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愚痴と甘えるの境界、闇の中

 ADHDの診断前から改めて自分探しをすべきと言われてて、いろいろ考える中でふと「愚痴と甘えることの区別がわからない」ということに今更ながらに気が付いた。そんな話。

 上記の状態になったのは、他者から頂いたアドバイスに「もう少し人に甘えることを学んだ方が良い」という話があったことが発端。
 ここで「甘えるとは何ぞ?」となり、他人に甘えるのを想像してみたが、どうも愚痴を言っていることとさほど変わらん再現VTRになってしまい、我ながら「なん・・・だと・・・?」という状態でタイトルを回収する形になる。

 愚痴はまあまあわかるのだけれど甘えるということ、わからぬ。ニホンゴムツカシイ。

 そこは「甘え」に対して全く許されないものとか、他人をいいように使うとか、マイナスのイメージしか持ってなかったことに原因があるのかなと思う。しかもそれが強かった。
 実際は甘えたような言動もしていたことはあると思うし、今もそうだろうが、なんとなく「甘えることはよくねえ!!」みたいな思いだけは多分子どもの頃からあった。

 と、原因については何となく分析できたが、じゃあ違いはどうなんねんということで愚痴と甘えるの言葉を改めて調べる。意味は引用がめんどくさいので載せてないです。すみません。
 そこで行きついたのは「愚痴はどうやっても変化が起こりにくいもの」で、「甘えるのはまだその状況が変化する可能性がある」ということだった。
 あとは愚痴の方が過去に対して、甘えは過去というより現在・未来にベクトルが向きやすい感じかなとも考えた。

 もうこの時点で考える気力が大分なくなっているので支離が滅裂してるかもしれない。

 過去だとか他者にもどうにもできそうにないことをグダグダ言っても仕方はないが、人に頼ることでどうにかなりそうなことなら愚痴の範疇からは抜け出るのではないか。
 
 とすると甘えると頼るのラインが今度は危ういが、そこに関しては甘えという言葉の「他にブン投げていく」ようなマイナス面の有無な気はする。
 甘えるのが悪くないこともあるが、甘えという言葉はマイナスよりで使われることもままある。一方で頼るという言葉自体はマイナスイメージはさほどないように思う。

 ただ、ここで頼るという言葉で考えようと「どうにもならないこと」と「どうにかなること」の自己判断が必要では?という思いに至り、光明が見えたと思ったのは幻ということに気づいた。

 愚痴と甘えの違いで宇宙猫になる私にこの違いが判別できるのはもう四半世紀生きねばならんのじゃないか?う~ん、もう難しい。哲学。頭痛が痛い。ホウレンソウでさえ哲学になるのに。
 もうグッバイしたい気持ちは強いが、その判別方法を自分の中で組み立てると少しは生きやすくなるのかもしれないとは思う。だが一先ずここでギブ。ムリ。未来の自分へツケを転送。

 という感じでまだまだ課題が多いどころかかえって何も解決せず複雑化しとるような気もするんですが、自己理解が少しは進んだということやと適当にごまかしつつとりあえず終わりたいと思います。

 最後まで読んでくださってありがとうございました。ではでは。

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