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「新しいブドウ酒は、新しい革袋に」

板野のメモによる八谷先生の説教のまとめ

 本日の聖書箇所は四つの部分から構成されている。33節の「断食について」34~35節の「花婿について」、36節の「新しい服と古い服のたとえ」37~39節の「新しいぶどう酒と古いぶどう酒のたとえの四部分である。まず「断食について」「人々はイエスに言った『ヨハネの弟子たちは度々断食をし、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかしあなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています(33節)』人々はイエスの弟子を批判することで、イエスを批判している。

 断食は世界の多くの宗教の中で修行として行われている。しかしユダヤ教、旧約では断食は、律法としては規定されていない。断食に関してゼカリア書に記述がある。ゼカリアはバビロン捕囚期から解放期の頃の予言者である。彼は、なぜイスラエルが滅びたのか?バビロン捕囚はなぜ起きたのかを預言する。8章9節には「万軍の主はこう言われる『4月の断食、5月の断食、7月の断食、10月の断食』はユダの家が喜び祝う祝祭の時となる。あなたたちは真実と平和を愛さなければならない」とある。年4回の断食が神の言葉として命じられている。しかしその断食は苦しい修行としてではなく、「ユダの家が喜び祝う「祝祭の時」と表現される。また断食の目的は、主なる神の「真実と平和を愛し」、思い出すためと語られている。

 さて、イエス自身は断食をしたのだろうか?それは4章の悪魔からの誘惑の物語にある記述で推測される。イエスは「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた、その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた(4章2節9)」。イエスは苦しい修行を行ったと思われる。洗礼者ヨハネはどうか?ヨハネは「荒野で宣べ伝え」、「らくだの毛衣を着腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた(マタイ3章4節)」と記述される。これは断食のイメージである。

 ファリサイ派の人々はどうか?ルカ18章12節のファリサイ派の人々の祈りの言葉がある。「私は週二度断食をし」とある。週二度の断食を習慣としていたようである。しかし彼らは、断食する自分を誇り、断食できない人を見下し批判していた。
本来、断食は「喜びの祝祭」であり、神の正義を思い出すためであった。しかしイエスの時代にはそれが形骸化していた。だから人々が、「あなたの弟子は断食をせず、飲んだり食べたりしています」と批判の言葉を投げかけたのだ。断食が人を批判する道具(方便)にさえなっていた。

 イエスは言う「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることができようか(34節)」。婚礼の日は喜びの日。その日に行う断食は意味を失う。イエスにとっては主なる神の喜びの祝祭を守ることが大事なのだ。だから今は、断食は不要である。では断食の日はいつか?イエスは言う。「しかし、花婿を奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる(35節)」。断食は、今ではない。その時は隠されている。主日、それは喜びの日である。礼拝することは喜びである。「彼らは礼拝を守らない」は人を裁く言葉である。私たちは人を裁かない。私たちはここで喜びに出会い、喜びにあずかるのだ。私たちはここで「喜びの祝祭」を行い、多くの人が来るように祈る。

 イエスは新しい断食、新しい教えを語り始める。「誰も新しい服から布切れを破り取って、古い衣服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば新しい服も破れるし、新しい服からとった継ぎ切れも古いものには合わないだろう(36節)」。イエスは、古い教えの中からもう一度新しい意味を見つけ出す。古い形骸化した教えと中から、もう一度喜びを見いだそうとする。この言葉の理解は難しい。それは旧約聖書とイエスの登場という新しい時代との関係を問うことだ。旧約(古い契約)と新約(新しい契約)はどう関わるかという問いである。旧約を古びたものと考え、新約だけでいいと考えられてきた歴史がある。イエスはそう考えたのか?そうではない。イエスの新しい教えとは何だったのか?それは、結局は旧約だったのである。イエスはこれまでの教えにもう一度命を吹き込み、もう一度喜びを取り戻そうとしたのである。それはゼカリア書が断食に、苦しい修行ではなく、喜びを見いだしたように、イエスも旧約聖書の律法に新しい意味を見出したのである。「また、誰も新しいブドウ酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば新しいぶどう酒は古い皮袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。(37節)」「また、古いブドウ酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものの方が良い』というのである(39節)」。イエスの教えは旧約に帰る教えであるイエスにとって旧約とは何だったのか?「私が来たのは律法や預言者を廃止するため、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5章17節)」。イエスにおいて旧約が完成し、旧約の信仰が成就したのである。イエスを見るならば旧訳の神、イスラエルの神が見えてくる。だからイエスを「神の子」と呼ぶ。そしてイエスを「キリスト」と信じ、従って行こうとする。旧約の中に意味を見出し、喜びを発見する。古い酒を新しい皮袋に注ぐのだ。旧約の信仰が私たちの信仰を熟成させていく。私たちは週2回断食する必要はない。喜びの集いを持つのだ。花婿が一緒にいるように、主イエスと共にいるのだ。それが福音である。


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