カタルシスの権利
かつて世間では「ピンチはチャンス」という言葉が流行った事がある。
しかしある人はその軽薄さに嫌悪感を覚え、またある人は現状の問題に何ら共感性を得ないと批判した。
尤もその言葉である「ピンチはチャンス」には一番必要な情報が
欠落している気がした。
それについていろいろと思いを巡らせる中で、子供の頃の思い出などが一つのヒントとして浮かび上がって来た。
おおよそ勧善懲悪の子供番組には必ず主人公がピンチになる状況や苦戦する場面などが登場する。
あるいは主人公でなくとも、第三者らが困難に陥りそれを救済するのが物語の主流だ。
これが最初から何ら問題もなく悪人もおらず万事平和な日常と幸福に満ちた話だと何とも盛り上がり、つまりカタルシスに欠けたお話になってしまう。そこで初めて自分は「ピンチはチャンス」という言葉に一番欠けているものが何なのかに気が付いた。
「ピンチはチャンス」、言ってる事は確かに一理あるのだが、全くカタルシスみが欠けていたのだ。
高い所から偉そうにご高説を垂れる権威者のように聞こえてならなかったのだ。「私は成功した。逆境をはねのけた。君らもそれぐらいできるだろう?」と言わんがばかリである。
そこで重要な事に改めて気が付いた。
おおよそ世間で人気を博している物語には必ずと言ってよいほどカタルシスが存在する。
「成績優秀な天才が100点を取りました」はドラマとして受けにくいが、「いつも0点の莫迦が85点!」となると努力しているのは天才なのに何故かカタルシスが発生するのは莫迦の方になる。
つまり何か劣勢に立たされている人間や苦悩している人間にのみ実はカタルシスを得る権利が与えられているのである。
逆転の権利などという陳腐なものではない。
カタルシスは逆境であればあるほど掛け値が吊り上がるし、
莫迦にされればされるほど掛け値が吊り上がる。
トランプのゲームに大富豪というのがある。
革命の権利を最も有効化出来るのはまさに大貧民であるのと同じである。
今苦悩にある。これまで苦悩に満ちて来た。あるいはどうしようもない。
それはつまりカタルシスを得る権利を持っている事である。
帝王学の基本である「貞観政要」では創業と守成について
守成のほうがはるかに困難である事を述べている。
リベンジやリスタートなどの言葉にはもう一度というニュアンスが強い。
最初からやり直すという点で創業のチャンスを得ているのである。
だからこそ皆にあえてこう述べたい。
今苦しいというのは守成よりもはるかに攻めやすい状況にあるという事だ。だから「ピンチはチャンス」とようやくこの言葉に重みが出て来る。
正直「ピンチはチャンス」という言葉だけではあまりにも誠意に欠ける。
だからこそ次代を開く人々に強く訴えたい。
今苦悩の底に沈む人々にこそカタルシスを得る権利があるのだと。
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