物語はどこから

小説はめっきり読まなくなったが、朧気な記憶を頼りに思い返してみれば、楽しく読んでいたのは登場人物達の会話であり、心情描写だったと思う。

誰かが、いつもそこにいたのだ。

純文学と呼ばれるジャンルには、くどいほどに情景描写を捩じ込んでくる作品が多い。空がどうだの、電車の窓の向こうに広がっている景色だの、寂れたビルがどうだの、といったようなことだ。読み飛ばす人も結構な割合でいるんじゃなかろうか、と疑っている。

俺は全部読むけど、一ページにぎっしりと改行無しでずらずら書かれているのを見ると、やっぱり少しうんざりする。ページを捲った後に、まだ続いている時なんか特にそう。興味のない話を長々とされ続けているときに感じるあの気持ちがやってくる。

カテゴリの都合上、推理小説なんかは状況説明の文が多くなってしまうことは不可避だ。被害者の様子はどうたらこうたら。現場は密室でふじこふじこ。舞台は隔絶された土地で、特殊な建築の建物である。部屋の配置が云々かんぬん。うるせぇよ、とページを繰ろうとするが、推理のヒントが書かれている可能性がある。無視するわけにも行かず、苦行に耐えることになる。

では、物語における最重要項目とはなにかといえば、勿論、登場人物だ。何故なら、物語とは、登場人物が居てこそ始まるからだ。

世界に、たった一人でもいい。誰かがいれば、そこに物語が生まれるのだ。

広大な砂漠の真ん中で、とある男の死体が見つかった。彼の死因は脱水症状によるものだったが、奇妙なことに彼は水筒を持っており、しかも中は新鮮な水で一杯だった。

何故、彼は砂漠へ行ったのか。

何故、彼は水を飲まなかったのか。

何故、彼は独りだったのか。

彼の人生とは、一体どんなものだったか。

わずか四行の文章から、彼に対する様々な想像が膨らんでゆく。

俺達が気になるのは彼であり、砂漠など背景に過ぎないのだ。(勿論、砂漠が彼にとって何か特別な場所だったとかの理由で、興味を掻き立てられることはあるかもしれないが)

そう、夢中になる物語というのはいつだって、登場人物ありきなのだ。物語とは登場人物の人生であり、俺達はそこに心を惹きつけられているはずだ。設定とかの舞台装置に、異常に偏執するオタクでもない限りは。

総括。

登場人物なくして、物語なし。

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