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「イエスは起き上がって」

マルコ4章35~41節降臨節第10主日


2022.2.27


 「その日の夕方になって、イエスは『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群集を後に残し、イエスを船に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの船も一緒であった(35~36節)」。「その日」とは4章1節の「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群集が、そばに集まってきた。そこで、イエスは船に乗つて腰を下ろし、湖の上におられたが、群集は皆、湖畔にいた」の続きの日である。「湖」とはガジラヤ湖(別名ティベリアス湖)で、イエスの弟子たちはそこで漁師をしていたのである。ヨルダン川の左岸と右岸の高低差によって、ガリラヤ湖は突風が吹く地形であつた。イエスは弟子たち⊇「向こう岸に渡ろう」と声をかけられて、船に乗り込んだ。そして「向こう岸」に船出していく。

 「向こう岸へ行こう」。それはどこへ行こうとするのか?「向こう岸」とは彼岸、「こちら」とは此岸である。「向こう岸」とは、この世界とは違う向こうの世界。「向こう岸へ行こう」とは、この世ではない「神の国」へ行こうということ。弟子たちもその船に乗り込み、イエスに従って行った。しかし神の国を目指す途上は平穏ではない。「激しい突風が起こり、船は波をかぶって、水浸しになるほどであつた(37節)」。「ネ申の国」への道のりは楽なものではない。突風、波に襲われ、水浸しになった船は沈むかもしれない。「神の国」を目指しているのに、なぜこれほどの混乱が襲ってくるのか?逆風にさらされる歩みなのか?

 「弟子たちはイエスを起こして『先生、私たちがおばれても,かまわないの`で蜘と言つた(38節)」。なぜか?それはイエスが「館のほうで枕をして眠つておられた(38節)」から。弟子たちは賜れそうになって慌てふためいている。しかし、イエスは船の中で眠つていたのである。教会は「神の国」を目指している。しかしその途上は突風、逆風にさらされている。夜の湖という暗闇の中で、賜れそうになり慌てふためいている。弟子たちの姿は教会の姿である。しかし人間が慌てふためいていても、イエスだけは静かに眠つている。

 「イエスは起き上がって、風Sをしかり、湖に『黙れ。沈まれ』と言われた。すると、風は上み、すつかり凪になった(39節)」。イエスは眠つていた。しかしイエスは今「起き上がった」。そして「風や湖も従わせる(41節)」。そこには平安、安息がある。今では航路に適した平安、安息がある。これを「神の国の先取り」と呼ぶ。まだ「向こう岸」には着いていない。しかしここには「向こう岸」を目指す途上の弟子たちに安息がある。「ネ申の国」をめざす「神の国の先取り」がある。「神の国」そのものはわからない。人間には考え得ない。しかし「神の国」を目指すあゆみの中に逆風のない平安がある。それを「神の国の先取り」と呼びたい。この「神の国の先取り」とは逆の心がある。「イエスは言われた『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか』(40節)」。「神の国」を目指すとは逆の人間の心がある。それは、「恐れる」心、「信じない」心である。「恐れがある」、「信じられない」、その時は「神の国」を目指していない。その反封に「神の国」を目指す人間は「恐れず」、「信じる」ことができる。だから平安と安息に満たされ、そこには喜びがある。

 イエスが眠りから「起き上がる」時、「神の国の先取り」、平安、安息、喜びがある。風にも、嵐にも、高波にも勝利する。「神の国は近い」。そこに「神の国の先取り」がある。イエスは「起き上がる」。マルコ1章9~11節では、ヨハネから洗礼を受けたイエスが「水の中から『上がる』とすぐ、天が裂けて霊が鳩のように下つて来た(10節)」。イエスが起き上がると聖霊に満たされる。1章31節では熱を出して寝ていたシモンの姑を「イエスが側に行き、手を取つて『起こされる』と熱は去り、彼女は一同をもてなした」。イエスは姑を「起こされる」。2章14節でも収税所に座つていたレビは「立ち上がって、イエスに従つた」。イエスは「立ち上がる」お方、そして同時にイエスは人々を「立ち上がらせる」お方である。そこに何があるのか?そこには「神の国の先取り」があり、信仰があり、喜びがある。イエスは「立ち上がり」、そして私たちを「立ち上がらせて」くださる。だから私たちはうずくまっていない。へたり込んで絶望しない。不安の中で恐れない。

 「起き上がる」イエスの究極の姿は「復活のイエス」である。それは死者の中から「立ち上がる」のである。死者の中から甦つたイエスを知つた者たちが、それを引き継いでいく。マルコはイエスの十字架の死後、復活信仰が始まり、その20~30年後に、イエスの伝承を集めて一つの福音書を編集した。イエスは「立ち上がる」お方、死者の中から「立ち上がる」お方、そこに「神の国の先取り」がある。マルコは「神の国の先取り」の喜びを集めた福音書である。マルコには2つの系列、傾向がある。一つはイエスが「立ち上がり」、「神の国」へ向かう姿である。イエスの教えは神の国を目指し、この世を打ち砕く。もう一つの側面ではこの世の暗い湖の上に戻つていく。この世において苦しむイエスの姿を描くのである。「神の国」を述べ伝え、人々を立ち上がらせ、喜びをもたらすイエスが、この世で苦難の道を歩む。次週より受難節(レント)に入る。私達はそのイエスの苦しみについて学んでいく。


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