偶像


#創作大賞2024

私の生い立ち
生まれてからの記録
出生届が出されてなかった
この世に私が生まれたのは、13才の時でした。
戸籍ができた。
12才離れた妹が、戸籍の初めに記されてる。
次が私、
それは、今でも変わらない
父親は、誰だかわからない私子
私の母は嘘つきだ。
まるで呼吸をする様に
嘘をつく。
なので、どんな小さな事でも大事な事でも
変わらず嘘で塗り固める
真実?話の中の1%位…
私の幼少期は、
独りぼっちでお留守番か
親戚の家や、他人の家に
預けられていた。
母は夜働いていた。
水商売をしていたので
母が働いている間は
独りで留守番するしかなかった。
古い記憶の中にあるのは
心細くて、不安で寂しかった独りぼっちの留守番
3才くらいの頃、
夜中にTVの砂嵐の音で
目が覚め、不安で泣いていた
朝、起きると1番に母親を探す…
帰っていれば、
起こしてはいけない約束
寝ている姿で安心していた。
朝起きると、知らない人が寝ている事も…

母は、女だった。
男がいない時、つまりは
彼氏がいない時は、
厳しい母親…
彼氏が居ると女

初めて見た人を
パパと呼びなさい! と
何度も言われた。
このおじさん、パパって名前なんだと思ってた

またこのおじさんも
パパって名前なんだ〜
この前のおじさんも
パパだったよ〜って思ってた。

パパが何かも知らずに
いた幼少期

そんな暮らしぶりにも
変化があった。

あれは、小学生になったばかりの頃、
やはり預けられていたのだが、パパと呼んでる人の実家に預けられてた。

その家には、パパの奥さん、子供が3人、パパの両親、と大家族だった

大人になって当時の事を思い出し考えると
愛人が本妻の所に子供を預けるという、異常事態なんの血の繋がりもない子を…
まるで、荷物の様に

その家のパパの子供は
長女が、私より1つ年下で、その下は男の子が2人いた。

長女とは歳が近かったのもあり、よく意地悪されてた。

そりゃそーなるよ!

知ってるか知らずかは
わからなくても、自分の
パパを、知らない子が
パパと呼んでるんだから

思い出すと、恐ろしくなる…
半年以上は、その家に居た。
小学校も電車で5駅位の所で、小学一年生で電車通学してた…

大人になって、覚えてる限り辿って行くと、

母親のとる行動ではない事が数々ある。

口癖の様に言っていた言葉


私は親様。子供は、親の犠牲になって当たり前、
産んで、育ててやってるんだから…って呪文の様に言われ続けた。

しかし、男と別れると
事態は一変して

●●ちゃんはママの宝物って始まる。

まるで、おもちゃだった

子供心に、母や大人の
顔色ばかり見ていた

今で言う所の空気を読むって感じ…

子供の頃、一番羨ましかったのは、
"★★ちゃーん、ご飯よ〜"
って言う、お母さんの魔法の言葉。

その魔法の言葉が聞こえると、どんなに夢中になって遊んでいても、
みんな、"はーい"って言って帰って行く。

ありきたりな昭和の光景

羨ましいと思う事すら許されない環境でした。

その頃の私にとって
食事の時間は、拷問の様な時間帯で
ママやパパと食べても
ママだけと食べても、
油断すると、箸、コップ
茶碗等が自分めがけて飛んでくる。
俗にいう躾だ!

そーなると、食べてなくても、何時間も隣の部屋や、玄関で正座や立たされる。

体罰も、当たり前だったし、掌で叩かれるなんて
慣れっこ、みみず腫れや
青黒くアザが出来る事も
頻繁だった。

箒の持ち手が、バラバラになる程叩かれたり、
定規で叩かれるのは、
しなるから痛い!

いつしか、暴力にも慣れてきた。
叩かれて泣くよりも、
睨み付ける様な、可愛げの無い子に育っていった

口数も少なく、なるべく母と話さない

愛情と言うのは、
求めると裏切られる。と
思ってた。
それはきっと、今でも変わらない。
愛情表現の仕方がわからないのだ

私の母は、子供を4人産んだ。

みんな父親の違う子で

私は2番目の次女だが
長女とは、面識がない。
母以外の親戚から聞く話によると、
まだ、ミルクしか飲んでない様な乳飲み子を、
当時のパートナーの実家に置き去りにしたと聞いた事がある。

ここで、
私の下の妹、三女の話をすると、この子も愛人の子であり、私生児

三女が産まれた時は
大変で不安で心細かった
季節は11月の下旬…
どこでも、
クリスマスソングや
クリスマスツリーで
彩られたお祭り気分の中

私は、母親の病院で泊まり込みで付き添いをしていた。

どんな病気でどんな状態かも解らずに…

当時、小6の私には何も教えては貰えなかった。

そして、一週間程入院したのち、その病院から
朝、緊急搬送で大きな病院へ…

走り回る色々な看護師さん達

小走り気味に、手術室に入って行く、先生みたいな人、

私は、どこに居るべきか
何をするべきかもわからず、手術室の前のベンチで座るしかなかった。

手術室の前のベンチで
1時間くらい経った頃
保育器に入れられた
小さな小さな赤ちゃんらしき物が…

小さなかたまりで、
急いで保育器を押して
運んでいる途中なので
一瞬見えただけなので
確信はなかった…

私はまだ、この時母が
妊娠中だとは、まして
出産中だとは、知らなかった…

この時母は、7ヶ月の前置胎盤と言う、早産で
普通は、胎盤が子宮の中で胎児を支えているが
その胎盤が、先に母体から出てくる、早産で
一分一秒を争う事態だった様だ…

お気付きかもしれませんが…ここに、母の男は居ません。

後から聞いた話では、
この時、母とパパは
パパに新しく若い女が
出来、妊娠を理由に引き留めた母を、捨てたそうです。

時代は昭和…
まだ、携帯電話もなく
緊急連絡のつく手段は、家の電話、
もしくは電報、しかなかったので、母の子の事を心配してくれる人が、
私の事を気にかけてくれる人が近くに居なかった。

だから、朝8時過ぎから
夜中の2時過ぎまで、
私は、飲まず食わずで
手術室前のベンチに居た

そこに居るしか無かった

捨てられそうで…
忘れられそうで…
置き去りにされそうで…

不安で不安で…
母の事も、
心配で心配で…

どんなに、暴力で支配されても、死ぬと生きるでは違う。

まだまだ子供の考えだった。

病院に私を迎えに来てくれたのは、母の姉夫婦だった。
それまでの、母の嘘や
悪行に耐えかね、疎遠になっていた、親戚だった。

その親戚の家には、
やはり、よく預けられていて、叔父、叔母の子供達が5人程居て、そこでは
私は、末っ子として過ごしてた。

この頃まだ、私の戸籍が
無くて、一番心配してくれた人達だ。
事あるごとに、母に
私の戸籍の話をしていた
その度に、母と揉めてた

子供心に、内容は解らずとも覚えてる。

子供の頃の、記憶で
一番楽しかったのは
この叔母の家に居た時だ

河土手で色々な遊びを
したり、
鬼ごっこや、
かくれんぼ、勝敗のつく遊びでは、末っ子特有の
"ままこ"制度
勝敗には、関係ないが
除け者ではなく、
ちゃんと仲間に入れて遊んでくれるのだ!

ある時は、土手の枯れた
ススキの中で、秘密基地作り、
入り口は、迷路の様に
罠を仕掛けたり、
落とし穴を作ったり…

寝ている時も、
サバイバルだ!
6人が一部屋で寝てた。

一つの布団に2人づつ
事件は、真夜中突然に…

1人がおねしょをしてしまう…
そのおねしょ犯は、自分のおねしょを隠そうと、
小さな、私を転がして
おねしょの上に…

朝になると、3才くらいの私は、自分のおねしょだと思い。
ごめんなさい…だったり
からかわれたり…

しかし、ある時理由がわかった!

私のパンツは背中だけが
濡れて、おしっこが出て濡れる当然の所は、濡れていない!

その時に、6才上の姉が
下の弟に、"あんたがやったね"って詰め寄ったら、

"バレたかーっ"って言って
"へっへっへっぇ〜"
笑ってた!そんな事すら
笑いになる家なのだ!

私も、末っ子ながら
負けてなかった!
おねしょをしてしまって
仕返しを兄ちゃんに〜

と言う感じで、真夜中の
攻防戦は頻繁に狭い部屋のどこかで〜

何でも遊びになった…
スイカを外で並んで食べると
種子鉄砲ゲームが、
何処からともなく始まる

種子を顔に吹き飛ばしたり、ワイワイ、
キャァキャァ楽しく遊んだ!
幼い頃の楽しい思い出は
この家族との思い出が大半を占める。

この家族のお陰で、
今日の私が在ると言っても過言ではない。

人として人らしく…
子供が子供らしく…
保てたのだから、感謝しかない。

こんな調子で、あちらこちらに、置き去りにされる。

都合よく捨てる。

そして、寂しくなったのか、良心の呵責なのかは
解らないが、当然のように、引き取りに来る。

ある時は、親戚の家、
ある時は、本妻の家、
ある時は、友達の家、

数限りなく思い出す。

そんな自分勝手な母の
生き方に振り回されながら、生きてきた子供
それが私。

そんなタチの悪い母に
また、新しい男が出来た

この男が、おそらく母の最後の男になったようだが、輪をかけて酷かった

私が中学2年の時に
やはり、朝、見知らぬ男がコタツに寝ていた!

叔母達が、暮らしぶりを心配して、自分達の近くにアパートを用意して
くれてから、僅か一週間
程経った頃だった。

嫁も、愛人も居る極道のシャブ中の男だった。

それからというもの…
思春期の私には、耐えがたい生活になっていった

近くに叔母の家があったから、逃げ場がある分
母は、やりたい放題になっていった。

気がつくと、
極道の女気取り…
その時母は、41才位
2人の子持ち

例の如く、今日からパパと呼びなさい!と始まった。

この時のパパは45才
本妻に3人、愛人に3人の子供が居て、シャブ中の極道でした。

それから、家が極道の溜り場になって行った。

極道と言っても、映画等で見る様な、仁義に燃え漢気溢れる様な物ではなく、全然ダメダメな男

なので、お金があっても無くても、毎日酒浸り…
毎日毎日知らない人達が
私の家に居て、酒を飲んでる。

常識やモラルなどかけらもない輩達だった。

たった二間しかしか無いアパートの一室に
常に4〜5人の男達が居る

当然、仕事もしていない

酒を飲むにもお金が要るだろうに、何処かから
お金が湧いて出てきたみたいだった。

借金、恐喝、ゆすりたかり、まともな方法である筈が無い。

次第に、住む家も家賃滞納で追い出される様に
夜逃げ…

この頃、妹は3〜4才で
まだまだ世話をする人が必要な年頃で、母にしてみたら、乳母役は私だった。

姉妹だから、当たり前!

私も私で、妹が可愛いし
可哀想だった。

私が居ないとどーなるんだろう…

妹を自分の様な生活から守りたいと思っていた。

たが、私もまだ15〜16才
引き取る事も、独立する事も難しく、母の生活に従うしかなく歯痒い毎日を送るしか無かった。

母に染まらずに…

自分をしっかり持って…

親戚の家に一年位居た後
また、母親に連れ戻された。
そこには、極道の男との間に出来た、子供が産まれていた。

末弟の誕生。
母は、元来子供は産んでも育てるのが嫌いらしい

私を含めて、姉も妹も
育児放棄でその場凌ぎで
誰かに依存してきた

生後一ヶ月の弟と初対面

この時、母は45才
それからは、弟の育児を私がする様になった。

母達は、家で誰かと酒を飲んでる毎日

母より先に居た愛人の存在。子供3人

母には、それが面白く無かった様だ…

その頃、弟は2才位
手のかかる時期
妹は、6才位…まだ弟の面倒は、母の望む様には出来ない。

そして、極道の男の愛人の子供3人を、女と別れさせる為に、引き取っていた。

男の連れ児3人、長男が
妹と同じ歳、年子で3人

子供達には、何の罪もないのに、

ただ、ただ、自分の思う様に支配したいだけ…

これも、母の計略だ!

そんな時、私には一筋の光の様に、自宅から
歩いて15分位の工場の話が舞い込んできた!

外で働く事は、カオスの中から、抜け出せて
とても楽しい!

まだ、17才位の頃でした

まだまだ、母の異形は続きます。

飽き飽きする程…

この話は、実際に経験した事です。

私は、運悪く母の元から逃れる事が難しかっただけ…

しかし、乳飲児の時に
捨てられた姉さんは

母の愛情を貰えずに寂しかったでしょう。

私の気持ちとしては、
傷付けるだけの、母親は
居ない方が幸せだと思う

私が、母と縁を切って
30年経ちますが、
まだ母は、生きてます。

母が起こした事、
母の嘘。
まだまだ、整理しきれ無い程ありますが、

せめて、母には自分の罪と向き合ってもらいたいものです。

世の中には、色々な事情により、シングルマザーの人が、多く居ます。

そんな中で、
虐待される子
育児放棄される子
人間扱いされない子

1人でも多く、救える世界になればいいと願うばかりです。





















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