見出し画像

【第1章】私がエホバの証人2世だったころの話

プロローグ 


『エホバの証人』(ものみの塔聖書冊子協会)の2世として生きていた時代がある。
もう20年近くも昔の記憶である。
すっかり忘れ去っている事もあれば、未だに夢に見るような出来事もある。
 これまでずっと封印し、固く閉じてきた重い扉を、ここのところトントンとノックして来る気配を感じたため、言葉にする必要を感じ、やっと重い腰を上げた。
 『エホバの証人』という宗教を、内部から見てきた実体験と、翻って現在『幸福の科学』の信者として活動している自分が、外側から俯瞰して見て思う事を、赤裸々に綴ってみたいと思う。あくまで私の主観である。

 言わずもがな、エホバの証人というのは規制の厳しさで悪名高い。
2世の子供達は、厳しい規制と社会から分断された抑圧的な環境の中で、将来への夢や可能性を奪われ、未来に絶望しながら、暗闇の中を生きていく。
それが当たり前に用意されたレールだった。
教団の中だけが“霊的パラダイス”で、その外部の者は皆“サタン”とか“この世”と呼んで蔑み、強烈に排除する。まるで、北朝鮮かどこかの強制収容所の中なのかと錯覚するほどに。
しかし、その中で育つと、外の世界の事を知らないため、それが自分の全てとなる。

 1世同様に、本当に教義を信じ切って、揺るがぬ信仰心を持って宗教活動に命を捧げたいと決意しているのであれば、それは本人の意思なのでそっとしてあげたらいいと思う。
私にもそういう時期があった。
しかし、選択の自由も無く、幼いときから、あるいは生まれた瞬間からカルト的教団の戒律の中で育ってきた子供達は、自分や世間に対する考え方が激しく歪んでおり、正しく判断する事が出来ないため、遅かれ早かれ皆何らかの精神病を患うことになる。
カミングアウトしている2世の訴えを散見すると、大体が、自己卑下、劣等感、自信の無さ、PTSD、うつ病のオンパレードだ。
明るくポジティブな人などほとんど居ない。
なぜか。

 それは、『エホバの証人』という宗教そのものが、そういう人間を作り上げる、最悪のプログラムで出来ているからだと思う。
私自身、自分の事が分かっていなかった。今でも自信は無い。
ただ、エホバの証人という宗教は、とんでもない邪教であるし、その罠に捕まったら最後、蜘蛛の巣のように逃げられない構造になっていると感じる。

 教団を離れてから何となく感じていたその感覚が、時経つうちに真実味を帯びてきた。
『ものみの塔』の初代会長チャールズ・テイズ・ラッセル。
ラッセルと言えば信者であれば知らない人は一人も居ない。
彼は教団内では最大限の賛辞を持って、“忠実で謙遜なエホバの証人”、“神に選ばれた熱心な聖書研究者”として美しく讃えられている。
少なくとも末端の信者はそのように信じ込まされてきた。疑う余地など無かった。
しかし事実はどうなのか。

 彼がなぜ、エホバの証人を作ったのか、私は関心を抱くようになった。
 私は入信していた頃に厳しく禁じられていた“背教の書物”を読み漁り、調べていくうち、すぐにラッセル家というのがあのイルミナティ13血流の一族に含まれているという事実を発見した。あの悪魔崇拝で知られるイルミナティである。
そして、チャールズ・テイズ・ラッセル自身は悪魔的フリーメイソンの最高位のメーソンでもある。彼は悪魔崇拝者であり、幼児性愛者でもあった。
純粋な元信者にとっては、顎が外れるような事実である。
 悪魔に心を売ったラッセルが、ものみの塔を使って何を成し遂げようとしていたのか。
そんな風に考えるうち、エホバの証人の構造そのものが、現代の支配者階級の縮図そのものではないのかと感じるようになった。
そうした目で見てみると、これまで疑問に思っていた事のピースがパチパチとはまっていき、彼らの目指す新世界の完成図が見えた気がした。

 まあ、確信に触れるのはまだ置いておくとして…
 その前に、私がいかにしてこの宗教2世として育ったか、どんな家庭環境だったか、そしてどのようにして脱会したのか、私のエホバの証人2世として生きたリアルな体験記をご紹介しよう。



1、入信


 私が生後2ヶ月の時、母は『エホバの証人』に入信した。訪問してきた伝道者を自宅に招き入れて話を聞くようになり、徐々にその教えに傾倒していった。それは当時の母のハートに見事にヒットしたらしい。
 父は某大手新聞社の新聞記者である。大変真面目で、背中で語るタイプの堅物男。
無論、家庭に宗教を持ち込むなど言語道断だった。
この世に生を受けたばかりの私の家庭環境は、あっという間に、“宗教vsマスコミ”の、静かなる戦場へと化していった。

 私と一つ下の弟は、父の無言の圧力の中、幼い頃から母の宗教活動に連れ回された。
週3回の『集会』と称する聖書勉強会や、毎日3時間に及ぶ『奉仕』と称する戸別伝道活動。それに、『研究生』と呼ばれる、まだ入信して間もない信者宅を訪問して行う聖書勉強会や、私たち子供に対しても行われる『聖書研究』。
日々の生活のほとんどが、宗教一色だった。

 母はいわゆる『正規開拓者』だった。月に90時間(当時)を伝道活動に費やすというノルマを忠実に実行する、くそ真面目で熱心な模範的活動信者だった。
 私たち姉弟は、いわゆる一般の幼児教育を受けていない。当時父の転勤が多かった事に加え、幼稚園や保育園はこの世的な行事がとても多いから、というのが理由であったと思う。
 エホバの証人は、七夕やら誕生日やらクリスマスと言った、あらゆる祝祭日にまつわるイベントへの参加を、『異教の教え』として厳しく禁じている。そこで、まだ自分で判断して行事への非参加を表明できない子供達を、母は幼稚園などに預けるのではなく、手元で養育しながら日々の宗教活動に参加させることで子供たちを“守った”のだ。
 お陰で、ただでさえ内向的で人見知りの私の社交性は、全く育たなかった。

2、証言


 小学校に上がり学校生活が始まると、自然と活動に参加する時間は少なくなったが、その代わりに、前述したエホバの証人が禁じる行事や授業などへの非参加を表明する時(例えば誕生日やクリスマス会などには参加出来ない、校歌や君が代は歌えない、騎馬戦や柔道などの戦い事は出来ない等々)や、1年に2〜3回開催されるエホバの証人の『大会』に出席するための休みの許可を得る時に、その旨を担任の先生に自分の口で上申しなければならないという、人生最大の試練が待ち受けていた。それは『証言』と呼ばれた。
 今考えると、親が直接担任に伝えてくれれば済む話だと思うのだが、それは子供自身の絶好の信仰表明の機会と捉えられ、その証言活動から逃げることは許されなかった。仲間内には、子供に代わって先生に話してくれるような甘くて優しい親も居たのかもしれないが、どっこい私の母親は無駄に厳格で、そんな甘えは決して許さなかった。
 愚直な少女はその試練から逃げも隠れもせず、毎回正々堂々と立ち向かった。
 しかし担任とは言え、大の大人に突然信仰告白をし、その信条を優先するための許可をもらうというのは、とてつもないストレスと緊張を伴うものである。
 一日中吐きそうな程の緊張感を耐え抜き、放課後、先生が一人になるのを見計らって、何度も深呼吸を繰り返し、神に祈り、いよいよ挑むのである。

 反応は先生によって様々で、にこやかに受け入れてくれる先生もいれば、怪訝な顔で渋々許可してくれた先生もいた。
ここぞとばかりに毒を吐く人もいた。
その学期だけ、わざと成績を下げられたりもした。
教員一人一人の宗教観が様々に表れていたのかもしれない。
 有り難いことに私が担任に反対されたことは一度もなかったのだが、もしも「そんなことは絶対に許さん」などと却下して来る先生がいたら、幼い私は一体どうすればよかったのだろうと考えると、今でも冷や汗が出る。

 そうして無事先生の了承を得て、胸を撫で下ろしたもつかの間、今度はクラス皆が楽しむ行事の最中、体育館の端や教室の外に一人出て行きその時間をやり過ごすのである。
 この日本において、『人と違う』という事はそれだけで恰好のいじめの対象になる。私は一人で居るのを周りに悟られないよう、至って自然に再びクラスの輪に戻り、何事もなかったかのようにまた空気のごとく溶け込んだ。
 その日一日が終わると、心の底から達成感と安堵を感じ、神に感謝したものだった。

 『証言』というものから逃げ、クラスの他の子と同じように適当に流している子も居たのかもしれない。誰も見ていない、誰にもバレはしない。そう思って、楽な方に逃げる事もいくらでも出来たと思う。
 しかし、私は仮病やズル休みは絶対にしなかった。保健室に行った事もない。自分に負けるのは嫌だった。神の目はあらゆる所にあり、いつでも見られていると信じていた。正々堂々と逆境に立ち向かい、勝ちを取りにいく。それが幼いときからの私のスタイルだった。それが信仰だと思っていた。その信仰を守り切れた事が何より嬉しかった。

3、ムチ



 小学生の頃の記憶として鮮明に残っているものに、『ムチ』がある。
 『ムチ』を経験した世代としては、周囲では私達辺りが最後なのではないかと思う。
 今思えば何の理由で『ムチ』を受けたのかはあまりよく覚えていない。集会中に子供同士で騒いだとか、親の言うことを聞かなかったとか、姉弟喧嘩をしたとか、とにかく親の逆鱗に触れた何らかの理由により、『ムチ』は執行された。
 正座する母の膝の上にお尻を出してうつぶせになるや否や、バチン!と『ムチ』は振り下ろされるのである。無表情で、無慈悲に。
 執行後は、『ありがとうございました』と感謝を述べる事が強要された。それを言わなければ、再度ムチが追加される羽目になる。

 我が家の『ムチ』には歴史がある。初めは、竹の物差しやプラスチックの定規のようなもので叩かれたが、そのうちそれらが壊れ、使い物にならなくなると、今度は金属製の重い差し金へと取って代わられた。それも使い辛かったのか、次はロープ状の電気コードへと代わった。しかしそれも瞬時に葬られ、最終的には長さ40センチ程のゴムホースへと落ち着いた。
 ゴムホースは母のお気に入りのようだった。独特のしなりと重みが、子供の尻にドスン!と食い込みミミズ腫れを残すため、効き目を実感出来るらしかった。
 「子供を愛しているからムチ打つのだ」と主張する真剣な母の目に、少しの愛情も感じられなかった。集会での仲間との会話の中で、どのムチが効果的かを共有する母親たちの談笑に、しばしば戦慄を覚えたものだった。
 子供としては、ただただムチの痛みだけが体に刻み込まれ、なぜこんなことをされるのか、納得できてはいなかっただろう。事実、ムチを握る母親の顔が恐ろしく怖かったという印象しか残っていない。

 あの頃の母の心理はいかばかりだろうと、我が子のプリプリした尻を眺めながら時々想像する。何の躊躇も抵抗も感じなかったのだろうかと期待を込めて想像してみても、虚しさだけが込み上げる。組織からの指示に率先して従う忠実で立派な母親を勇敢に演じ、満足していたに違いないのだから。

 このようなことが自分の居ぬ間に実行されていたとは、父には思いもよらなかっただろうと思う。父は私のことなど何も知らなかった。
 幼い頃の私にとって父は、表面的には優しいのだが、とても恐い存在で、私が心をさらけ出し、甘えたり頼ったりするような相手ではとてもなかった。なぜなら、父はいつも宗教に対する怒りや嫌悪感を全身で発しており、そそくさと活動に出向く私たちに、今にも爆弾を落とさん勢いで常に憮然としていたからだ。
 父にとっても私という娘は、母親からの洗脳にどっぷりと嵌ってしまったどうしようもない残念な子といった印象でしかなかったのだろうと思う。

 そんな風なので、家庭の中は当然二極化し、毎日が冷戦そのものだった。
 時々、夜中に両親のいがみ合う大声が階下から聞こえてきた翌日は、『ものみの塔』や『目ざめよ!』といった宗教冊子が、ゴミ箱に、引きちぎられたり握りつぶされたりして捨てられており、そういったものを見るにつけ背筋が凍る思いと悲しみでいっぱいになった。当然私は父の怒りの矛先が自分に向かないよう、父の前でいい子であろうと努め、常に顔色を伺い、息を潜めて生きるようになった。
 家庭は心落ち着ける安住の場ではなく、常に敵に囲まれ張りつめた戦場のようだった。

4、弟


 そんな中でも唯一の救いは年子の弟の存在で、幼い頃は二人でよく遊び、共に時間を過ごした。彼は私とは違い、明るく積極的、お調子者ですぐに誰からも可愛がられる愛されキャラだったので、その陽気な雰囲気に寡黙な姉は度々救われていた。いや、家族全員が癒されていたのだろう。
 私は弟が羨ましくもあり、しかし疎ましくもあった。
いつも自信満々に伸び伸びと成長していく弟に比べ、私は自分が無能で価値がない人間に思え、常に劣等感を感じながら成長していった。
 姉として尊敬されるところなど一つもなく、冗談のつもりだったのかもしれないが、「デブ」などと弟からからかわれたりバカにされたことの一つ一つが、いちいち心に引っかかり、ナイフのように突き刺さった。自分はデブだと思い込み、その後終わらないダイエットループを繰り返すようになった。いくら周りからは太ってないよと言われても、無理だった。意固地にダイエットに取り憑かれた。
弟との思い出はそれくらいだ。

 弟は小学校高学年に入ると、自らの意思で組織から距離を置き始めた。
クラブ活動でのやり甲斐や友達との交友関係を優先していくようになったのだろう。
そんな弟を横目に、私は組織と神への信仰をより強固にし、見えないものへの信仰心を拠り所として生きるようになった。

 一方自分の意思で組織を出た弟は、その勇敢さ故、父からの熱い信頼と尊敬を受けるようになり、同時に将来を嘱望された。
 文武両道で優秀な弟は、期待以上の成績を出し続け、最終的にN○Kに就職。報道記者として活躍するようになった。裏で父からの口利きがあったりなかったりしたらしいことは私の知ったことではない。
 彼はいわゆるこの世的な成功者で、幸せな家庭も築き、一見、何もかもを手に入れたかのように見えた。

5、母への葛藤


 中学校以降の私は、学校での生き辛さを抱えながらも、信仰生活に熱心になり、中学2年の時に『バプテスマ』、いわゆる洗礼を受けることとなった。
そして伝道活動にも励み、夏休みや冬休みなどは機会を捉えて『補助開拓者』として月60時間(当時)を活動に費やすこともあった。
 それは熱心な母親を見習って…といった純粋で美しいものではなく、母親への無言の抵抗でもあった。

 奉仕(戸別伝道活動)は、好きなわけではない。むしろ、今でも夢に出るくらいトラウマだし、嫌いだった。けれど、物心つく前から母親に連れられ毎日当たり前にやっていたライフワークだったので、嫌だと思う感覚器ももう錆び付いてバカになっていたのかもしれない。
 同級生の家を訪問してしまった時の気まずさと言ったらこの上ない。同級生の自宅がどこにあるかは殆ど把握していた。そこはあらゆる手段でなるべく全力回避していたからだ。
 また当時、伝道で入った家の主が若い男性で、下半身を露出して出てきたり、家に引きずり込まれそうになったりといったプチ事件もちょこちょこと発生していた。
そんないろんなリスクを背負いながら、伝道活動を行っていた。
 今思うと本当に狂っているが、自分にはそれしかメンタルを維持する方法がなかったのだ。がむしゃらに活動に参加する事で、会内からは認められ、一定の評価は得られるため、ちぎれ飛びそうな精神をなんとか維持出来ていた。
 母親から褒められた事は全くない。本当は母に一番褒めて欲しかったのかもしれない。でもそれも期待はずれな願いである事はとうに気付いていたので、一段上に立ち、母を黙らせるためにやっていたのだろうと思う。私にはそれしか手段が無かった。

 私は母の笑顔を見たことがない。母親であれば子に対し自然に向けるはずの、にこやかな微笑みや温もりが、全く記憶にないのだ。いつでも鬼の形相だった。
 「ありがとう」や「ごめんね」も当然ない。言葉はいつも命令口調だった。
幼い頃はその異常さに全く気付かなかった。それが当たり前の日常風景。
宗教で崇高な愛の教えを学んでいるはずの熱心な模範的信者は、いつも怒りと不満とイライラを娘に撒き散らした。私は決まって母のストレスの捌け口だった。
 子供の気持ちよりも何より自分の感情を優先し爆発させる、猪突猛進で超自己中心的な母の性格に、いつも振り回された。
 私の我慢強く、じっと耐える性格も“悪さ”してか、余計に母は私の心をサンドバッグのように殴り続けた。

 組織内の同世代の家庭と比べては、「どうしてうちはこうなのだろう」と疑問だった。親と笑顔で話したことがない。自然に笑い合って話している楽しそうな親子がとても羨ましく、不思議な気持ちで眺めていた。
 喜怒哀楽という言葉を借りるなら、怒と哀だけがいつもそこに横たわっていた。
 幼い時から、母親に抱きしめられた記憶がなかったため、小学生の頃、自分から抱きついてみたことがあった。すると、瞬時に体を引きはがされ、腕を振り払われたのだ。
この時のショックで、もう二度と自分から母親に甘えたりしないと決め、同時に母は私のことなど愛していないのだと確信した。母が持っているのは自己愛だけなのだと。
 親子の関係というモノは、どうやって構築されるのだろう。おそらく、赤ちゃんのときから母親の愛情をたっぷりと感じ取って、愛を知り、愛を吸収し、そうして初めて親に返していく事が出来るのではないかと思う。
 私には愛の貯蓄が全くなかった。空っぽだった。返せる愛は持ち合わせていなかった。

 小学5年生の頃、初潮を迎えた。
 世の中では、初潮を迎えた女の子の家庭で、その日赤飯を炊いてお祝いするらしいということを知って衝撃を受けた。
 なぜなら、初めて生理になった事を母に報告した時、何とも言えず不愉快そうな反応をお見舞いされたからだ。もちろん、お祝いなどという事はあり得ない。母は私を不浄で如何わしいものでも処理するかのように侮蔑的に扱った。
 一番安く性能の低い生理用品を1種類だけ買い与えられた。言わずもがな、生理用品には用途によって、大きさや形にいくつも種類がある。母はいつも決まって“羽なし”で一番小さいサイズのそれを一袋だけ買ってくれた。それでも買ってくれるだけ良く、通常、在庫が尽きてもこちらから頼まなければ補充してくれる事は無かった。私は毎月生理の度に買ってと頼むのが苦痛で仕方なかった。なぜなら汚いものでも見るかのように私を扱う母に、『私は今不浄です』と宣言するようなものだったからだ。
 毎月、母から陰湿なイジメを受けているようだった。生理用品を買い足してくれないのは明らかに母の嫌がらせで、買うのも本当に嫌々で、煩わしいと言った態度だった。
 10代の頃は生理も重く、非常に不安定で、1ヶ月に2回来たり、一度の生理が2週間続いたりしたこともあった。授業中、あまりの腹痛に気を失いそうになり、保健室になど殆ど行った事のない私が、授業途中で退室の許可をもらったほど、痛みにのたうち回るような時もあった。
 本当にしんどくて痛くて苦しいのに、母の嫌がらせはさらに苦しみを倍増させた。あの頃は、生理用品を自分で買うのにとても勇気が要り、恥ずかしいことだと感じていた。それは紛れもなく、初めての生理から母に歓迎されなかった事が大きく影響していると断言していい。毎度の生理に纏わるストレスは相当なものだった。女に生まれた事を心から疎ましく感じていた。
 大体にして、「ナプキンを買って欲しい」という単純な日常会話でさえまともに交わせない程に、歪んだ親子関係であったのだ。

 母がなぜ、大人の女性になっていく私の成長を歓迎しなかったのか、今なら思い当たる節がある。母は、私と弟を産んでから子宮筋腫を患い、子宮を全摘出した。それからと言うもの、もちろん生理はないし、女性ホルモンのバランスの崩れで、いつも体調が悪く、ストレスやイライラを日常的に抱えていた。
まさか、だからといって、生理の始まった娘に嫉妬したなどとは思いたくもないのだが、母の態度の一つ一つはそう思わせる程に、私への憎悪に満ちていた。子供への気遣いや愛など、砂粒程も無かった。ただただ、生んでしまった娘を育てなければならない事へのストレスと、常に戦っているように見えた。

 中学校に上がっても、もちろん学友との交遊も部活動も許可されるはずはなく、私はどこにも逃げ場の無いその鬱屈した感情を、当然親などではなく、組織内のお姉さん的な立場の人たちに打ち明けるようになり、余計に母親への嫌悪感は増していった。
 私の居場所は学校でも家庭でもなく、エホバの証人という組織の仲間の内にしかなかったのだ。仲間と居る時だけが、唯一自然と笑顔で居られる時間だった。
 ところが母は、今度はその交友関係にも嫉妬するようになり、誰々とは付き合うな、遊びに行くなと干渉するようになった。
 時に号泣しながら「そんな風に育てた覚えはない!」と喚き散らし、ものすごい剣幕で延々と説教した。
 そしてそんな日の翌朝は大抵、自室の机の上に、母から自分の感情を吐き捨てるように書き綴った何枚もの手紙の束が投げ入れられてある。極めて一方的に、ネガティブな感情をゴミ捨て場かのように放り込んでくる。とにかく、自分の気持ちを娘に分からせようと必死だった。

 学校でも信仰者の立場を守り、浮いた存在にならないよう、必死に周囲に溶け込んで生きているというのに、組織の中の人間関係にも厳しく裁きの目を向け自由を奪ってくる母に、私は毎日怒りとストレスで満載だった。どこにもやり場がなかった。
 気が狂いそうな程の慟哭を一人噛み殺し、時に刃物で自分の手を切りつけ、生きているのか死んでいるのかも分からないような荒れた日々を過ごしていた。
 それでも母は、私の傷など知らん顔だった。

 私はどんどん心を硬くし、氷の女王よろしく自分の周りに鉄の城壁を張り巡らせ、誰にも入られないよう、誰にも傷つけられないようにと、自分を守るのに懸命だった。
私は言葉を捨てた。何も喋らなかった。一つ言葉を呟けば、100殴り返して来る母親の前で、もはや言葉を使うことを放棄した。
 私のその態度が余計に母を逆上させ、「あんたが何考えているのか分からない!」と度々発狂していたが、それでも私が感情を表に出すことはなかった。何を言っていいのかも、どう言えばいいのかももう分からなくなっていた。
 母も私のことを何も知らない。

6、若い信仰心


 あの頃の自分を生かしたものは何だったのか。
それは紛れもなく、神への信仰と聖書の中の「自殺は罪」という教えだった。この言葉がいつも錨のように心の底に深く突き刺さっており、自分の衝動を抑えてくれた。
 その教えを知らなければ、私はとっくにあの世に還っていただろうと思う。

 いつも考えていた。『家族』というものは一体何のために存在しているのか。
あの頃の我が家は、ただの無関心な同居人の集合であり、誰もが互いの存在を無視し合っているようだった。
 反抗期の弟とは、数ヶ月全く口を効かなかったこともあるし、暴力で怒りをぶちまけられたこともあった。
 それでも母は知らん顔だった。むしろ弟を庇い、弟をキレさせた私を悪とした。

 『愛』という言葉について時々想いを馳せた。それが何物なのか、この身体で実感出来た事は一度もなかった。本当に愛など欠片もない家庭だった。
私は自分の内側にある愛を扱い切れずに、どう生きていいのか分からず、毎日感情が暴れだしそうで、心の中は地獄が渦巻いていた。
 ただただ「強くなろう。強くなろう。」と泣きながら必死に自分に訴えかけた。
 そんな時は決まって、手の平にキラキラと金粉が煌めいていた。

 私は、母親のことは半ば無視しながらも、自分は自分で神に頼り、信仰を強くして、活動信者になることで、家庭では得られない自己肯定感や自尊心を埋めようとしたのだろうと思う。
 私にはエホバしかなかったのだ。
 そうして、二十歳を過ぎた頃、母と同じ『正規開拓者』になった。
それが2世として辿り着くべきゴールだと思っていた。

7、洗脳の後遺症


 10代の頃、自分はなぜか二十歳までは生きられないような気がしていた。
これは2世特有の感覚なのかもしれない。
エホバの証人では、大学進学や正規雇用の職に就くことを推奨されていない。
そんな道を選べば、文字通り白い目で見られる。
高校を卒業したら、正規開拓者として全身全霊を宗教活動に捧げるように勧められる。
そうする事が『立派な若者』として賞賛されるような風潮だった。
そうであるので、自分がやりたい事や夢など叶えられるはずもなく、それはいつ訪れるのかも分からない『楽園』が来てからやるようにと言われ、静かに葬られるのだ。
ただただ楽園だけを切望し、今を全て諦める癖がつくため、未来を描けない。描いてはいけないので心が急ブレーキをかけるのだ。

 私の場合、ピアノだけは宗教活動をしていくのに助けになるからと、母が5歳から習わせてくれたが、世の子と接点を持つような事は一切させてくれなかった。(ピアノの先生も教団内の仲間の信者だった。当時はピアノが流行っていた)
 入りたい部活はたくさんあった。無駄に運動神経がよかったので、先生の方からお誘いの言葉を頂いたりもした。喉から手が出る程入部したかったが、すべて見て見ぬ振りを決め込み、「興味ないから」と精一杯恰好を付けて一蹴した。
弟には許可されたが、私には許されない、そんな理不尽が我が家には沢山あった。
 自分の能力や特技を生かしたい、試してみたいという感情は全てモグラたたきの如く叩き潰した。私はピアノにだけ没頭し、何年も相棒のYAMAHAに思いの丈をぶつけた。

 こんな風に、エホバの証人の2世の子供達は、周りと団結して一生懸命何かに向けて努力したり、本気で取り組んだりするという体験が殆どないので、どこかふわふわして無気力で、生きる希望や勇気を失っているように見える。
 一体自分は何のために生まれてきたのか。自分というアイデンティティを抹殺し、ただ組織の支持に従って生きる家畜人間。奴隷そのもの。
見事な人間牧場の出来上がりだ。
 当時はネットなどまだ無かったし、組織からはエホバの証人から出る出版物以外は決して読まないようにとの伝令が出回っているため、外部からの情報を仕入れる術がない。
私も子供ながらに、世の書物には恐ろしい情報が書いてあり、それに少しでも触れるなら、悪魔にヤラレルのではないかとの危機感を感じていたのを思い出す。

 私は、神と言う存在そのものは心から信じていたし、いつも心の中で対話をしていた。
しかし、この『エホバの証人』という組織に対しては信頼を置けず、むしろ聖書の解釈や予言が外れる毎に「真理に新たな光が加わった」などと言って教えや予言を変更してくる辺りに、何かのっぴきならない雰囲気と言うか、邪悪な想念のようなものを感じ、寒気を感じた事を覚えている。
この組織は何かとてつもない秘密を隠しているのではないか、統治体、ベテル、これらトップには何か裏があるのではないか、そんな疑惑が一瞬よぎったりもしたが、当時は確信を掴むには至らなかった。

 エホバの証人という組織は、とても閉鎖的で洗脳型の宗教である。
彼ら自身がそれを証している。協会が出す出版物以外の物を見てはならないと、厳しく規制し、それに背いて真実に気付き脱会する人の事を『背教者』と呼んで排除する。
そして背教者とは挨拶する事も会話する事も交わる事も許さない。家族であってもだ。
これを洗脳と呼ばずに何と言うのか、教えて欲しい。
教理に自信があるなら、どうぞ何でもお調べ下さいというのが本物ではないだろうか。
『幸福の科学』は言わずもがな、そういう非常に自由な宗教である。
自由は正義だ。
自由を奪うのは共産主義そのものである。

 2世として幼いときから洗脳を受けてきた私の価値観や人生観は、それはもう重篤なレベルで深刻な悪影響を受けており、生きているとそれをいちいち痛感させられる。

 例えば、10代の頃はオシャレやファッションが好きだったのに、組織内での服装に対する規制が酷く、集会に行った時のスカートの丈の長さやデザイン、髪型や髪色に至るまで、華美にならぬよう周りの大人が母親に、注意という名の告げ口をしてくるため、いつも何を身につけるべきか葛藤の連続だった。
 何より、母親の目がいつもうるさかった。
「その恰好はふさわしくありません」と鋭く睨みつけては、毎回ダメ出しされた。
好きなものを好きに身に着ける事も出来ない。
 私はもはや組織の提示する型に嵌められ過ぎており、教団を離れてからもその感覚が抜けず、気が付くと、人の目を引かない地味な色やデザインばかりを選ぶ癖が付いてしまったのだ。
それが似合っていれば良かったのだが、残念なくらい自分に似合わない服ばかり選んでいた。
 自分の好みよりも、周りに後ろ指を指されないか、目立って注意を引かないかと、人の目ばかり気にして、すっかり自分を出せなくなってしまっていた。
 そしてそれはファッションばかりでなく、自分の発言や考えなど、自分の存在そのものが人に不快感を与えないかと過度に怯えビビっては、マイルドに自分の存在感を消し、懸命に周りに合わせようとする腑抜け女に成り下がっていたのだ。

 また、元2世は社会に溶け込むのが殊の外苦手である。
この世は『悪魔の世界』で、信者以外の人は皆ハルマゲドンで滅ぼされると言われて育ったためか、はたまたこの世的コミュニティに関わる事を一切避けて生きてきたためか、一般の社会に馴染むことが出来ず、自分が浮いていると分かっていながら、一歩外から眺めるようにしか人付き合いが出来ないのだ。
何をしていても誰と居ても、虚しいという感覚が抜けない。
“今だけ金だけ自分だけ”という、唯物的な、“頭の中お花畑”の感覚ともまた違う。
どうしても社会から取り残された感がいつまで経っても拭えないのだ。
自己肯定感がとても低いのだと思う。
自分の言動で組織に悪評が立たないか、神の名を汚さないかと、常に神経を張りつめて生きてきたので、社会の中で自分をさらけ出す事が出来ないのだ。
自分で自分を認めてあげられない。自分を愛し、許してあげる事が出来ない。
自分だけがシャボン玉の泡の中にいて浮いているような感じがして、社会に溶け込めず、もがき苦しむのだ。
エホバの証人から離れても、精神的束縛、呪いは纏わり付いて離れない。
これをPTSDと呼ばずに一体何と呼ぶのか。

 それから言わずもがな、異性への接し方にも厳しかった。
エホバの証人は、教団外の人との男女交際を許さないため、まともに男性と付き合った事がなく、婚期を逃しまくった独身女性で溢れ返っていた。
 私が他の兄弟(献身した男性信者)と仲良く話していると、鋭い嫉妬の目で睨まれたり、無視されたりする事もよくあった。知らないうちに陰口の恰好の餌食になる。
「あなた、〇〇兄弟のこと好きなの?」とか「〇〇兄弟と仲良いよね〜」などとジャブを打って来る独身姉妹(献身した女性信者)は大抵、その兄弟の事がすでにお気に入りで、内心は嫉妬の炎にメラメラ燃えているのだ。
 しかし、年頃の経験の無い若い男女が集まれば、誰かが誰かを好きになってしまう事くらい当然あるし、それが自然なことである。
 ところがエホバの証人の教義では、婚姻関係外の性行為はもちろん、自慰行為も、異性に情欲を抱く事すらも断罪された。思ってもダメというやつである。
 この戒律を破った事が発覚した場合、悔い改めが感じられなければ排斥処分となる。
そうして排斥をされた若い人を何人も見てきた。集会後に自分が排斥されたという発表を聞き、悲鳴を上げて会場から出て行った女の子の声が今でも忘れられない。
一生もののトラウマだろう。
 散々檻の中で囲い込まれて生きてきたのに、ちょっと過ちを犯しただけで(一般的に言って大して悪事ではないのだが)突然、囲いの中から放り出され、断絶され、無視をされる。
 よっぽどの改心をして勇気を振り絞り、教団に戻りたいとの誠意を見せない限り、二度と戻ることは許されない。前述した通り、家族であっても口をきく事も出来ないのだ。
まあ、結果的にはそれで万々歳なのだが、そんな扱いを受けた10代の心は、少なからず深い傷を負う事だろう。

8、心の支え



 私の茨の10代を無事に生きられたのには、ある兄弟の存在があったことをここで正直に告白しよう。
私には、中学時代から憧れていた一人の兄弟がいた。その人は10歳も年上だった。
学校や家庭がどんなに辛くても、その人に会いたい一心で、認められたい一心で、活動を頑張れた。
 時々、母が若い人達を自宅に招いて『交わり』(ホームパーティーのようなものをそう呼んだ)を開いてよくもてなしていたため、その兄弟が来てくれるのが何より嬉しく、楽しみだった。
 愛情に飢えまくった私の心は、確実に彼に癒されていた。
 そして、その兄弟からも好意を感じるようになったのだ。
けれども、まだ年齢が若すぎたし、年の差の壁も感じていたので、二人の関係が簡単に発展するはずもなく、何年もプラトニックな関係が続いた。

 恋は、始まるまでが一番楽しいと思う。
 私が中学生の頃は、まだ皆が携帯電話を持っているような時代ではなかった。わずかにポケベルが流行った程度。電話や手紙でしか相手と直接交信出来る方法は無かった。でも、そういう時代を生きられて良かったと今懐かしく思う。
 友達同士でも、よく手紙のやり取りや交換日記なんかが流行っていたけれど、その兄弟ともよく手紙を交換し合うようになった。
 彼はとても字がきれいで、見ているだけで惚れ惚れする美しい手紙だった。
その手紙を受け取って、開くまでの時間がとても好きだった。母親が定期的に投げ入れて来る毒文とは異なり、その手紙を読む時はとても胸が高鳴り、ワクワクした。そして何度も何度も読み返した。
 彼は私の氷の仮面の奥に潜む、弱さや寂しさや絶望を感じ取ってくれた。
私は嬉しさと感動に包まれながら、体中に光と愛が染み渡っていくのを感じていた。

 私にもそんな純粋で心臓が痛くなるような、ときめきメモリアルな時代があったのだ。あれが私の人生で一番の青春だったのかもしれない。もうあんなに人を好きになる事はきっとないだろう。あのまま結婚していたら私は幸せになれたのかもしれないと思う時が時々ある。

 しかし、高校生になってから親の許可の元、教義を遵守する形でお付き合いすることになった私達だったが、やはり付き合ってみると理想がガタガタと崩れ始め、心は急速に冷めていったのだ。
 私の精神年齢が落ち着き過ぎていたのか、潔癖すぎたのか、10歳年上であっても、相手が非常に幼く見えてしまい、子供っぽく甘えて来る頼りない彼に、猛烈な嫌悪感を抱くようになった。
 一度こうなると気持ちの修復は非常に難しく、最後は全てが嫌になって一方的に別れてしまった。あんなに好きだったのに、こんなに嫌いになれるのかと言うくらい、大嫌いになった。
 私の心の不安定さをよく表しているなと今なら彼に同情する。
10代の頃は、感情の起伏がとても激しく、火のように燃え上がったかと思えば、氷のように冷淡になったりと、その両極端な性格はかなりな取り扱い注意人物だったであろう。とにかく、一度嫌いになるともうダメで、目を見るのも無理になってしまったのだ。

 彼が最近よく夢に出て来る。あれから20年以上も経っているのに。今更どうしたものかと思うが、もしかしたらもう亡くなったのかもしれないと、ふとそう感じた。(もしご健在なら前言撤回します)
 何らかの不成仏感が残っていて、私に何かを訴えてきているのかもしれないと思い、懺悔の気持ちを込めて彼の事を書く事にした。
 あの頃、あなたのお陰で、辛い学生時代を生き延びられました。本当に死にたいくらいしんどかった時、神様はあなたを通して私に愛を届けてくれたのだと思います。
ずっと私の味方で居てくれてありがとう。愛と感謝を送ります。


 私の心の支えだった存在がもう一人。それは歌手の安室奈美恵さんだった。
中学2年の時、彼女の歌を初めて聴いた。全身に雷が落ちたような衝撃を受け、それから彼女に釘付けになった。
 私にとって彼女は完璧だった。
 出る曲出る曲ずっと追い続け、擦り切れる程CDを聴きまくった。
なんであんなに気になるのか、彼女以外の歌手も聴かないわけではないが、安室ちゃんの曲だけは特別で、なぜか使命感のように毎回完コピしていた。
 10代だけでなく、20代、30代とその後もずっと彼女は私の人生の支えとなった。
辛い時も嬉しい時も、いつも彼女の曲と共に歩いてきた気がする。
曲が好きだからというのももちろんあるが、安室奈美恵という女性そのものが私の目指す理想の女性像のような存在だった。彼女は私のミューズだった。
 波瀾万丈だった彼女の人生に自分を重ね合わせ、強く気高く美しく、唯一無二な彼女の姿に憧れつつ、私は私で強く美しく生きていこうと、胸を張って向かい風の中を進む事が出来たと思う。彼女が居てくれて本当に良かった。

 ♪だけど私もほんとはすごくないから
  誰も見た事のない顔 誰かに見せるかもしれない

  前世があったら 絶対にmaybe stray cats路地裏の…
  熱い気持ち心に coolな態度はプロテクションに…

  だけど私もほんとはさみしがりやで
  誰も見たことのない顔 誰かに見せるかもしれない♪

言わずと知れた、代表曲『SWEET 19 BLUES』。
当時、泣きじゃくりながら歌っていた彼女の気持ちが、自分のそれとシンクロし、よく一緒に泣いていた。私の心を代弁して歌ってくれたのかと勘違いすらした。
 生きている環境は全く違ったが、いつも彼女の存在と歌が私を支えてくれた。
素敵な曲はたくさんあるが、この曲は安室奈美恵という女性を象徴するような、彼女の魂が吹き込まれた曲のように感じる。私はこの曲に心を救われた。

 幸福の科学で学んで、近年になって安室奈美恵が『ナミエル』という宇宙存在の分身である事が分かった。その存在は、私の宇宙の起源に少なからず関係があると思われる。
 自分が幼い時から好きな事や特に興味のある事や人は、過去世や宇宙時代など、生まれる前から何らかの縁があるらしいと知った。なるほど、それなら納得だと思った。
 彼女のことを電撃的に好きになった事は、私にとって地球での大変貴重な宝物だ。

 40歳で引退してしまった時は本当に寂しく思ったが、美しいまま身を引くそのプライドがとても彼女らしくて、好きだと思った。
 同じ時代、同じに国に生まれた事、素晴らしいパフォーマンスを魅せ続けてくれた事に心から感謝したい。

 嵐の10代、私がなぜ狂いもせず真っ当に生き延びられたのかと問われれば、この二人の存在があった事は見過ごせない事実である。改めて、心からの感謝を送らせてもらいたい。

 それ以外にも、組織内の仲間の友人達や、自分の守護霊や天使など、様々な存在達に見守られ支えられてきたことにも、感謝したい。
 自分一人で乗り越えたつもりでいたけれど、実際は本当に多くの人に見守られ、応援されていた事を今思い知らされている。

 私はよく手の平に金粉が出る。それは汗の粒などではなく、金色の砂のような粒がキラキラと出てくるのだ。量が増えると顔の表面や服にも付いていたりする。拾った葉っぱや作った料理の上に乗っている事もある。
 それは、光が現象化したもので、仏教的に言う色即是空、空即是色。あの世の守護霊や天使達などの応援や祝福の光が多くなればなるほど、金粉としてこの世に姿を現し見せてくれるらしい。
 なぜあんなにしんどい時に、手の平がキラキラしていたのか、幸福の科学で学んでやっと繋がった。今では魂が心から喜んでいる時に、よく金粉を噴出させる。
私は生きながらにして、あの世とこの世を行ったり来たりしているのかもしれない。

9、脱会へ



 22歳の時、その当時交際していた別の兄弟と結婚し、地元を離れることになった。
 膨れに膨れ上がった母親との険悪な関係、居場所のない家庭環境、またその頃発生した仲間内での人間関係トラブルも重なって、私は逃げるように遠く離れた関西の地に赴いた。
 地元を離れる事には何の抵抗も無く、むしろ永い呪縛からやっと自由になれる開放感で心は晴れやかそのものだった。結婚は確かに早かったが、全ての束縛から自由になるにはそれしか方法がなかった。

  『兄弟』と結婚したのは2004年7月7日のことだった。
 彼も『正規開拓者』として活動しており、彼の地元から私の地元である札幌の『会衆』に派遣された2世信者だった。そんな中出会った二人だったが、結婚を機に、関西に居を構えることに決めた。そうすることが私にとっても良い事のように思われたからだ。
 そうして開始された新婚生活であったが、最初の数ヶ月は幸せに過ごしているように思われたが、だんだんと夫の宗教に対する価値観を知るにつけ、心の距離を感じるようになっていった。

 夫はいわゆる宗教2世。両親とも熱心な活動信者で、父親は会衆内トップの『長老』と呼ばれる役職者であったのだが、夫はと言うと、自分自身の信仰心から宗教活動をしていたわけではなく、両親への義理で宗教をやっていたという事実が徐々に明るみになってきた。
 当時、近所に住んでいた義両親の実家に遊びに行き、よく一緒に食事をしたが、宴が熟して来ると、夫と義父の間で口論に近い言い合いが始まるのだ。
夫の「まだ幼く知識も判断力もない年齢から宗教をやらされた」という主張と、義父の「親だから良いと思うものを子供に教え込むのは当然の事」という主張を延々とぶつけ合うのだ。
 いくら話しても交わる事のない平行線の議論を、お互い決して譲る事なく繰り広げるので、いつもちゃぶ台をひっくり返したような惨状だった。
 そうした爆発を何度も繰り返し、次第に夫は活動に足を向けなくなり、私も子供が出来たタイミングもあり、宗教活動から離れていった。
 組織そのものには問題はあるとしても、幼い頃から当たり前に神を信じていた私に、神など信じていなかったと暴露した夫の言動はとても信じられず、辛く悲しいものだった。組織や両親への不満ならともかく、信仰心だけは持っていると信じたかった。
 しかし、結婚したばかりで夫婦が価値観を異にするのは良い事ではないと判断した私は、夫の意思決定に従い、宗教や神という存在に一旦“蓋をする”ことにしたのだった。
そうして自然に『エホバの証人』からフェードアウトした。
結婚1年目の出来事だった。

10、新世界へ



 エホバの証人を辞めてから、20年が経とうとしている。
幼少の時から最前線で活動していた私の潜在意識には、その体験が深く刻み込まれているようで、未だに悪夢を見る。
 よく見る夢は、伝道をしている夢。地域を歩いて回り、一軒一軒隈無く訪問した体験を夢の中でも繰り返す。出てきた家の主がとても怖いおじさんで、怒鳴りながら追いかけ回され、逃げようとするが、走っても走っても足が前に進まないという悪夢を見る。そんな恐怖と戦いながら活動していたのかと今さら不憫に思う。

 そして『王国会館』と呼ばれる集会所に集っている夢。もうその建物自体は建て替えられて存在していないのに、そこに通っている夢をよく見る。当時の信者達もよく登場する。嫌味を言ってストレスを発散していた意地悪な中年の独身長老。小さい頃お世話になった近所の信者仲間。嫉妬に狂っておかしくなった独身姉妹。等々。
 私は子供時代に楽しく遊んだ記憶や、好きな事をして楽しんでいる夢などは一つも見ないのだ。そもそもそんな経験がなかったと言えばそれまでなのかもしれない。
 子供時代の体験って本当に大事なのだなと痛切に実感している。

 最近になって、また世間では宗教叩きが活発になり、宗教2世がクローズアップされた。私にしてみれば、何を今更といった感じなのだが、こういう波はファッションと一緒で10年、20年単位で巨大ウェーブのようにやって来るものなのかなと感じる。
 組織の囲いの中で育てられた2世にとって当たり前だった世界観も、外から見てみると、いかに偏狭で歪んだ世界だったのかと思い知らされる。物語の主人公が突然絵本の世界から現実世界に摘み出されたような感覚。
 そう、私はまさに物語の中にいた。作り上げられたストーリーの中でそれが真実だと信じ込まされ、掲げられた希望だけを頼りに生きてきた。でも、それは全部嘘だったのだ。その衝撃は計り知れない。

 組織を離れてから20年、あえてエホバの証人の教義や歴史の真偽について調べようとはしなかった。知りたくもなかったし、直視してまともな精神でいられる自信はなかったので、見て見ぬ振りをし続けてきたのだ。
 しかし、幸福の科学に入って、エホバの証人という宗教を客観的立場に立って眺めてみた時に、改めて邪教であったと認める事が出来た。認めてしまうと、自分の人生の半分を捧げてきた生き方そのものを全否定されるようで、というより自分自身を否定されるようで、その現実を直視出来なかったのだろうと思う。
 しかしやはり、エホバの証人は『悪魔教』であると断言すべきである。

 私には疑問に思っている事がいくつかあった。
 エホバの証人の聖書は独特の解釈がされており、自分達の教義に合わせて聖書の解釈を曲解している。その独特の聖書は『新世界訳』と呼ばれている。なぜ、『新世界訳』という名称なのか、ずっと疑問だった。どこにも答えはなく、しかし絶対に深い意味が隠れている気がしてずっと引っかかってきた。
 それが近年になって、イルミナティでありフリーメイソンでもある初代会長チャールズ・テイズ・ラッセルのことを調べているうち、ふと『新世界秩序』と関係しているのではないかと気が付くようになった。
 彼ら独自のこの聖書は、新世界秩序を目指す世界のパワーエリート達によって、文字通り統治後の新世界で、この聖書を教典として使おうとしているのではないかさえと考えるようになった。
そうしてお得意の新解釈を何度も繰り返し、最終的には『エホバ』の正体は『サタン』でした〜とまで言い出すのではないかとすら妄想してしまう。

 そう、『統治体』という名称も不思議で、支配的な響きだが、その存在は最高位のフリーメイソンにも似て、末端信者には何をしているのか謎であった。新世界での統治を目指すエリート集団を意識しているとしか思えない。
 彼らの目指す新世界秩序。その模擬演習のようなものをエホバの証人という宗教を通して行ってきたのではないかとそう思っている。我々は実験台なのだ。

 血に関して過剰に反応する独特の信条も、子供の血をアイする悪魔崇拝者達の隠されたサインなのではとさえ勘ぐってしまう。“純血”を守ったエホバの証人の子はいつか犠牲として捧げられてしまうのではないか。子供をゴムホースのような物で平気で殴れる洗脳のバッチリ決まった盲従的な親達は、今度は「子供を生け贄として捧げよ」と言われても平気で差し出すのではなかろうか。もう、悪魔の思う壺でしかない。

 エホバの証人はそれほど強く寄付やお布施を募らない。「布教活動が信者からの寄付で成り立っている」とは言いながら、それは強制されることはなく、あくまで自発的なものである。
 しかし、これだけ沢山の書籍類を全世界にフルカラーで印刷しまくり、全国に自前の集会所やら大会ホールやらを次々建てる資金を一体どこから得ているのかと素直に疑問だった。
 それも、フリーメイソンとズブズブな関係であることが分かり、すぐに合点がいった。
永年に渡って、莫大な資金がフリーメイソンからものみの塔協会に流れていたのである。
もうエホバの証人そのものが、一つのフリーメイソンなのだと解釈した方が早いのではないか。ものみの塔とフリーメイソンは切っても切れない相互に依存し合った協力関係なのだろう。
 ラッセルが初期に出版した『ものみの塔』誌の表紙には、フリーメイソンの騎士団を表すシンボルが描かれているのは有名な話であるし、『ものみの塔』という名称そのものが、ヘブライ語で『ミズパ』を意味するが、フリーメイソンの機関誌『ミズパ』を見本として作られたらしい。それもオカルト的な秘密の魔術と関係が深い。

 調べれば調べるほど、闇は深く、完全に悪魔教であるとの確信が深まって仕方無い。
極め付けは、よく指摘されるデンバー国際空港に描かれた新世界秩序の壁画と、エホバの証人の出版物に使われる挿絵の類似性である。
小さい頃からその挿絵を見慣れた私にはすぐにそれと気が付く。これは似ていると。
その絵があまりに気持ち悪いので、ここでは深く取り上げないが(興味ある方は調べられたし)、闇の勢力が思い描く新世界は、今エホバの証人を使って虎視眈々と計画を進行しているのだなと推測せざるを得ない。
彼らは宗教を使って、世界統一政府を作ろうとしているのだ。

以上が、エホバの証人を脱退してから20年、その間一切、現役信者からの話を聞いたり出版物を見たりする事のなかった私が妄想する、この組織の未来予想図である。
現在実母とも絶縁しており、実際に教団内が今どのような動きをしているのかは承知していない。昔といろいろ変わっている部分も多かろうと思うが、闇の深さに関しては一層その暗さを増しているのは間違いないだろう。

11、ひかりへ



 私がなぜこうした体験を書こうかと思ったかというと、『エホバの証人』という宗教で苦しんでいる人を一人でも救いたいと思ったからだ。
 私自身、エホバの証人を脱退してから後も、夫からのモラハラ、離婚、彼氏からのDVなど度重なる苦難困難を体験してきた。(それについては別途書こうと思う)
 しかし、光のほうを進み続け、今は穏やかに幸せな生活を送っている。
私の体験を読んで、少しでも何かの気付きや救いになったらと願う。
 人生は決して暗闇ではない。必要な経験を通して幸せになるために生まれてきたのだ。
 今悩んだり苦しんだりしている人が居たら、それは必要な経験で、そこから学びを得、成長し、幸福になるためにある一瞬の試練なのだと知って欲しい。
 闇は光には勝てない。

 そして、今組織内に居る人、組織から出ようか迷っている人がいたら、早く目覚めて欲しいと心から願う。深いマインドコントロールから一日も早く自由になって欲しい。
 真の宗教にマインドコントロールは必要ない。自分が心からそうしたいと願って喜びのうちに信仰するはずなのだから。
 私はエホバの証人から脱却出来て本当に良かった。未だにトラウマに苦しむ事も確かにあるが、組織の中にいたからこそ経験出来た事や、苦しむ人の気持ちも理解出来る。
 そして何にも縛られないことの自由を知った。自由は正義だ。
 もっと楽に生きていい。自分のやりたい事をやって、行きたい所に行って、会いたい人に会って、自分がしたいと思う事を思ったままやっていいという最高の自由を、思う存分楽しんでいいのだ。
自分を楽しませてあげていい。笑わせてあげていい。自分らしく生きていい。
 そうやってワクワクキラキラしながら与えられた人生を楽しんで初めて、人は神に生かされている事を感謝出来ると思う。恐怖や束縛でコントロールする狭量な神は、神ではなく悪魔である。

 この世で一番大事なのは、正しい信仰心だと思う。死んであの世に持って返れるのは信仰心だけ。それを掴むために人はこの世に生まれて来る。間違った信仰からは離れ、真実を掴み取って欲しいと心から祈る。

さあ、檻の中から飛び立とう。
“正しさ”はエホバの証人の中にではなく、外にある。
背教者や排斥者などと呼ばれる事を怖れないで。
人生は何度でもやり直せます。
あなたの幸せを心からお祈りしています。

いいなと思ったら応援しよう!