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「イエスの教えに喜んで耳を傾けた」

マルコ 12章 35~44節
聖霊降臨節第16主日 2022.9.08

 律法学者はイエスに問う 「あらゆる掟のうちでどれが第一でしょうか (12章
28節)」 と。 神はイスラエルを選ばれた。 そして神はモーセを通して、 イスラエ
ルの民に、 「選びのしるし」 として十戒を授けられた。 その出来事が出エジプト
20章 12 節以下である。 またモーセが、 それをイスラエルの人々に示した出来
事が申命記5章16節以下である。 第1~4戒が神の規定であり、 第5~10戒が
隣人の規定である。 イスラエルの民にとっては、 「神の選び」 を知り、 「神はイ
スラエルを愛しておられる」 という 「信仰のしるし」 が十戒をいただく出来事
であった。

 やがて、この十の戒めより様々な細かい律法が導き出された。 その数は、 「~
しなさい」という命令形が 247 条、「~してはならない」 という禁止形が 365 条
に上ったという。その中には互いに矛盾する戒めもあるため、分類と解釈が必
要となる。 律法学者は、神殿において、 律法を整理し、 解釈する専門家であっ
た。 整理、分類、 解釈が進んでいくと、 やがて元の十戒の信仰から離れ、 解釈
のための解釈となり、 整理・分類の作業が大事になる。 それが人間の常である。
「神はイスラエル愛しておられるという」 福音、そこに 「神の愛」 「神の国」が
あるという信仰がないがしろにされていくようになる。 時を経るに従って、 解
釈が行われ、細かい規則が作られ、やがてそれが商売にもなった。 知識が売ら
れ、 お金になった。 マルコ 11 章 15~ では 「イエスは神殿の境内に入り、 そこで
売り買いをしていた人々を追い出し始め、 両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを
ひっくり返された」 とある。 それがイエスの時代であった。

 律法学者に第一の掟を問われたイエスは2つの戒めを語る。 それは 「あなた
の神である主を愛しなさい (12-30節)」 と 「隣人自分のように愛しなさい ( 31
節)」である。 いくつの愛が語られているか? ここでは三つの愛、すなわち「神
への愛」、 「隣人への愛」、 「自分への愛」 が語られている。 イエスは数百個の戒めの中から、二つの戒めを選び、 三つの愛を語った。

 イエスは律法学者に対してこう言われた。 「律法学者に気をつけなさい。 彼ら
は、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、 会堂では上席、
宴会では上座に座ることを望み、 またやもめの家を食い物にし、 見かけの長い
祈りをする (38~40節)」。 律法学者は 「長い衣」 をまとい、「長い祈り」をなす。彼らはより煩雑に語り、優秀さを誇示し、 金を得ていく。 イエスは逆に律法の意味を、短く、シンプルに語ろうとする。 イエスは神の律法を神の御心に従っ
て理解している。 律法学者は神の御心を失い、自分たちの掟をより煩雑なもの
することに長けていた。 イエスは律法の意味を知り、律法学者はその意味を
忘れている。

 イエスは言う 「どうして律法学者たちは 『メシアはダビデの子だ』というの
か。 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。 『主は、 私の主にお告げになった。』「私の右の座につきなさい。 私があなたの敵をあなたの足に屈服させる時まで」と。 (25~36節)」 』。 これは 「ダビデの詩」 と呼ばれる詩篇110編の1節を取り上げている。 メシアはダビデの主なのか、 ダビデの子なのか? 律法学者は結論を持っていた。 しかしイエスは答えを出していない。 「どうしてダビデ自身がメ
シアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか (37節)」。

 イエスは「メシアは誰なのか?」に答えを出していない。 詩編 110 編が語る
のは何よりも、 「メシアがやって来る」、 「救い主はいる」ということである。律法学者はメシアが誰かを定義づけ、 結論を出そうとする。 だがイエスはそのよ
うな解釈をせず、 問いに答えない。 そうではなく大事なことを人々に問い掛け
る。 「十戒を通して神は我々を愛してくださる」 とシンプルに神の御心を語る。
イエスが語るのはただ 「神の選び」、 「神の愛」、 そして 「救い主は来る 」 だけである。 「神の国は近い」、その福音の喜びを人々に語り始める。 それは律法学者とは違う教えである。 そこには信仰のエッセンスが語られている。 イエスの教
えに議論は必要ない。 イエスの言いたいことは神の国の喜びの福音である。 だ
から「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた (37節)」のである。

 「聞く耳を傾ける」 そして 「わかるということ」。 聞けばわかる。 「聞こえ
る」と「聞こえない」 の分かれ道はどこにあるのか? どんな説教なら耳を傾け
るのか? あるいは聞けないのか、 その分かれ道はあるのか?それは「喜んで」 耳を傾けたかだ。 群衆たちには 「喜び」 があった。 人の話を聞く人々、教えを受けた人々、そこに 「喜び」 があった。 また語る側にも 「喜び」 があった。語る側にも聞く側にも 「喜び」 があった。 「喜び」 の福音は聞いてもらえる。 「正しさ」は伝わらない。 「喜び」 は伝わり、 同じ 「喜び」 を共にできる。 語るものの 「喜び」、 聞くものの 「喜び」、 そこに信仰が生まれる。 「喜び」 の福音の希望が生まれる。 イエスと律法学者はあり方が違った。 律法学者は解釈を語った。 イエスは 「喜び」 の福音を語った。

 41 節以下の 「やもめの献金」 はなぜ置かれているか? それは律法学者のあり
方 「やもめの家を食いものにする」 に対応している。 「皆は有り余る中から入れ
たが、この人は乏しい中から自分の持っているものすべて 生活費を全部入れ
た (44節)」。 ここにはやもめの献げる 「喜び」 がある。 なお、 「持っているもの
すべてを宗教共同体に献げよ」 は聖書の言葉の勝手な解釈である。 私たちも「イ
エスの教えに喜んで耳を傾けて」 行きたい。


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