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西尾維新『掟上今日子の鑑札票』雑感

 だって、本どころか、誰かの書いた読書感想文を読んで、自分が読破したつもりになることだって、人間にはできるのだ──本を持っていなくてもグッズを持っていれば、それで愛読者のつもりにだってなれる。僕達はいったい、読んでない本の名言を、どれだけ引用している? 未読であろうと知った風に語れる本こそが名作である、なんて見方もある。



 前作『掟上今日子の設計図』以来、およそ1年ぶりのシリーズ第13弾。
 『設計図』巻末の刊行予告では『五線譜』『伝言板』の2タイトルが発表されていたけれど(『五線譜』は第10巻『色見本』の時点で予告されていた)、今回も突発的に新タイトルが刊行される形となった。
 雑誌『ダ・ヴィンチ』の作者インタビューによると、その2作は手詰まりになったとのことで、本作中でもネタにされている。物語シリーズ然り、新刊が予告通りでないのは西尾維新作品にはよくあることだ。
 ちなみに、今現在予告されている最新の作品は『掟上今日子の忍法帖』(会員限定小説誌Mephisto Readers Clubにて)である──本シリーズのタイトルの法則からして、そのタイトルのまま単行本化しそう。

 タイトルが予告されていた時点で、鑑札票という言葉に馴染みのない自分は、前作ラストで厄介が飼うことになった犬が関係してくるのかなと予測していたのだけど(Googleで検索するとそういうのばっかり出てきたので──今ではこの本のことばかり出てくるが)、そのタイトルの意味するところはドッグタグ──兵士を識別するための認識票。すなわち、本作は戦争にまつわる物語である。
 何故今更戦争が関わってくるのかと言うと、それが掟上今日子の失われた過去に他ならないから。

殺人未遂事件の容疑者にされた青年・隠館厄介。
いつも通り忘却探偵・掟上今日子に事件解決を依頼するも、 その最中、今日子さんが狙撃されてしまう。
一命を取り留めた彼女だったが、最速の推理力を喪失する。
犯人を追う厄介の前に現れたのは、忘却探偵の過去を知る人物だった──。
(Amazonより引用)

 というわけで、シリーズ第13弾にしてようやく今日子さんの過去が語られる。
 第1巻の『掟上今日子の備忘録』で、厄介の友人である出版社の編集長・紺藤さんが数年前に海外で今日子さんに似た人物に出会ったことや、置手紙探偵事務所の寝室の天井に『お前は今日から、掟上今日子。探偵として生きていく。』といった謎の文字が書かれていたことなど、様々な伏線が張られていたのが、ここに来て回収される──いくらなんでも明かされるのが遅過ぎないかとなるけれど(私の場合、明かされないままシリーズが完結する可能性も想定していた)、そもそも主要人物からして彼女の過去を明かしたがる人物が存在しないので⋯⋯。
 
 記憶が1日でリセットされる故の守秘義務絶対厳守や、最速の解決を売りにする忘却探偵にとって、過去とは基本的に不要なものである。いっそ邪魔だと言ってもいい──常に今日を生きる彼女に、昨日を振り返る時間はない。
 だから、他の誰かが意図的に掘り起こそうとしない限り、過去に迫る展開なんて起こりようがないと思っていた。しかし、常連の依頼人である隠館厄介も、専属の警備員である親切守も、進んで過去を暴くような人物ではない。
 可能性があるとすれば、かつての今日子さんの関係者くらいのものだろう。
 ⋯⋯その「関係者」がまさかこんな唐突に、力尽くで現れるとは。


 本作に登場する、掟上今日子の関係者。
 FBI──連邦捜査局のエージェントを名乗る日系の小男、ホワイト・バーチ
 そして、掟上今日子がまだ掟上今日子でなかった頃、彼女のファミリーだったと語る戦争犯罪人ホワイト・ホース

 それぞれ本名ではなく(ドッグタグ)、ホワイトは今日子さんのカラーに由来している。
 ホワイト・ホースは白馬(の王子様)からではないかと作中で厄介が推測しているのに対し、ホワイト・バーチについては、作中で直接触れられていないが、これは白樺を意味する英語である。
 白樺は落葉樹の一種にして、1900年代に存在した、人道主義、理想主義、個人主義といった文芸思想の一派の名称(白樺派)でもあり、これは近い時期に誕生した写実的、生活密着的な短歌の学派であるアララギ派の対をなす。

 アララギと言えば、ご存知物語シリーズの主人公の名前(阿良々木暦)であり、ホワイト・バーチとは彼を示唆するネーミングになっていると言えるだろう。
 他にも、冷蔵庫をひっくり返すほどのパワーを披露したり、ツンデレのワイフと8歳の娘(某吸血鬼のことだろうか)を持っている、友人からチャイルドマレスター扱いをされたことがあるといった発言など、かなり露骨に匂わせてきている。

 匂わせと言えば、帯の時点であからさまに物語シリーズに寄せられているが⋯⋯。

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 なぜ物語シリーズが関わってくるのか。
 ⋯⋯まあ今更言うまでもないのだが、両シリーズの読者の間では、掟上今日子の正体は物語シリーズのヒロインの一人である羽川翼なのではないかといった説が有名なのだ。

 そのフラグは第1巻の『備忘録』から存在しており、更には巻を重ねるごとに両者の関連性を匂わせる記述・描写が盛り込まれている。
 代表的なものを挙げると、第2巻『掟上今日子の推薦文』では、才能溢れる少年画家・剥井陸が、今日子さんをイメージしたものとして、白い猫の絵を描いている。
 第6巻『掟上今日子の婚姻届』では、警察庁の上のほうに、高校時代の同級生がいると今日子さんが話している(曰く、楽屋で聞いた情報らしい。同作では、彼女の記憶は毎朝17歳の頃に遡るとも話している──ただし、忘却体質になったのは更に後であるとのこと)。
 第10巻『掟上今日子の色見本』では、今日子さんが記憶がリセットされる前の10代の頃に紛争地域も含めた世界中を旅していたことが物的証拠として判明している。

 このうち、後者2つは本作で一旦回収された形になるだろうか。
 掟上今日子と羽川翼が同一人物であるか否かは、結局のところ本作では明言されていないし、物語シリーズを現状『業物語』までしか読めていない私は、両者の関連性を考察するラインには立っていないのだが(後の巻で羽川さんがとんでもないことになっている、といった情報は入ってしまっている)、どうだろう⋯⋯忘却探偵シリーズは、怪異の存在しない物語シリーズの世界線、とか?
 掟上今日子は訳あって羽川翼の記憶を宿した別人、というのは前から考えていた説ではあるが⋯⋯(それはなさそう)。

 
 個人的には、物語シリーズには物語シリーズとしての、忘却探偵シリーズには忘却探偵シリーズとしての完結を求めているので、今日子さんが羽川さんかどうかというのは最後まで明かさないままでいいんじゃないかなと思っている。
 忘却探偵シリーズを後から物語シリーズのスピンオフ的な扱いにするとは考え難いし(ましてやドラマ化もしたビッグタイトルを、だ)、スピンオフでもない別シリーズで主要人物のその後の人生を決定付けるというのも違うよなと思う。
 ⋯⋯うん、個人的には同一人物ではない派だな⋯⋯。関連人物ではあったとしても。

 ちなみに、両シリーズはかつて『混物語』(物語シリーズの一つ。阿良々木暦が他シリーズのヒロイン達と交流していくクロスオーバー小説)の一編『きょうこバランス』においてコラボしていて、そこで高校三年生の阿良々木暦と掟上今日子が邂逅を遂げているのだが、それを根拠に今日子さんと羽川さんを別人と判定するのは違うと思う。あれはコラボ先の時系列を意図して歪ませている小説なので(一例として、美少年シリーズとのコラボでは、高校三年生の阿良々木暦が中学二年生の瞳島眉美と交わる『まゆみレッドアイ』と、社会人の阿良々木暦が中学二年生の札槻噓と交わる『らいルーレット』が共存している──眉美と噓は、同学年である)。

 
 羽川さん説についての話は一旦ここまで。
 ここから本筋、と言うわけではないのだけども、本作における、忘却探偵シリーズとしての伏線回収というか要素の回収として、非常に重要な意味を持つと思うのが、掟上今日子のイメージカラーが白色である理由──忘却探偵が白髪である理由である。

 まず、カバーの後ろを見ると、白色の鳩が描かれているのがわかる。

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 旧約聖書の「ノアの方舟」を由来として、白い鳩は、平和の象徴として扱われることが多い。
 本作でホワイト・ホースにより語られた、探偵となる以前の掟上今日子──わずか半年で、世界の戦争の数を半分にした戦争調停人としての活躍を踏まえれば、彼女が白色である意味が納得できる。

 それは、戦争の申し子を自称する人類最強の請負人・哀川潤の赤色と、何とも対照的である(別シリーズだが)。

 
 作中で「白」という色が取り上げられたことは、記憶している限り一度あった──第8巻『掟上今日子の旅行記』で、今日子さんがエッフェル塔の設定思想を、フランス国旗に準えて解釈、披露したときのことである。
 フランス国旗における赤(ルージュ)は「友愛」で青(ブルー)は「自由」、そして白(ブラン)平等である、と。
 平和と、平等。

 
 話がやや逸れたが、そんな訳で、今日子さんは元軍人だったことが明かされたのだった(一応、確定という訳ではない──赤の他人説)。
 『tree』にある評論家の書評では、こんな異様な角度で名探偵と戦争を結びつけた試みは未だかつて存在しなかったのではないかと述べられていたが、民間の探偵が世界を揺るがす戦争兵器になり得るなんて発想は確かにブチ抜けている。
 ホワイト・バーチによれば、探偵であることによって(忘却であること、ではなく)今日子さんの本来の力が制限されているとのことだが、制約を服し、枷を課せられた怪人が、ベールを脱いで正体を現す様は、いかにも西尾維新作品のヒロインらしく、第三話のラストの展開にはゾクゾクした。

 
 第一話から第三話までは、スナイパーライフルや地雷、戦車といった戦場のツールに対し、早々に無力化された(と、思われた)今日子さんに代わり、厄介がミステリーの知識をもって対処しようとする (特に第二話は、彼らしい偏執的な意気地や、冤罪体質が存分に表れていて魅力的だった)。
 そして、第四話からは舞台を大きく移し、厄介が戦争について向き合うことになる。

「そうかしら。漫画ってそういうものなのかしら。描いている私のほうは、そこは空想だと思って描いてなかった。描いているときは、漫画のほうが現実だったもの」
「だとすると、私がいい加減に描いた漫画で、戦争が起きてしまうかもしれないじゃない。格好いいと思って、大虐殺を描いちゃった。盛り上がると思って、侵略戦争を描いちゃった。いい加減に描いたつもりはなくても、考証がいい加減だったことに違いはないんだから」

 
 その地で厄介は、意外な人物と再会することになるのだけど、彼女の登場によって、戦争vsミステリーという序盤の衝突が、戦争(現実)vsエンターテインメント(虚構)という対立軸へと発展していく。
 
 漫画家である彼女の抱える苦悩については、ついこの間までりすかシリーズや、或いは伝説シリーズを執筆していた作者だからこその実感のこもった重みというか、説得力のようなものを感じさせられた。
(沢山の言葉の中からほんの一部だけを抜き出して「これが本質だ」と言うみたいに、特定の登場人物の価値観を作者のそれだと断定するような読みかたは好きでないというか、「それは違う」と強く思うが)
 
 現実で人が死ぬこと。創作で人が死ぬこと。
 ⋯⋯昨年(2020年)12月に完結した『りすか』において、実在の戦争にスポットを当てた話があった⋯⋯あれが書かれたのは15年前のことになるけれど。

 それと、この場面で厄介が独白した、「エンタメを戦争で遊び尽くす」を地で行った作品こそが『十二大戦』なんじゃないかと思う。そして、その続編となる『十二大戦対十二大戦』はもう少しシリアスに戦争に向き合っており、その意味では本作の前身なんじゃないか(戦犯というワードも出てくる)。
 ところで、この2作品には、314の戦争と229の内乱を和解へと導いた平和主義者の女戦士が登場する──今日子さん=羽川さんというのはミスリードで、彼女こそが真の正体である可能性。
 ⋯⋯流石に世界観が全然違うし、彼女は猫ならぬ『申』の戦士であるのだが。

 
 そして終盤は、厄介とホワイト・ホース──冤罪王と戦争犯罪人、異なる世界を生き、異なる文化に触れてきた2人の、一対一の衝突および対話。
 ここでもリアルとフィクションの対立が続く──それは掟上今日子という探偵を形成するルーツにも関わる問題である。
 
 こちらもまた一筋縄では行かなくて、推理小説を中心に多くの本を愛読してきた厄介の、「どんな風に本を読んできたかが、その人間を形成する」という主張が、「いかにも識字率の高い土地柄の言いそうなことだ」と軽くあしらわれる。
 ⋯⋯作家にして哲学者であるサルトルの言葉を元とした、「飢えた子供を前に文学は何ができるか?」という問いに対しては、「文学は子供の腹を満たすことはできないが、心を満たすことならできるかもしれない(そしてそれは文学である必要はない)」という屁理屈じみた持論を有する私ではあるけれど、しかし文学が、書物が救うことができる対象なんて、活字を識っている層、すなわち一定水準の文化レベルに達している層に限られる──本を読める時点で、我々は皆上級国民だ。そうでない多数の人々にとっては、そんなものは机上の空論ならぬ紙上のインクでしかないだろう。
 こうして、愛書家の言葉は、軍人の心に届かない。
 
 この辺りは『少女不十分』(本作で語られる忘却探偵のルーツからはこの作品を連想した)にも通ずるというか、救われざる魂達が彼らなりに救われたり、どうしようもない人達がどうしようもないなりに生き抜く物語を書き続ける作家として、矜持のようなものがあるのだろうなと思う(だから本を読んで作者の思想を決め付けるようなことは以下略)。
 
 ──話を戻し。これは単に自分が「ケッ! まーた読書家連中共が『本の素晴らしさ』『読書の大切さ』なんてものを説いてやがるぜ」って構えているような人間だからそう思うのかもしれないけれど、愛書家の厄介に対する軍人ホワイト・ホースのような納得できる対立軸があるからこそ、その後の最後のひと押し──たしかに無力かもしれない、だけど、それでも⋯⋯といった厄介の抗い、願い、あるいは意地の押し通しが美しく際立つのである。

同じ本を、同じ人物が読んでも、ほんの少し初期条件が違うだけで、感想は真逆になりかねない。

 上記は厄介の語る読書論をほんの一部だけ抜き出したものだが、これは個人的に強く頷けるものがあった。
 なぜなら、読むタイミングが一刻でもズレていたら、読んでいるときの気分が少しでも違っていたら、今好きな本も好きにはならなかったかもしれないし、逆にあまり刺さらなかった本がその後何年も囚われ続ける一冊になっていたかもしれない、とはよく思うことだから。
 今自分が、こうして西尾維新作品を愛読し、新刊を追い続けているのは偶然の幸運によるもので、そこに「感性」やら「価値観」といった、不確かで容易に揺れ動く矮小な概念が入り込む余地など殆どないのではないか。
 初めて読んで、「これは面白い!」と感じた『めだかボックス』の第1巻が、自分の中で最初にして最後の西尾維新作品になっていた可能性すらあり得る──あるいは、その後別のタイミングで何らかの西尾維新作品に触れたとしても、同一作者だと気付くことなく通り過ぎる可能性も。

 こんな記事を書き上げたくらいには、西尾維新作品の中で語られる読書観は、スッと入ってくるものが多い──自分みたいな「好きな本はあるが、本が好きなわけではない」程度のスタンスの人間にとって、感じ入るものがあるのである。

 
 ⋯⋯と、いった感じで、忘却探偵シリーズ第13弾。
 戦争の現実を直視しながら、戦争とエンターテインメント、リアルとフィクションの対立軸を示した物語。
 平和への祈りと共存する、書物への肯定が綴られた一冊にして、鮮烈な価値観を味わわされると共に身につまされるような、切実さ溢れる一冊だった。



(余談)
 本作を読んで少し気になったことを約3点ほど。

 その1、置手紙探偵事務所があんなことになったのに、頼れるガードマン・親切守はどこに行ってたの?

 作中で登場する気配はまるでなかった彼だけれど、しかし一応ホワイト・ホースが一度だけ彼の存在を仄めかしていた。

「語り部なら他にもいるだろう。警備員とか、警部とか、自称親友とか」

 親切守を認知しているホワイト・ホースが、彼のいない隙を狙った、あるいは彼がいなくなるよう何らかの対策を講じたってところだろうか。
 親切さんが今日子さんに解雇される──忘却探偵なので当日限り──こと自体は割と頻繁にあるみたいだが(『掟上今日子の婚姻届』より)。

 もしや、幻と化した『掟上今日子の五線譜』と一緒に、卜落島に幽閉されているんじゃ⋯⋯? 刊行されない限り、永遠に⋯⋯?

 
 その2、厄介が本シリーズの歴代タイトル+αを列挙する場面について。

 あのシーン、読んでてかなり高揚したのだけど、読み返して思ったことがまずひとつ。「あれ、第7巻の『家計簿』が抜けてない?」。
 誤植かもしれないし、れっきとした意味があるのかもしれない。前者でも、作者のことだから、後から意味付けされる可能性も十分にある(登場人物表にいなかった某鈴無音々さんみたいに)。

 並びが刊行順ではなかったのも気になる。⋯⋯真の時系列順? だとすると短編集の位置付けが気になるが⋯⋯。

 因みに、幻の『五線譜』と『伝言板』もここに入っている──その語られようからして、前述の「自称親友」は伝言板の登場人物だと思われる。
 また、厄介を補完するようにホワイト・ホースが挙げた『掟上今日子のLOVE SONG』は、アニメ制作会社シャフトのエイプリルフールネタにちなんだものだと思われる。

 西尾維新さんのことなので、実際に執筆している可能性も否めないが⋯⋯。

 
 その3、厄介の冤罪体質について。

 とどまるところを知らない⋯⋯。

 初期の頃は盗難事件レベルの被害だったのが、巻を重ねるに連れて殺人や殺人未遂の容疑をかけられるのも最早珍しいことではなくなってしまっている。
 戯言遣い並の頻度で怪事件重大事件に遭遇しているのではないだろうか⋯⋯。その上で毎回容疑をかけられる。何故闇堕ちしていないのかわからないくらい悲惨である(冤罪王を自称するなど、近作では割り切ったような振る舞いが目立つが⋯⋯)。

 本作では、『婚姻届』ぶりに彼の住宅が登場したが、以前は今日子さんにモデルルームみたいだと不審がられて、今回はFBI捜査官から気配りされたスパイの部屋のようだと称されるありさまである。
 この辺りの他者視点は『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』に対する『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』を連想して、面白くはあるのだが⋯⋯。

 彼にも幸と休息があらんことを。

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