西尾維新『新本格魔法少女りすか2』『3』『4』全話雑感
もしも全13話ではなく全50話の小説だったら、大人りすかのヴァリエーションをもっと増やしたでしょうね。未来は可変であり、少年少女はどんな大人にでもなれるというのが、少なくとも彼女が使う魔法の神髄であり、2003年の僕が書きたかった小説なのでしょうから。
(『ダ・ヴィンチ 2021年1月号』西尾維新ロングインタビュー)
雑誌『ファウスト』で連載が開始した2003年から、17年振りに(雑誌『メフィスト』で)連載が再開され、この前ようやく完結を迎えた『新本格魔法少女りすか』。
現在は『別冊少年マガジン』で漫画版(作者は絵本奈央さん)が連載されており、今もっともタイムリーな西尾維新さんのシリーズ作品のひとつを、当記事では第2巻収録の第四話から一話ごとに感想を書いていく。
noteでは2020年にノベルスで発売された最終巻の感想だけを書くつもりだったのだが(今のところこちらでは新刊の感想しか書いていない⋯⋯新刊と言うにはもう半年経っているし、タイムリーと言うには機を逸している感が否めない)、かつて↑で作品紹介ついでに第一話から第三話の感想を書いていたので、全話の感想を書いたほうが収まりが良いと思った次第である。
その結果、感じたこと考えたことを、なるべく全部詰め込もうとした。よって、というわけではないが⋯⋯例によって、自分以外の人間が読むことには向いていません、ご容赦を。
「手首を⋯⋯だが、それに、その行為に一体何の意味があるっていうのよ!」ツナギは、混乱のままに──悲鳴のように叫ぶ。こんな経験は──どうやら、初めてらしい。
「そんなの、ただの自殺じゃない! ただの自殺以外の何物でもないじゃないの!」
「自殺⋯⋯? 冗談じゃない。ぼくはたとえこの世が地獄だって、自殺はしないって決めてるんだ」
(第四話『敵の敵は天敵!』)
第四話 敵の敵は天敵!
第2巻(ノベルスは2005年、文庫は2020年の8月に発売)の最初の話。
時系列としては、第二話(vs影谷蛇之)から二週間後で、第三話(vs水倉破記)から数日後。
影谷から情報を得、水倉神檎の手掛かりとなるディスクを求めて、片瀬記念病院跡地にやってきた水倉りすかと供犠創貴は、衝撃的な光景を目の当たりにする。
vs孤高なる前線部隊・ツナギ
物語の重要人物となる魔法少女(少女?)・ツナギの初登場回。
致死量の出血をもって、10歳の少女から27歳の大人の姿に1分間だけ『変身』するりすかに対する、少女の姿から512個の口を発現する形で『変身』するツナギ。
彼女の壮観な姿が見られるのが、ノベルス版の大きな強みである──逆に、文庫版では挿絵がないことが惜しまれる。
新しく描き下ろされている表紙絵のほうで、全てのお口を開いたその姿が見られないかなとも思っていたのだけど、叶わず。まあ、本屋などで衆目に晒すにはいささかショッキングか。
物語としては、第二話の在賀織絵の一件をめぐって、第三話でりすかと衝突し、最終的に和解した創貴が、これをきっかけに、自らの判断を下す前に、りすかの気持ちを尊重するようになる。あの創貴が──天上天下唯我独尊系男子、他人を駒としか思っていない凶悪な小学五年生が。
この先にも影響を及ぼす、重要な変化である。
第五話 魔法少女は目で殺す!
第四話から数週間後。終業式当日──夏休み前日。
りすかを始めとした全ての『魔法使い』の出身地である魔法の王国・長崎県と、人間の世界を隔てる『城門』を管理する民間組織・城門管理委員会。
その重役である女性・椋井むくろと接触した創貴は、ツナギの正体や、水倉神檎の手先である『六人の魔法使い』に関する新事実を知り、そして⋯⋯?
vs『眼球倶楽部』人飼無縁
『六人の魔法使い』との、初接触、初戦闘。
その一人目となるのが、人飼無縁。
⋯⋯コアなネタを披露すると、某学園異能インフレ言語バトル漫画のキャラクター達が台頭してくるまで、西尾維新強さ議論スレで最上位候補に君臨していた男である──本人の台詞とは裏腹に。性能が初見殺し過ぎる。
本話では、西尾維新作品の中でもガチガチのバトルものである本シリーズ⋯⋯の中でも、屈指の“推理小説”的なバトルが繰り広げられる。
敵の能力を推理し、その上で対処法を考え。
考えた結果が、あの絵面なのだが⋯⋯。
新本格変態少女ツナギ。
ところで、前話では創貴の変化が描かれて、今話では彼の熱い部分が印象的なんだけど(ツナギに協力を誓った動機が熱い)、最後の最後で、根っこの凶悪さは依然健在であることを示してくるのが良かった。
大通りを歩く通行人について掘り返されたときの、彼の手のひら返しがたまらない。
第六話 出征!
第五話から2日後──夏休み2日目。第一話の地下鉄事件からおよそ1ヵ月経過。
『城門』を越えた『六人の魔法使い』の手掛かりを掴み、佐賀県から福岡県へ出立する創貴の決意が、過去回想を交えて描かれる。
水倉りすかと出会う前の、供犠創貴の原点。
魔法使いを“使う”少年が、誰も使わず──誰にも頼らず、ひとりで何でもする少年だった頃の話。
誰にも心を許さず、これからもひとりで生きていくつもりだった少年の生きかたを変えたのは、彼にとって4番目となる母親・折口きずなだった。
創貴の父・創嗣と結婚するまで、佐賀県警の少年課に勤めていた女性──これまでのどの母親とも異なり、唯一、創貴と家族になろうとした女性。
家族。
このシリーズは、作者の他作品と比較しても、家族、中でも親子といった要素が深く関わる物語となっている(西尾維新作品において、きょうだいはともかく、親子の直接的なやりとりが描かれる場面は実は極めて少ない。その意味でもこの第六話は異質)。
そもそものりすかの目的が父親探しであることに始まり。
本話で描かれる創貴ときずな、それから創貴と創嗣の関係もまた、今後に尾を引くことになる。
父と娘。
母と息子。
父と息子。
過去回想が多くを占め、魔法によるバトルがなく、親子の情と対話を描いた本話は、これまでの5話と比較すると異彩を放っている。
空気からして違う。湿っぽくて、薄暗くて、ほんのり温かい。
謎も残される。折口きずなが『予知能力』の魔法使いを自称したこと。
創貴ときずなの別れ。
きずなの予言。
⋯⋯振り返れば、露骨な部分もあるけれど。
『夜明けの船』というネーミングなんてまさしく。
ぼくは、断言するように、そして鼓舞するように、りすかの左肩に、そっと手を置く。
「あれだけの魔道書を書き写してきた──りすかの頑張りを、ぼくは知っている。未来の自分に少しでも近付くために──精一杯努力してきたりすかを、ぼくは知っている」
「⋯⋯⋯⋯」
「そろそろ──できてもいい頃だ」
りすかは、そのぼくの言葉を聞いて──一回目を閉じ、深く、考えるようにしてから──、左手を動かし、腰に挿してあった、カッターナイフを──手に取った。
(第八話『部外者以外立入禁止!!』)
第七話 鍵となる存在!!
ここより第3巻(ノベルスは2007年、文庫は2020年12月発売)収録分。
城門管理委員会の『遊撃部隊』として佐賀県を出立した創貴、りすか、ツナギの3人。
夏休み一週間経過、福岡県博多市にて、『六人の魔法使い』との激闘が始まる。
そして宿泊先に選んだキャンドルシティ博多内のホテルに突如来訪してきた敵の口から明かされる、『箱舟計画』の真相とは⋯⋯?
vs『回転木馬』地球木霙
vs『ネイミング』水倉鍵
水倉鍵。ネイミング──『名付け親(ネイミング)』。
名前からしてあからさまに重要人物そうな、創貴たちより更に幼い風貌をした少年との初接触。
ヒロインの姓を有し、語り部を扇動し物語を支配する黒幕風の存在──飄々とした、掴みどころのない性格など、物語シリーズの忍野扇との共通点が強く窺える。一応こちらが先駆者である(先に正体が明かされたのはあちらなのだが)。『傾物語』で初登場した扇ちゃんに、彼の面影を見出した読者は多いことだろう(個人的に、美少年シリーズの沃野禁止郎もまた、この系譜に位置するキャラだと思っている)。
もっとも、鍵と扇が似ていると言うなら、水倉りすかと忍野忍(キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード)が共通する属性を有するキャラであることについてもまた、言及しなければならないだろう。
血液を力の源とし、少女と大人の姿を併せ持つ、最強ヒロイン。
この話から、りすか、創貴のコンビに、ツナギを加えたトリオとしての活動になり、ますます面白くなっていく。
ツナギに頭が上がらないりすかとか、人数が増えることで、キャラクターが新しい一面を見せてくれるのが楽しい。
第八話 部外者以外立入禁止!!
水倉鍵の策略と『六人の魔法使い』の魔法により、脱出不可能な密室と化したホテルの個室に閉じ込められた3人。
魔法も封じられた状況下で、水倉鍵は創貴に協力を要請、もとい屈服を要求するが⋯⋯?
vs『泥の底』蠅村召香
個人的に、連載再開前の全10話の中でも最も好きなエピソードのひとつ。じっくり語っていこう。
まず、第四話の感想で述べたように、1巻収録の第三話で、創貴とりすかは衝突し、和解した。
それから、創貴は独断専行を控えるようになり、何かを行うにつきりすかに意思確認をするなど、彼女を慮る方向への変化を見せ始める。
そして本話では、再び2人が衝突するのだが、それは上述の創貴の変化にも起因している。
水倉鍵と蠅村召香の連携により、密室の中に『固定』された創貴、りすか、ツナギ──その上で実質的な屈服を要求してきた鍵に対し、創貴は苦渋の決断をする。すなわち、水倉鍵に一旦従うという選択を。
リスクを考慮した、消極的な戦略。
それに強く反対したのが──創貴の良からぬ変化を食い止めようとしたのが、りすかだった。
もっとも、ここでの“良からぬ”とは、あくまでりすかにとって、ということを付記しなければならないだろう。
何故なら、世間的に言うならば、仲間を──それも友達と呼ぶべき同級生の少女を、持ち駒のように酷使していた頃の創貴こそが悪虐非道で、人格的に問題があると言わざるを得ないからである。そんな彼が少しでも仲間を慮れるようになり、その身を案じ、勝利に拘らず危機を回避する選択をとるようになったことは、良からぬ変化どころか、むしろ『成長』と呼ぶべき、喜ばしい変化である。
あるいは『更生』か。
だからこれは、逆説的な人間賛歌なのだ。傲慢で強情で手前勝手で自己中で、我儘で冷血漢で唯我独尊で徹底的で、とにかく直接的で短絡的で自信過剰で、意味がないほど前向きで、容赦なく躊躇なくどこまでも勝利至上主義で、傍若無人で自分さえよければそれでよくて、卑怯で姑息で狡猾で最ッ悪の性格で、優しさなんて言葉っから知らなくて、などと、赤口毒舌──自分が信頼する相手の人間的欠陥をこれでもかと並べた上で、そんな彼だからこそ自分には必要なのだと、魔法少女は肯定する。
創貴にしてみれば、たまったものではないところもあるだろう。以前にりすかと衝突した際に、自分の気持ちを考えて欲しいと言われたのに、彼女を思いやった上での戦略が、自分のことしか考えていないと、当の本人に否定されるのだから。まあ、それくらいだからこそ、2人は釣り合っていると言えるが。後はここに来てツナギの存在も大きい。りすかが意識を取り戻す前、創貴の戦略に対し真っ先に否定的見解を示していた(が、上手く言いくるめられた)彼女が、りすかの反発を前に、一転して創貴をフォローしたのが良かった。良い子だし、良い年長者だし、良いキャラだ。
供犠創貴は、知恵と勇気だけで地球を救おうとする小学生である。彼は知恵が回る以前に勇気を振るう。理知的であると同時に直情的で、冷徹さと共に大胆さを併せ持つ──りすかは、彼が自分を思うあまり、前者が後者を飲み込んでしまうことを恐れた。
対する水倉りすかは、普段は内気で内向的な性格でありながら、本質的にはかなり血の気が荒い、野性的な性質を隠し持っていることが、これまでにも描かれてきた(27歳の大人りすかの性格もそうだし、それ以前に子供の姿で高峰幸太郎や影谷蛇之に対し、激昂してかなりエグい言葉を浴びせている)。
りすかは創貴に対し、基本的に従順であれど、無条件に付き従っているわけではなく、2人は仲間であると共に、己の目的のために互いを利用し合う、対等な関係である。本話は、それを改めて提示した上での、2人の再契約の物語である。
第九話 夢では会わない!!
学級委員長を務める市立河野小学校5年生の供犠創貴は、長崎県長崎市の平和公園での課外授業に備え、図書館で下調べを行なっていた。
図書館で偶然居合わせたかつてのクラスメイト・在賀織絵、転校生にして担任教師が頭を悩ませる問題児・繋場いたち、創貴に馴れ馴れしく接する義母・供犠きずな達との接触を経て、創貴はぼんやりとした違和と喪失を胸に溜めていく。
彼は昨年からの学級委員長の職務として、いつものように不登校児・水倉りすかを見舞いに、彼女の自宅であるコーヒーショップを訪ねるが⋯⋯?
vs『白き暗黒の埋没』塔キリヤ
第六話に続いての、魔法が登場しない話。
正確には、登場自体はしているけれど、殆ど本筋には関わらないと言うべきかもしれないが。
創貴が魔法と(りすかと)出会う前の話である第六話に対して、本話はこの世に魔法がないという前提の下に成り立つパラレルワールドを舞台としている。
(何故そんな舞台へ移行したのか、という疑問は、中盤に現れる水倉鍵によって初めて明かされる。おぼつかない創貴を、不自然に納得させ、大切なものに目を背けさせ──間違った方向へ誘導させるようなその話術は、先述した忍野扇とそっくりである。何故か性別が反転しているところまで)
そもそも、魔法が存在しない世界という、我々側の現実に近いほうをifとして扱うのが中々に倒錯的で可笑しいのだが⋯⋯そんな世界において、本来魔法少女だった者達が、生々しく描き出される。さながら、魔法少女から魔法を剥ぎ取った結果出来上がるのは、普通の女の子でもなければ別の特別な女の子でもなく、ただの異端の少女でしかないと言わんばかりに。
普通になれず、普通に馴染めない、異端の少女。
逆に言えば、本作はこれまでにおいて、ただの異端でしかなかった少年少女を、魔法という装飾でコラージュすることで、特別で輝かしい少年少女として描き出してきたということでもある。
勿論、それは魔法でなくとも構わない──ひとつの虚構であれば。
『天才』でも『怪異』でも、『アブノーマル』でも『美学』でも、何でもいいのだ。
例えるなら、「フィクションで眺める分には面白いけれど、現実にこんな性格や話しかたをした奴がいれば、付き合いたくないよね」などと言われるような人物を、実際にフィクションの世界で輝かせているということになるだろうか。
この世界においては、神類最強の大魔道師によって全身に魔法式が織り込まれた、運命操作系の類稀なる魔法の持ち主である『赤き時の魔女』は、日本語が不自由で、コミュニケーション能力に欠如し、感情をコントロールできない登校拒否児童でしかなく──全身に512の口を持ち、その吸収能力によって対魔法使いにおいて無類の強さを誇る、城門管理委員会の設立者にして『たった一人の特選部隊』も、クラスの誰とも打ち解けない問題児童でしかない。
水倉鍵は、そんな世界を、優しい夢と称した。
それはある意味ではその通りで、その世界に身を置く彼女達には、身体を酷使し、命を懸けてまで、行くべき道がない──果たすべき目的がない。しかし、そんな優しい夢は、彼女達の魂まで救えるのか。
たとえ登校拒否児童や問題児童であっても、比較的ぬくぬくと暮らせる(少なくとも、魔法使いと戦って命を落とす心配はない)世界と、特別な魔法使いとして、確固たる目的のために何度も危機に瀕し、死闘を繰り広げ続ける世界。
どちらのほうが幸せなのかといった問いに答えをもたらすのは容易ではないけれど、しかし当の彼女達は、迷わず後者を選択するのだろう。
それがどんな茨の道であろうとも。
『彼』がそちらを選んだように。
⋯⋯と、ここまでが第3巻収録分。
ラストは創貴が目を覚まし、2人の敵の前で自分達が黒い杭で全身を串刺しにされているという絶体絶命な現実を目の当たりにしながら、改めて共に戦う2人の少女を仲間として認識する(本当に、第二話あたりの彼からは考えられない変化だ)ところで幕を下ろす。
リアルタイムの単行本派の読者は、主人公一同が串刺しにされたままの状態でおよそ13年間新刊を待ち続けることになるのだが⋯⋯。
ちなみに、巻頭第七話から創貴達はホテルに宿泊したのち、『六人の魔法使い』との連戦を切り抜けた(まだ敵は残っているが)わけだが、彼らはとうとうホテルから一歩も外に出ないまま、この巻を終えることになった。
英雄の不動を描いた『悲痛伝』もびっくりの動かなさだが、しかしそれでこんなにも面白いのだから恐れ入る。
たとえ神でも、たとえ悪魔でも、そんなファンシーなファンタジー、『ニャルラトテップ』水倉神檎にはできっこない。
幼稚で子供っぽい、魔法少女にしか不可能だ。
(最終話『やさしい魔法がつかえたら?』)
第十話 由々しき問題集!!!
ここより第4巻(単行本2020年12月発売、文庫は未発売)収録分。
最終巻。元々は『新本格魔法少女りすか0』として刊行予告されていたけれど、長期休載の影響もあってか、タイトルは『4』に変更された。
最終巻なのに0って、紛らわしいしね。この巻から読んでもOKと捉えられかねない。
⋯⋯しかし物語の内容と重ね合わせると、『0』のままでも案外しっくり来たりする。
(『新本格魔法少女りすか ラストオブ魔法少女』がタイトルになるのかなと思ってました⋯⋯)
切り替えて──第十話。
『ファウスト』Vol.7に掲載されて以来長らく放置されていた、長期休載前の最後の話。
⋯⋯と言っても、こちらも前話からそこそこブランクがあったりするのだが(第九話が雑誌に初掲載されたのは2005年12月で、第十話は2008年8月。3年近く空いていたことになる)。
本編としては、第七話から1日経過。
23本の杭で串刺しにされ、壁に磔にされた創貴。それ以上の数の杭で床に磔にされたツナギ。魔法対策で、出血しない形で、全身の骨を砕かれたりすか。
りすかとツナギが未だ意識を取り戻さない中、創貴は、『六人の魔法使い』最後のひとり・結島愛媛と対峙する。
vs『偶数屋敷』結島愛媛
⋯⋯ここまでくれば、単純な方法で殺しに掛かってはこないというか、『目的』の遂行のために戦闘しているというところを隠し切れていない(あるいは、隠していない)。
ほとんど何もできない、誰にも頼れない状況下で、どのように敵の魔法を潜り抜け、窮地を脱するか、という話なんだけど、最終的に創貴が至った打開策、突破法がシリーズ屈指で気持ち悪い。
そんな気持ち悪い手法が、長期的な伏線を回収する形で行われるのが尚気持ち悪い。
実に少女的な突破法。
これが魔法少女ものの超最前線と謳われた小説か⋯⋯。
それと、本話に関して、気になったのが、2020年に執筆・発売された同作者の小説『人類最強のヴェネチア』(戯言シリーズからお馴染みの人類最強の請負人・哀川潤が、ヴェネチアを旅行する話。凶悪な殺人犯が登場したりとバラエティ溢れる内容となっている)との共通点である。
要素で言えば『水』──溺死とかウォーターカッターとかがそうなんだけど、それ以前に水倉りすかと哀川潤が、色々と重なる要素がある。先述したキスショット以上に。
りすかと潤さんの共通点は、まず、赤色をイメージカラーとするヒロイン(女主人公)であること。りすかの赤色は、最強キャラとして潤さんから受け継いでいると、『ザレゴトディクショナル』で述べられている(曰く、禁じられたクロスオーバー)。
そう、次に、最強のお姉さんであること(27歳のりすかとの共通点)。これに関しては、潤さんが、西尾維新作品にたびたび現れるめっちゃ強い、及びめっちゃ有能なお姉さんの元祖みたいなところがある。
それから、出自である。共に、とある目的のための『道具』として、父親(架城明楽、西東天、藍川純哉/水倉神檎)に『製作』された娘であること(哀川潤が3人の父親、それから2人の母親を持っていた点は、これまでに6人の母親を経験してきた創貴と重なる)。父娘の因縁。
最後に、名前に水が絡んでいること。哀『川』『潤』(哀川は、父の『藍』川に由来する)と、『水』倉りすか。『赤』い『水』──血液。
なお、『人類最強のヴェネチア』は雑誌メフィストに掲載された小説であるが、同誌同月号には、雑誌を移行し(『ファウスト』はとうに休刊となっていたので)連載再開となった『りすか』第十一話が同時収録された。
『ヴェネチア』は『りすか』執筆の際に生まれた余剰から、副産物的に誕生した作品なんじゃないかと個人的には見ているけれど、いずれにせよ、かつて同時期に活躍し、初期シリーズを支えていたダブルヒロインが、令和の時代に共演を果たした事実に、当時の読者でない私としても、何か強く感じさせられるものがある。⋯⋯というのはあちらの感想記事でも書いたな。
第十一話 将来の夢物語!!!
27歳の姿に『変身』して、1分が経過したにもかかわらず、元の姿に戻らないりすか。
そんな彼女の“覚醒”を受け、少なく見積もって六十六万六千六百六十六人もの魔法使いが城門を越え、りすか達の現在地であるキャンドルシティ博多のホテルへと迫り来る──危機を知らせに、一足先に駆け付けたりすかの従兄・水倉破記はそう述べた。
創貴は、成長したりすかの魔法によって、17年後──2003年現在から、2020年の世界へと移動することを企てる。信仰と、野心を共に。
2003年に『ファウスト』vol.1で第一話が始まってから17年振りに連載が再開されたのを、作中時間と連動させるという、実に大掛かりな仕掛け。
何故17年後に飛ぶのか、という点にも理に適った説明がなされており、「もしかして西尾維新はこの展開をするためにあえて放置していたの!?」という読者の声が頻出したことからも、その試みは成功したと言っていいだろう。
内容としては、2020年の世界に触れた創貴達が、今後の戦いのための情報収集をしながら自分達の時代との差異に困惑したり、突っ込みを入れたりと、連戦続きからひと息入れるような、非常に楽しげな話となっている。
創貴は、りすかは、ツナギは、2020年をこう見るのか。
印象的だったのはフィンランド推しの老人のくだり。オリンピックって、昔は国中で母国を応援するのが当たり前だったのが、今では、内心の自由と言うべきか、個人で好きな国やチーム、個人を応援するという楽しみかたができるようになった⋯⋯ということか。
平和の祭典は、平和になった。
そんな感じで、シリーズ随一のコメディ回の本話だが、終盤で急転直下の新事実が言い渡される──本シリーズに平和の祭典はあっても、平和はないと言わんばかりに。創貴の動機付けとなるその事実は、同時に彼にとっての挫折を意味していた──苛烈で、緩やかな挫折(『ダ・ヴィンチ』のインタビューでは、創貴は挫折を経験する前の戯言遣いを書こうとしていたと述べられていたが、そんな彼にとっての挫折が、本話と次話で描かれたわけだ)。
小休止もほどほどに、ラスト2行で引き締まる。
クライマックスへ持っていく。
ちなみに、第一話から17年振り──第十話から12年振りの再開だったが、自分の見たところ、作者のブランク(文章への違和感)は殆ど感じなかった。
強いて言えば、創貴の語尾に疑問符が増えたかなというのと、ツナギって「〜かしら」ってそんなに多用していたかしらというのが少し気になったが、思い過ごし・思い違いの線もあり得る。
これまで本シリーズに存在しなかったメタ発言が含まれるのは、本話がコメディ回であることに加え、長期休載からのリアル時間軸連動という本話の特殊な事情・性質を踏まえると納得できる。そう言えば、『混物語』の『りすかブラッド』でもりすかは結構メタいこと言ってたな⋯⋯。
第十二話 最終血戦!!!
再び、りすかの魔法によって、17年の時を遡り、現在住民不在の長崎県森屋敷市への侵攻を謀った創貴達。
りすかの実家兼市役所である巨大風車の足下で、3人を待ち構える水倉鍵。
今ここに水倉神檎の、箱舟計画の全てが解き放たれ、物語は驚天動地のクライマックスへ──
vs『ネイミング』水倉鍵
vs『ニャルラトテップ』水倉神檎
血が流れるような、怒涛の勢いで紡がれる文章の圧もさることながら、「長崎県中の魔法使いが総出で捜索しても見つからなかった水倉神檎は一体どこに潜んでいたのか」といった謎への解答や、「⋯⋯なぜ、大人になるの? ⋯⋯なぜ、少女なの?」といった1巻当初からのキャッチコピーの意味するところなど、様々なものが繋がり、結ばれる様が圧巻だった。
(繰り返し述べるところだが)本シリーズは、家族、親子という関係をテーマとして取り扱われてきた。
⋯⋯このテーマが、2020年度の西尾維新作品における空前の妊娠出産ブームと直結している。
『掟上今日子の設計図』、『デリバリールーム』、先述した『人類最強のヴェネチア』、そして本作本話。
本話のこの展開の必然性と、その熱量には、まるで上記の著作全てが本話に至るための伏線だったのではないかとすら思わされるほどである。
あるいは、それ以前から、だとしたら⋯⋯?
家族をテーマとした『ヴェールドマン仮説』(妊婦も登場)、美少年シリーズに登場する胎教委員会という組織名や『十二大戦対十二大戦』に登場する『想像認信(イマジナリー・チャイルド)』という能力名、『純愛』『ときめき』『XOXO(キスハグキスハグ)』『sweetheart』などの最強シリーズのタイトル名、更には同シリーズ第一弾『人類最強の初恋』でのあの2人の吉報──。
そんな、第十話と第十一話の間の空白期間に作者が積み重ねた様々な著作のあれこれが、本話を代表する最終巻に集結し、終結している(最終血戦だけに)。そうでなくとも、この展開は、本作が成長と成熟を夢見る魔法少女の物語であるがゆえの、必然の帰結である。
⋯⋯なんか自分でも随分と大仰なことを言ってしまっている自覚はあるけれど(こじつけが過ぎないか)、物語上の様々な伏線回収と、世界そのものが少年の前に壁として立ちはだかるがごとき構図と絶望感、そしてその上で立ち上がる少年の姿が、加速度的に紡がれる本話には、それだけのエネルギーが込もっているように感じたのである。本シリーズならではのドン引き、いや、ショッキングな発想も、過去の話に全然劣っていない。今でもこんなにエグくてこんなに熱いものが書けるんだなと、作者への信頼が増すばかりである。やっぱすげえわ。
最終話 やさしい魔法がつかえたら?
片瀬記念病院で目を覚ました創貴は、己の姿と周囲の様相に、大きな違和感を覚える。
かつて少年が見届けられなかった、大魔導師と魔法少女の壮絶な父娘喧嘩の行方は。
そして、彼らが歩み出す未来とは。
単行本書き下ろしの最終話。
病院とか、電車とか、それから森屋敷市など、過去に登場した要素を上手く繋ぎ合わせた話づくりは流石といったところ。
そして、特に森屋敷市という博多市と共に実在しない地名に関するネタは、本話が第六話、第九話に続く、魔法が登場しない話であることを、強く示している(森屋敷→Huis Ten Bosch)。
魔法を知る前の話、魔法が存在しない夢の世界の話に続く第三弾は、魔法がなくなった世界の話。夢ではなく、現実の世界で。
魔法がはじめから存在していない世界。
それが2人の、戦いの結果。
⋯⋯この辺りは、2つの勢力に分かれての、西尾維新哲学の対立であり、せめぎ合いだよなと思う──主役側に作者を見るか、対立側に作者を見るか。幸せをめぐる哲学。
と言うのも、神檎とりすかは、魔法使いの救済を図ろうとした点で共通しているのである。
まず、神檎は、魔法使いが魔法使いのままで、何に阻まれることなく、自由に存在することができる世界を創ろうとした──魔法使いの世界を。
それが箱舟計画だった。
ずっと小さな王国に閉じ込められてきた、虐げられてきた自分達魔法使いを、解放したかった。⋯⋯と、いうことなのだと思う。
しかしそのためには、魔法使いでない人間(彼らの言うところの駄人間)は、いなくなる必要があった。第十二話で行った世界創りの過程において、魔法を持たざる弱き者は生き延びられないというのもあるし、仮に生き延びられたところで、差異のある両者は、かつてそうだったように、対立し、互いを迫害しかねないというのもあるだろう。
魔法使いと人間の共存は有り得ない。
もしも彼が勝利していれば、真逆のエピローグを迎えていたことだろう。
対するりすかだが、彼女もまた、魔法使いの自由のために戦い続けてきた。
彼女の目的は、城門の撤去。それから、魔法使いと人間の融和。
『魔法狩り』──県外で魔法を悪用する魔法使いの粛清──を行なってきたのも、そのためだった(水倉神檎の手掛かりを掴むためでもあるが)。
神檎との大きな違いは、魔法使いと人間の共存を、強く信じていた点である。
しかし、共存のためには、譲歩──歩み寄りが必要だった。
だから彼女は歩み寄った。
『魔法を放棄する』という形で。
彼女が実現させた、人間と魔法使いが融和した、新たなる世界。魔法使いが魔法を失う代わりに、人間になる代わりに、人間と共存できる世界。
神檎がその世界に納得するかどうかはわからない(多分納得しないんじゃないかな。2人が和解した可能性も、考えられなくはないけれど──考えたくはあるけれど)。それで、魔法使いがありのまま──すなわち、本当の意味で魔法使いのまま、自由を得たことになるのかどうか。
それでも、りすかが産んだ世界は、ツナギも、水倉破記も、対立していた『六人の魔法使い』でさえも、それぞれが個性を輝かせて生きている(影谷蛇之はどうなんだろう? あの人は個性を輝かせちゃダメな気がする)。
人飼無縁が眼鏡屋で働いていたり、塔キリヤが1日で500個の枕を売っていたりと、そのあたりの羅列というか、「あの人達のその後」が列挙される様は、西尾維新作品のエピローグとして定番の形ではある(物語の締めかたという点において、戯言シリーズの頃から変わらない、西尾維新という作家の軸・信条のようなもの──『少女不十分』──を感じさせられる)けれど、本シリーズの場合、それらに増して、たとえ魔法が喪失しても、個性はなくならないといった意味が強く含まれているんじゃないかと思う。
なぜなら、本シリーズにおける魔法とは、己の精神を外の世界へと顕現する行為なのだから。
「同じ魔法を使える者はこの世に一人もいない」という第十話の創貴の言葉が真であるなら、それはすべての人間が自分だけの個性を己の内側に抱えている証明にもなる。
魔法使いでない創貴もまた、あらゆるものを失ったひとりであり、だけど彼は、失ってなお失い切らなかった彼らしさをもって、世界と渡り合い、そして世界を航り、航らせる生きかたを選んだ。かつて魔法使い達と渡り合ってきたように。これが凄く嬉しい⋯⋯17年後の更に17年後に完成した、供犠創貴という男の人間像が、個人的にとても好きなのだ(タイプは違うが、ちょっとだけ『めだかボックス』の鹿屋先輩を思い出す)。
少年少女が世界に、そして大人に立ち向かう物語として始まり、そうあり続けた本作だが、しかしこの最終話で、その見方を大きく変えられる。コペルニクス的に──プレートテクトニクス的に。ぐるぐると。
子供にとって親は大きな壁であるが、親にもまた親がいるように。
あるいは、創貴とりすかの関係のように──りすかのすべてが創貴のもので、創貴のすべてがりすかのものであるように。
折口きずなと、水倉神檎。水倉神檎と、水倉りすか。それから、水倉鍵。
もはや何が親で何が子かさえわからなくなった末に迎える、あのラスト。
循環と回帰。
見方によっては物凄く歪んだそれは、しかしずっと父親を探し求めていた娘が迎えるラストとしては、必然でしかなくて。創貴の最後の台詞なんかは、本当に情緒を揺さぶられた。
そんな感じで──長年停滞していたシリーズの、実感の込もった最終巻。
当時の魂をそのままに、かつ、空白期間に作者が培ったものが血肉となって産み出された、文字通り17年かけての完結巻。
最後はおとぎばなしをそっと現実に孵すように──しかし、最後まで見事なジュブナイルだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?