「残ったパン屑を集めると」
ルカ9章10~17節
板野のメモよる八谷先生の説教のまとめ
イエスは「弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた(6章13節)」。ルカ福音書は紀元80~90年頃に書かれている。それは、マルコ福音書(紀元50~60年代に成立)より一世代後の福音書である。その頃にはすでに教会ができ始めていた。福音書では弟子(;イエスに直接従った者たち)と使徒(;教会の中でリーダーになっていった者)が区別されている。「使徒」は本来教会の中での働きを意味する言葉である。だからルカ福音書に「使徒」が登場するのは、時代的にはおかしい。なおパウロは「弟子」ではなく使徒」と呼ばれている。それはパウロが直接にはイエスを知らず、ただ「復活のイエス」に出会い、教会に入った人だからだ。
「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人を癒やすために遣わ(9章1~2節)」した。そして「十二人は出かけていき、村から村へと巡り歩きながら、至る所で福音を告げ知らせ、病気を癒した(6節)」。弟子の働きは、神の国を宣べ伝えることと悪霊を追い払い、病気を癒す事であった。イエスが派遣し、その働きを終えた弟子たちが「帰って来て、自分たちの行ったことを皆イエスに告げた(10節)」。「イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた(10節)」。ベトサイダはガリラヤ湖畔の北東の港町である。町の名の語源は「漁村」である。イエスと弟子たちは、人里離れたガリラヤ対岸に「退いた」。しかし「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った(11節)」という。彼らは「神の国」の教えを聞くために、また病気を癒やしていただくために、イエスの後を追い、ベトサイダまでついてきた。
「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々も癒しておられた(11節)」。イエスはいつも迎えてくださる。そしてイエスを求め、イエスに従っている者に「神の国」を教え、悪霊を追い出してくださる。聖書は、このようにイエスに従おうとした人々の姿を描く。そして同時に対比的にイエスのあとを追わない人の姿をも描く。それが7~9節に挟み込まれたヘロデの姿である。「しかしヘロデは言った『ヨハネなら、私が首をはねた。体、何者だろう。耳に入ってくるこんな噂の主は。』そしてイエスに会ってみたいと思った(9節)」。しかしヘロデはイエスに出会おうとはしない。
「日が傾きかけ(12節)」夕方が近づいていってくる。「十二人はそばに来てイエスに言った。『群集を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。私たちはこんな人里離れた所にいるのです(12節)』。人里離れたベトサイダ。ここでは食べ物は見つけられない。しかも自分たちの手元には「パン五つと魚二匹」しかない。集まった群衆は次第に空腹になってくる。そして弟子たちは夕食のことで思い煩う。だからイエスに進言する。「解散させてください」と。ところがイエスは群集を解散させない!バラバラにしない!それどころか彼らをつなぎとめる。「イエスは弟子たちに『人々を五十人くらいずつ組にして座らせなさい』と言われた(14節)」。そして「五つのパンと2匹の魚をとり、天を仰いで、それらのため賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群集に配らせた(16節)」。弟子たちは「パン五つと魚2匹」しかないことに思い悩む。しかしイエスは群衆をまとめて座らせ「パン五つと魚2匹」を配る。するとそれをすべての人が食べて満足した(17節)」という。
このルカの「供食物語」は私たちに何を語ろうとしているのか?①イエスは人々を解散させない。イエスは人々を集めておられる。②イエスには思い煩いがない。思い煩いがある弟子たちと対比されている。③イエスがパン五つと魚2匹を配るとすべての人が満足した。これを「奇跡」という。なぜ、どのように満腹したのかはわからない。それは証明できない「奇跡」である。イエスの集まりには思い煩いがない。一人一人の心に満足が与えられる。イエスのもとに集まる者には、神の恵みが溢れるほどに現れる。さらに「残ったパンのくずを集めると十二籠もあった(17節)」という。それは数合わせを行っている。「十二人」の弟子たちに「十二籠」一杯のパン屑が与えられる。それは一人に一籠の神の恵みが与えられたということだ。彼らはそれを持って帰る。同じように、私たちにも神の言葉が心に注がれている。それは心に満足をもたらす。そして籠一杯の神の恵みを担いで自分の場へ帰っていく。イエスの供食物語はすべての人々が神の恵みに預かった奇跡物語である。
聖餐式の原型として「最後の晩餐」がある。しかしそれは十二使徒に限られ閉じられている。ここでの「供食」は、イエスを追った群集が招かれ、その誰もが迎え入れられている。最初の教会の人々には、自分たちがかつてイエスと供食した経験が心の中に残っていた。ここにも聖餐式の原型がある。使徒信条には「処女マリアから生まれ、ポンテオピラトのもとで苦しみを「受け」とあるが、ここではクリスマスと受難の「間」が抜け落ちている。降誕節のテーマはこの「間」である。それがイエスとの出会いである。この中にイエスと共にいた人々の姿がある。今日の供食の物語もその一つである。私たちは多くの恵みを担いて帰っていく。そしてまたイエスのもとに集まってくる。散らされ(;ディアスポラ)派遣される、そして集められる(;エクレシア)、それが教会である。降誕節が終わり、次週より受難節に入る。
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