・聴く“姿勢”、読む“姿勢”

 DSはアメリカに来た際に ブレーズがやった試み演奏会の椅子を撤去したコンサートにいった。 若者が絨毯に座り込んだり、寝転んで聴いていたようで、音楽を聴く姿勢ではないと苦言をいっ たそうだ。
 第一姿勢を気にしだすこと事態が、夢中といえるのだろうか。しかもコンサートならまだしも、自分 の自宅で聴く録楽の場合で・・。 夢中をある種のリラックス状態であると考えた私は小説を読むためにそれこそ寝転んでよんでみ たりした。 小説の読みは、聴いた箇所が云々と同じようなもの。

 強迫観念的な覚えなくてはとか、感動しなくては、わからなくてはならないは、中学のどうも自意 識過剰なところと同じだと感じるのである。堅苦しいのだ。自分への縛り、内面への縛りがひどす ぎる。しかも自然の発露を抑制していたせいで中学~高校の文章はアウトプットとしての機能は 全く機能していない。インプットばかりもそうだが、それすら抑制をかけたどうしようもないもので あったからだ。

 論文を文が持つ意味は単一のベクトルと呼び、それゆえ読みやすいというものを考えた私だが、 この謎はよくわからない。 誤解ないように書いておくが、いくら研究本、論文、評論、 そういうものから“本物”を完璧な理解を自分はしている、また研究を完璧に読めているなどと自 慢するためにこんなに文を綴っているのではない。だいたいそんな自信などない。

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