰は継続する信仰である。時を経て「ますます」「続く信仰」である。「イエスは立ち止まつて『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言つた。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ』(49節)」。イエスはバルティマイを招く。人々はバルティマイを叱り黙らせるのをやめ、「安心しなさい、立ちなさい」とイエスの元へ招く。イエスが招き、そして人々もバルティマイを招く。 するとどうなるか?「盲人は上着を脱ざすてて、躍り上がってイエスのところに来た (50節)」 。この喜び、これがキリスト教の「肝 (キモ)」 である。イエ スに招かれているものは喜び、「躍り上がる」。バルティマイは「上着を脱ぎすて」る。「上着」はバルティマイが今持っている財産のすべてである。またそれは今まで座 り込み、へた り込んでいた生き方が染み着いていた「上着」である。 バルティマイはその「上着」を脱ぎ捨てる。今までの生き方を止め、裸になっ て、「踊 り上がってイエスの元に来る」。そこに信仰の真の姿がある。
バルティマイはもはや「道端に座り」込んではいない。逆に「躍り上がり」。 やつて来る。それが信仰の転換、立ち帰り「悔い改め」である。「悔 い改め」 は反省ではない。今までの生き方が変わることである。「悔い改め」とは喜べるようになること、喜べる信仰に変わること。今まで道端に座 り込んでいた者が、今は 「躍り上がってイエスの元にくる」。そこにメタノイアがある。
これは詩篇皿8篇24節「今日こそ主の御業の日、今日を喜び祝い、喜び躍ろう」を思い出させる。その「今日の日」とは「家を建てる者の退けた石が、隅 の親石になつた (25節)」 日である。その言葉はマルコ 12章 10節でイエスが 引用した箇所である。「今日は喜びの日」。しかしそれを喜べない人がいる。彼らは「イエスをその場に残 して立ち去った (12‐ 12節)」 。私たちはイエスにいつ も招かれている。喜べない人々はイエスの前から立ち去っていく。私たちの信仰がバルティマイのように「喜びの信仰」であるように。 イエスに「何をして欲しいのか」と言われた盲人は「目が見えるようになりたいのです (51節)」 と言う。イエヌは言う「あなたの信仰があなたを救った (52節)」 と。「あなたを救う」「あなたの信仰」とは何か?それは私達を救う信仰である。
バルティマイの信仰がそれを教える。①イエスをメシア・キリス ト と告白する信仰、②イエスに助けを求める信仰、イエスの他に助けはないとの確信 、③「 叫び続ける信仰」、④ 招招かれる信 仰 、⑤「上着を脱ぎ捨てて躍り上がる」「喜びの信仰」である。この「信仰」はバルティマイをもう一度立ち上がらせる。私達の信仰がバルティマイの信仰のようでありますように。「盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った(52節)」。 ここに⑥「イエスに従う信仰」がある。「十戒を守る」は信仰の必要条件ではない。信仰がある者が十戒を守り生きる。同じようにイエスに従うから信仰が成立するのではない。信仰がある者がイエスに従うのだ。イエスに招かれ、その喜びがわかる者がイエスに従っていく。
11章で一行はエルサレムに入る。これ以後バルティマイの名は表に出てこない。しかしバルティマイは与えられた場所でイエスに従って進んだ。信じる者はイエスに従う。今日の聖書の素朴な物語に信仰の「まとめ」が語られている。
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