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「香油をイエスの頭に注ぎかけて」

聖霊降臨節第17主日 2022.9.25

マルコ14章1~19節


 14章から新しい場面に切り替わり、イエスの受難物語が始まる。1~2節の「イエスを殺す計画」と10~11節の「ユダ、裏切りを企てる」が一つの物語として繋がっている。その間を割って、3~9節に「ナルドの香油の物語」と呼ばれる「シモンの家」の出来事が挿入されている。だからこの「ナルドの香油の物語」は受難物語十字架の物語に付随して解釈されなければならない。

 「さて過越祭と除酵祭の2日前になった(1節)」。ユダヤ教の春の祭りの時にイエスと弟子たちはエルサレムに上った。昼は神殿に行き、夜はベタニアに宿をとっていた。「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席についておられた時、1人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた(3節)」。食事の席に香油を持った女が登場する。マルコでは「一人の女」と書かれており、名前はつけられていない。賛美歌567番では主に仕えた「マリア」と名付けられている。これはヨハネ福音書12章のシモンの家での「マルタとマリア」から採られている。この女が不思議な出来事を為す。それは、労働者の年収にあたる300デナリオンという高価な香油の壺を割って、イエスの頭に注ぎかけたのである。

 なぜ食事の最中にイエスの頭に香油を注ぎかけたのか?なぜかこれほど高価な香油なのか?シモンの家に出入りする貧しいこの女が、なぜこれほどの香油を溜め込むことができたのか?不思議な出来事を目の当たりにした人々は憤慨してとがめた、「なぜ、こんな香油を無駄遣いしたのか(4節)」と。しかしイエスは「するままにさせておきなさい(6節)」と言った。周りの人々は、わけのわからない出来事に怒ったが、イエスは違った。この言葉はマルコ10章でイエスが言った言葉を思い起こさせる。人々が子どもたちを、イエスに触れていただくためにイエスの元に連れてくると、弟子たちがそれを叱った。その時にイエスが言う「妨げてはならない(14節)」と「妨げてはならない」、「するままにさせておきなさい」これがイエスの言葉である。弟子たちにはわからない。しかしイエスには見える。イエスは言う「なぜこの女を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ(6節)」。弟子たちには女の振る舞いが悪いことに見える。しかしイエスには良いことに見える。イエスにとって良いこととは何か?「この人はできる限りの事をした(8節)」。イエスにとって良いこととは「できる限りのことをすること」であった。イエスの判断基準は、「今できる限りのことをしたか」どうかだ。では、この女は何をしたか?「前もって私の体に香油を注ぎ埋葬の準備をしてくれた(8節)」とイエスは言う。この「油を注ぐ」とはどういうことか?

 ①イエスはメシアであるという告白「油を注がれる」とはユダヤの王の即位を表す。サムエル記16章13節でダビデ王が「油を注がれる」。そして「油を注がれた者」を「メシア」と呼んだ。ギリシア語では「キリスト」である。この女がイエスの頭に香油を注ぐとは、「このお方こそ、メシア・キリストである」というこの女の信仰告白を行うことであった。。バビロン捕囚から帰ったイスラエルの人々にとって「油注がれた王」はメシア・キリストである。イザヤ書61章「主が私に油を注ぎ主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして貧しい人に良い知らせを伝えるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれた人には自由をつながれている人には解放を告知させるために(1節)」。「油を注がれた」王は遣わされて、貧しい人に良い知らせを伝える。捕囚の民に自由と解放を知らせる。これが、第三イザヤがバビロン捕囚から解放された喜びの中で語ったキリストの預言である。

②埋葬の準備:だが、それは残念ながら埋葬の準備である。それは受難の準備、十字架の準備である。この出来事は、受難物語に位置付けられる。イザヤ書61章のイスラエルの王は苦しむ王である。この女は埋葬の準備をあらかじめしたのである。この女がイエスの体に油を注いだのは、埋葬の出来事である。16章1節に「安息日が終わると、マグダラにマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くため、香油を買った」とある。このように亡骸に香油を塗るしきたりがあった。この女は、前もって埋葬の準備をしたのである。イエスは言う、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう(9節)」。この女は「イエスをキリスト」と告白し、十字架に備えた。イエスの言葉通り、今日も福音を述べ伝えるこの礼拝で、この女のことを「記念」して語っている。今回③の意味を発見した。果たして弔いの香油は必要か?香油を買う必要があったのか?必要はなかった。なぜならイエスの亡骸は墓の中になかったのだから。イエスは甦っており、弔いの必要はなかった。受難は十字架で終わらなかった。十字架への準備は大切。しかし私たちには復活の喜びが伝えられてる。だから香油は必要ない。香油を壺にため込んでおく必要はない。私たちは復活の喜びに生きる。だからお金をケチって香油を壷にためる必要はない。お金は、自分たちのために、隣人のために喜んで使っていけば良い。この女の出来事は過去の「記念」として語り継がれる。十字架への備えとしての記念である。しかし、復活の出来事を知っている私たちは壺を買わない。壺に溜め込まない。それが、私達がこの物語を「記念」として読む意味である。

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