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令和6年1月1日16時10分、石川県能登地方で起きた地震(以下、能登半島地震)。震度は最大震度7。
令和6年1月4日から令和6年1月6日、令和6年1月19日から令和6年1月22日にボランティアとして現地入りをしました。
自身の人生を激変させるきっかけとなった能登半島地震は自分の目にどう映っていたのかを記録と記憶を頼りに残しておこうと思います。
1500字から2000時程度ずつ更新していきます。
文章は苦手なので読みづらい部分は申し訳ありません。


私は明石市にある海沿いの実家にて正月を過ごしていました。
リビングテーブルに家族4人と両親で集まっていました。
微弱に感じた揺れを父の貧乏ゆすりだと思い、「親父、貧乏ゆすりやめてくれ」と言った記憶があります。
そのままその揺れは、やや大きなゆっくりとした横揺れに変化し、家族全員が地震であることを認識しました。

私は18歳の時、高校の卒業旅行で訪れていた東京ディズニーランドで東日本大震災を経験しており、揺れの大きさは違えど、令和6年1月1日のそれはその時と類似した揺れであることを感じ、どこかで大地震が起きたと思いすぐにテレビを注視しました。

その時、どんな情報がテレビに流れたかは正直あまり覚えていませんが、大津波警報が発表され、正月テレビが一斉に災害情報に変わり、正月の雰囲気が一気に変わったように感じました。

しばらくはテレビを見ていましたが、確か津波の到達情報は高さ50cm、珠洲市役所からのリアルタイム映像で建物から立ち上がる砂煙、輪島での火災を見た記憶があります。
正直、いろんな情報があったのでしょうが、消防職員(元)でありながら、「大津波警報が出たけど、高さ50cmでよかったなぁ、オーバーな警報を出して被害が小さいのは全然いいよな」と頭の中でほぼ災害情報の取得を終息させました。
地震時は明石市の消防職員であったため、緊急消防援助隊として出動か出動隊員の穴埋めに仕事に出ないかもしれないと職場内での情報収集を開始していました。

翌日令和6年1月2日は妻の実家で過ごし、航空機事故のニュースを見て、1月3日は北九州の市場の火災を自宅で見ていました。
大きな火災や事故があった場合、総務省の方から県等を通じて各自治体消防に調査依頼等が来る場合があるので、これは1月4日に出勤したらバタバタするなぁと思っていました。
正直なところ、テレビ画面を通すと航空機事故のインパクトが強すぎて頭の中は航空機事故でいっぱいになっていました。燃料や油を専門とする部署でいたので色々気になりまして。

1月4日は明石市消防局に出勤しました。緊急消防援助隊の関係部署に確認し、兵庫県大隊は出動しない旨を聞き、自分の仕事につきました。

その時もまだ、能登半島地震の被害の大きさはよくわかっていませんでした。
その後、昼休憩中に見たSNSで能登半島にボランティアに先立って行っている方が物流センターの支援物資が滞っていると情報を出していました。
私はもともとオフロードバイク運搬用にキャラバンを購入しており、ある程度の運搬能力があったためこれに参加しようと突発的に決めました。

上司に相談し、休みをもらい、ボランティアチームにコメントを入れ、14時ごろ帰宅し、自宅にある持ち物で現地の状況を想像しながら資機材を車に積みました。
目的は滞留している物品の運搬でしたので、持ち物のほとんどは自分の身を守るもの、あとはドラッグストアで買えるカイロ等を簡単に買い16時30分に能登に向け出発しました。

ここまでが能登に行くまでの流れです。
キリがいいのでVol.1はこの辺にしておきます。
また時間があるときにVol.2を更新しようと思います。
読んでいただいた方ありがとうございました。
それではまた。


写真は積込み途中の光景。車両トラブルが起きたり、道が走行不可だったらカブで生き延びるか〜と愛車のスーパーカブ70(確か1983年製)を積載した状態。実際カブが車に乗っている安心感は絶大でした。なんたって最悪の場合、持ち上げれますし、1リッターで43キロ走ります。タンク容量は4lで後ろに10lの携行缶を詰んだ場合、なんと602キロの距離を走れます。恐ろしい能力。




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