放火のはなし

1

古川さんは、簡単に言うと近所に住む初老の男性である。私の10歳上だから今年67歳である。私が5年ほど前に今の住所に引っ越してきたときに、知り合った。自宅は4,5軒ほど離れた一軒家である。10歳年下の奥さんと娘さんとの3人暮らしである。
 当時お互いに犬を飼っていたこともあり、散歩の途中で一言二言、言葉を交わす程度の付き合いではあった。顔を合わせると、敬礼式のあいさつをしてくる。
 航空自衛隊勤務だったが、今は民間企業で働いているということだった。私の弟も陸上自衛隊に勤務していたので、少し親しみを感じたものだ。ただ高卒で入隊した弟と違い、古川さんは防衛大学を卒業している。いわゆるその道のエリートということになろう。
「古川さんって面白い。敬礼しながら大声であいさつするの」
「敬礼、って言いながらね。声も相当に大きい」私は妻に応じた。
「やはり自衛隊に勤めていたからかしら」
 古川さんは何かと自分のことをよく話した。私とはさして親しいという間柄ではないのだが、奥さんとのなれそめ、娘の就職先の仕事内容、残業時間が長く、時々休日出勤もあること、若いころほど食欲がないのに腹まわりに脂肪がついたのは日常的な運動量が減ったからだと思う、いやああなたがうらやましいなどなど。
 私としてはさほど親しくもない人間によく自分のことをこうも話すなと思ったが、これは私が自分のことをあまり人に話さないから、自分を基準にしてそう思ったのかもしれない。
 古川さんは自衛隊退職後、何度か職を変えたそうだが、「65歳になったら念願の晴耕雨読の生活を送るんですよ」と言っていた。
 しかし古川さんは、最近も週に何回か自転車に乗って駅に向かっている。
何か思うところがあって、働き続けることにしたのだろうか。防衛大学卒のエリートで、自衛隊を定年まで勤め上げたのならば、かなりの退職金も出たのだろうに。生活に困窮しているわけでもないだろう。なにか暇を持て余して、あるいは健康のためにアルバイトでもしているのだろうか。何か家に居づらい理由でもあるのだろうか。「晴耕雨読」の生活にも思ったほど満たされなかったのだろうか。
 古川さんはいわゆる中肉中背という体格である。自衛隊員時代に、相当体を鍛えていたのだろう。夏場などランニング姿で庭木に水をやっているが、見事な腕、胸の筋肉であった。そしてよく笑っている人という印象がある。犬の散歩のときなどにであうと、やはり敬礼の格好をしながら笑いかけてきた。
 豪傑笑いといった感じで、その時に覗く歯は白く大きかった。ああ、この人は歯の頑丈な人なのだとその時思った。が、何か心の底から笑っていないような印象も持った。笑い方が少なからず芝居がかって見えたのだ。
 私は特に近所づきあいを熱心にするたちではなく、また町内会などが活発な活動を求めるわけでもないので、2,3の家と淡いつきあいをする程度であった。また、3年前に古川さんの、2年前に私の飼い犬が亡くなってからは、顔を合わせることもめっきりと減った。

2
 私の家は最寄り駅から徒歩15分ほどのところにある。住宅地なので、駅から10分ほど歩くと商店は途切れ、民家が連続する。
 駅からの帰り道、その日はまだ冬だったので、19時過ぎはまだ暗い時分だった。 
 やや急な上り坂が終わり、広い通りからやや細い路地へ入る。すでに静まり返った路地裏である。その時だった。ふいに背後から何か巨大な塊のようなものが私に投げつけられた。
「ぅお疲れ様でーす!」
それは、銅鑼声とも絶叫ともいうべき大音量の声であり、突然私の背中、後頭部に叩きつけられ、その人はそのまま自転車で通り過ぎて行った。
 思わず首をすくめ、硬直した。
 静謐な夜道である。背後から唐突に、である。
 もちろん近所で、自転車で通りすがりに背後から声をかけてくる人もいるにはいる。そのような場合は、自転車で通りすがりに顔を見て確認したり、控えめに背後から名前を呼んで、反応を確かめてから挨拶を投げかけたりするものだ。顔も確かめずに大声であいさつをするということは普通はしないのではないか。人違いであったら決まりが悪いではないか。
 初めての体験だった。
 そしてそれが古川さんだったのだ。通り過ぎたのち、こちらを振り返り、笑った、ように見えた。やはり歯が白いな、大きいなと思いながら、なんとか会釈を返した。顔を見るのは、半年ぶりくらいかなと思った。

 3
 ある朝、駅への道を歩いていると、
「ぅおはようございまあす!」
 自転車に乗った古川さんの大音声である。敬礼をして通りすがりにちらとこちらに一瞥をくれている。かすかに笑っているようにも見える。
 思わず立ち止まる。少し動悸がしている。驚きもあるが、怒りの感情が混じっている。なぜ無防備な背後から怒鳴り上げるような声をぶつけてくるのだ。不定期に何度もやられているが、とても慣れるものではない。驚くのではないかとか考えないのか。無神経ではないか。
 その後も、自転車に乗った古川さんに大声をかけられることが続いた。しかも毎回耳がしびれそうなほどの大声で、毎回ほとんど絶叫である。かなり異様であると、私は思っている。
 そして私はある朝、なにも反応を示さなかった。これは心に決めていたのだ。次にあれをやられたら、無反応を貫こう。明確な拒絶の姿勢と分かるように、である。それまでは何やかにやといいながら「あ、どうも」とか、何らかの反応を返していたのだ。やはり近所づきあいに支障をきたすのではという配慮からだった。しかしそれがあだになったのかもしれない、と考えたのだ。このいやな、不快な、怒りも混じった気持を伝えた方が良い、と思ったのだ。そうとなれば無視、である。
 私は不意に立ち止まり、無表情でただ前を向いた。古川さんの後ろ姿さえ見なかった。
 すると古川さんは、5メートルほど通り過ぎたところで自転車を止め、後ろにいる私に顔を向けた。そして「え」とも「お」とも受け止められる表情を浮かべたのち、再び自転車のペダルをこぎ始めた。そして私に背中を向けたまま、小首をかしげた。

 4
「また今朝、古川さんに後ろから声かけられたよ」帰宅後、妻にこぼした。
「それよりも、知ってる?この近所で放火未遂があったんですって」
「放火?近所で?」
「今日警察が来て教えてくれたの。見回りしてるんだって。最近この辺り住宅の建築工事が多いじゃない」
 私が住んでいるあたりは東京の郊外で、確かに近年住宅の建設が多い。畑や林、ミニゴルフ場などのあった場所を更地にして、10戸単位で住宅の建設が行われていた。都心から始まった建設ラッシュがいよいよこのあたりにも及んできたという感じである。最近も散歩道にしている林の一角に、9戸の住宅が建設されるという告知看板を見たばかりだ。
「あのスーパーに行く途中の右手の区間にも10件ほど住宅が建つんだけど、その中の一軒に火がつけられたらしいわ」
「あそこはまだ完成していない。建設中の住宅に火をつけたというのか」「おかしくないわよ。家が燃える様子を見たかったのかもしれない。分からないわよ。いやだわ、近いのよ」
「それで、警察はなんて?」
自分たちも注意して警備をするが、皆さんも気を付けるようにと言ったという。やれやれ、である。
「それはそうと、古川さんから凄い声であいさつをされててね。いや、ちょっと参っててね」
「古川さん、この前玄関前の花に水やりしてたわ。なんだか寂しそうな感じだったよ」
「寂しそう。なんで」
「知らないわよ。娘さんが結婚でもしたんじゃないの。最近見かけないから」
「なるほどね。まあ、それは寂しいのかもしれないけどね」
 なんとなく話はそれで途絶えた。妻にとっては近所の放火の方に関心がひかれるのはやむを得ないであろうと、その時は思ったのだ。
 そして、ふと考えた。なぜ古川さんは、薄暗い中でもそれが私だと認識できるのか。
 古川さんは、夜の薄暗い路地でも、相当な自信をもって私に挨拶をしてくる。それは私であると確信をしているといって良い。つまり明らかに私と分かったうえで大声を上げてくるのだ。

5
 帰宅途中、自宅のすぐ近くのT字路で、古川さんの奥さんに声をかけられた。こんな時間に路上で会うなんてめったにないのだが。
 色が白く、骨が細いためか、ふくよかな体はぽっちゃりと柔らかそうな印象を与える。
 古川さんの奥さんは、結婚前に古川さんの勤務地近くのスナックで働いていたという。これも古川さんから聞かされたことだが、スナックを経営していたのかバイトだったのかも知らない。
「結婚前は、水商売をやってましてね」というような言い方だった。
「我々の仲間にも結構人気があったんです。あれを目当てに日参するようなのもいたんです。結構色っぽい割には気性がさっぱりしてるからでしょうな。人気があったんです。それがいつの間にかそういうことになりましてね」
 だから、なのか、男性に対する態度がおおらかに見える。あまり距離を置かずに接するような気がする。男慣れしているのだ。心理的にも、そして物理的にも。
「聞きました?」古川夫人は少し小声で、私の耳に風を送りこむような様子で話しかけてくる。他の近所のご婦人方に比較してカジュアルな話し振りである。わたしはわたしで悪い気はしない。
「何がですか?」
「あら、聞いてないのかな」
「だから何がです」
「またあったの。放火」
「そうなんですか。先週の建築中の住宅の放火未遂ではなくて?」
「昨日よ。昨日の夜中に」
「それじゃあ連続放火じゃないですか。どこですか」
「この町内なの。二丁目のYさんの家」
「近いじゃないですか」
 その家は自宅から徒歩5分といったところで、犬の散歩でよくその前を通ったものだった。 
「敷地に入って、ライターか何かをカチカチしているところを誰かに見つかって、大声出されて走って逃げたらしいわ」
「ライターカチカチですか。放火犯とは限らないじゃないですか」
「夜中に他人の家の敷地でライターカチカチしてたら放火犯に決まってますよ。しかも昨日の今日でしょ。決まってるわよ」
 しかしこの一帯にも監視カメラが設置されているはずなので、犯人の姿は撮影されているのではないだろうか。それに郊外とはいえ、深夜でも人はいないようでも結構いたりするものなのだ。
「ねえ、あらかた目星はついてるのかもしれないわね」
「なんでYさんとこなんでしょうね」
「あの人、犬が嫌いなのよね」愛犬家だった奥さんは、Yさんと何かいきさつがあったのかもしれないが、脈絡のない返答だった。
「知ってます」私は過去のある出来事が思い出された。
「あの人は犬が嫌いなんですよね」
「ワンちゃんがいない生活は寂しいわ」
古川夫人は視線をそらしながらそう言った。
「私もそうですよ」
「ワンちゃんがいても寂しいけれど」
 私はある初夏の日、散歩の途中に川べりのベンチで休んでいた。
「失礼します」といいながら同じベンチに中年らしき女が座って、大きく開いたブラウスの胸元の汗をハンカチで拭い始めた。他のベンチも空いているのにと私は思ったが、直接目をやるのも何か不躾かなと思い、そちらを見ることはなかった。
「暑い暑い。ああもうこんなに汗が」
 良いにおいが流れてきた。白く柔らかそうな肉付き、夏だから腕も足もかなり露出している。体中に汗をかいているのかと、ふと目をやるとそれは古川夫人だった。私と目が合うと、それが私だと初めて気づいたというように、あら、という表情をしたのち、微笑んだ。
「放火の件、あなたも気をつけてくださいね」
古川夫人はそういうと、自宅の方へ歩いて行った。

 6
「さっき古川の奥さんに会ったよ」
「聞いたでしょ、昨夜の放火。こわいわ」
「Yさんのうちだよね。犬、嫌いだったって奥さんが言ってたよ」
「言ってたよって、あなただっていやな目に合ってるじゃない。ジャンの散歩の時に」 
 ジャンというのは当時の飼い犬なのだが、散歩中にYさんの家の前で長々と放尿をしたことがあったのだ。私はペットボトルに入れた水をかけて、そこを立ち去った。むろんペットボトルの水ですべての汚れやにおいが消えてしまうことはないのだが、そこは儀礼というか「最低限の仕事をしましたからね」という飼い主側の弁明のようなものなのだ。
 それに対して「汚れとにおい、取れてないよ」などと言われた犬の飼い主はいないのではないか。阿吽の呼吸というか、何事もお互いさまというか。「そうなんだ。立ち去った後にバケツで水をかけて、デッキブラシでごしごしやってたんだよ。アスファルト道路を。それから家まで来たんだ」
 きっと背後から私がこの家に入っていくのを見届けたうえで、呼び鈴を鳴らしたのだ。無防備に出ていった私に、家の前で犬の放尿をさせないでほしいこと、させるのなら近くの遊歩道でやらせてほしいこと、自宅の前で放尿をする犬が最近異常に増えてきたこと、その匂いは水で洗ってもなかなか取れないこと、そういうことにとても苦しめられていること、わざとやらせてるんじゃないかと思うときもあること、夜もひどく匂うので夏でも窓を開けて眠ることができないこと、役所にも相談したけど対応が悪く住民税を払うのが惜しいと思ったこと、子供も神経質になっておりそれが原因とは決して言わないが第一志望の高校の受験に失敗したこと、そしてそれ以来めっきり快活さがなくなってしまったことなど、30分以上にわたって訴えるのだった。
「何かそういうトラブルがあったのかもしれない」
「じゃあ先週の放火未遂は?」
「リハーサルかな」
「放火のリハーサルなんて聞いたことないわ」
「そういえばあのこと、話してなかったっけ。古川さんのこと」
「古川さんの奥さんの旦那さんのこと?」
「うん、会うたびに大声であいさつされるんだ」
「古川さんは元気者だもの、それに元自衛官だもの、声は大きいなって、あなた自分でも言ってたじゃない」
「いや、それはそうなんだけど、それとは別物の大きさなんだ」
「別物の大きさ。ごめんなさい、話が全然見えないの」
 そこで私の異様な体験を話して聞かせた。最初は夜の細い路地で、いきなり自転車で追い抜きざま大音声のあいさつを投げつれられたこと。その翌朝も同様の大音声であいさつをぶつけられたこと。毎回動悸が激しくなるほど驚かされていること。普通のあいさつとは全く次元が違う、異様なまでの大音量で、絶叫といってもよいくらいの挨拶だったということ。そんなことが何回も続いていること。それでとうとう今朝は無視をしてやったこと。
「ちょっと普通じゃないんだ。悪意すら感じるんだ。狂気といってもおかしくない」
「大きな声に聞こえるんじゃないの?むしろあなたの声が小さいから」
「そういう相対的な問題ではないよ」
「つまり古川さんに驚くほどの大声で背後から挨拶をされ続けているのね」
「そうなんだ、不意を突いてという感じが抜けないんだ。到底慣れないんだ。意図的なものも感じるんだ」
「ううん、ちょっとよくわからないんだけど、いったい何が問題なのかな」
「なにが問題なのかな?」
「むしろお互い顔見知りなのに、あいさつもしないって、気分を害するのならわかるのよ。でもあいさつされてって」
「いや、違うよ。背後から異様な大音声で突然、だよ。誰だって驚くし怒りも覚えるし」
「『ああ、びっくりしたあ。古川さん、驚くじゃないですかあ、わっはっは』とはならないんだ」
「無理だよ。すごいんだよ」
「マロンちゃん、死んじゃったじゃない、かわいそうに」
 マロンちゃんというのは、古川さんが勝っていたトイプードルである。先天性の心臓弁膜症だったそうだ。
「寂しいんじゃないの?」
「まあそれはあるかもしれないけど、それとまあ君の言うように娘さんの結婚が重なったのかもしれないけど、それとこれとは」
「メッセージかもよ」
「メッセージ?」
「そう、メッセージ。古川さんからのメッセージ」
「どんな?」
「『僕とお友達になりましょうよお!』という。今度飲みでも誘ってみたら」

 7
そうそうと、夕食を終えてソファで夕刊を広げている私に妻が言った。
「今日古川さんと少し話をしたのよ」
「古川さんと?」
「そう。偶然スーパーであったのよ。あの人週3日の労働なんだって言ってたわ。で、今日はお休みの日らしいの。だから夕食の買い物に来てたのね」
 やはりまだ働いているのだ。元気ではある。
「で、やっぱり連続放火の話になったわけ」
「なんか言ってた?」
「家のローンがまだだいぶ残ってるんで、燃やされると困りますなあだって」
「こちらもご同様だよ。火災保険に入ってるったって、燃えてしまえば失うものが多すぎるよ」
「お互いそういうことを言い合ってたのね。で、警察というのもどうなんですかねえ、とか」
「あてにならないということか」
「自衛も必要です、だってさ」
「さすがだね。自警団の結成、夜回りの実施とか」それはそれで面倒なことだ。
「うん、でもどちらかというと自分で捕まえたいみたい」
「自分で捕まえる?」
「現行犯なら警官じゃなくても逮捕できるんだって」
「いや、それは私人逮捕というやつだが」
「私人逮捕?」
 私人逮捕とは、警察などの捜査機関ではない一般人が「犯人」を逮捕することで「刑事訴訟法」で認められてはいる。最近動画サイトなどで広く知られるようになったものだが、閲覧数稼ぎのために敢えて犯人を「作る」行為や、偶然見つけたのではなく、犯罪を探しに行く「狩猟」に近い感覚が問題視されている。正義感を装った自己顕示といった側面もあるし、やらせや冤罪も発生しているし、嫌疑をかけられたものが「逃走」の途中で階段から転げ落ちてけがをするなど、すでに社会問題視されている。
「さっき週3日の『労働』といったのは?」
「そうなの、会社勤めじゃなくって、都内を巡回してるんだって」
「私人としてか。警備会社でのパートとかではなくてか」
「『組織に属しちゃうとやりたいことはやれませんわ。わっはっは』なんですって」まったく、と私はつぶやいた。何か日ごろの鬱屈がそこに顕在化されているような気がした。
「この半年ほどで10人ほど逮捕したっていうのよ」
「逮捕って誰を」
「痴漢ですって。でも適任かも、元自衛官で筋骨隆々、67歳くらいじゃまだまだ若いもんには負けないわ。悪人成敗、世直し人参上!」
 現在話題になっている「私人逮捕」なるものに私は否定的である。犯罪の現場にたまたま居合わせて、やむにやまれずすることではなかろうか。こちらから探しに行くものではないだろう、と私は考えていた。
「でもわからないわよ」と、妻は私の考えを遮るように言った。
「古川さんって結構真面目な顔して冗談きついし。それに四捨五入して70でしょ。必死で抵抗する若い人を抑え込む体力があるかしら」

 8
 古川さんが「私人逮捕」に至った動機とはなんだろうか。朝、駅までの道を歩きながら考えてみた。もちろん妻が言うように「冗談」で言ったことなのかもしれないとは思いつつも。
 正義感だろうか。元自衛官として、痴漢行為に遭遇して、見て見ぬふりはできなかったんだろうか。 
 最近問題になっているように、動画サイトにアップして閲覧数を稼ぐためだろうか。しかしこれはどうも古川さんのイメージ的にフィットしない。
 あるいは娘さんが痴漢行為をされて、深く傷ついて、社会生活が送れないほど傷ついてしまって、通勤電車にも乗れなくなったのでやむなく退職してしまった。残業は多かったが気に入った仕事だったのに。そして自室に閉じこもって出てこない。食事も母親がドアの前に置くのを音もたてないようにして食べるだけ。だけどいつも半分以上残している。
 恋人も心配するのだが、彼からのメールにも返信はしない。彼が会いに来ても部屋から出ない。男性と男性的なるものに対するぬぐいがたい嫌悪感、憎悪が彼女の生理にへばりついてしまったのだ。
 古川さんは、娘さんが結婚して家を出てしまったのが寂しいのではなく、かわいそうな目にあったのを知って心を痛めていたのかもしれない。
 それが理由で電車内を巡回して、痴漢行為の摘発を行ったが、それが娘に害を加えた犯人であるという確信は持てない。半年で10人も私人として「逮捕」しているというのに、古川さんは娘さんの心の傷や痛みが治癒しているという実感がないのかもしれない。
 また、昨今は痴漢だけではない。盗撮も性加害行為として広く認知されつつあるという。最近ではあのシャッター音を出さないアプリも公然と売られていると知って、唖然としてしまった。ごくごく普通の会社員が女性の下着の盗撮にふける。どうも依存性が強いらしい。盗撮の被害者は、その画像が無限に拡散され続けるという思いに取りつかれ、これもまた社会生活に支障をきたしてしまう人も多数いるらしい。
 古川さんはそういった盗撮者も捨て置かないはずなのだ。
「今撮影しましたね」決して見過ごさないだろう。
 そのような日々を週3日とはいえ、半年ほど送ってきたのだ。確かに疲れて当然かもしれない。虚しさを感じても不思議ではない。
 しかし、正義とはそんなに簡単なものだろうか、とも思うのである。「目には目を」式の報復で、問題は解決するのだろうか。娘の傷はいえるのか。世の中から性加害の数は減少するのだろうか。つまり効果ということなのだが。
 どうも私の考えは、的から外れているように思われる。物事を単純にドラマ化して理解しようとしているのかもしれない。
 まあどうでもいい。駅までの道すがらあれやこれやと妄想してみただけではあるのだし。

 その時私の右側を自転車が通り過ぎていき、その人は5メートルほど先に停止して私を振り返った。満面に笑顔が張りついて、右手を「やあ」といった風に上げている。典型的な挨拶のポーズである。その、なんといったらいいのか、まるで翁の能面のようなその笑顔は、古川さんだった。
 私は軽く虚脱した。
 それ以来、古川さんの挨拶はそういう風になった。

9
 とりあえずあの日以来、背後から怒鳴り声で挨拶されるのでは、という恐れからは解放された。ただ、時たま能面の翁が乗った自転車に全速力で追走される夢は何度か見た。

 放火事件はその後鳴りをひそめ、噂に上ることはなくなった。しかし容疑者が捕らえられたということでもない。近隣住民の不安が解消されたわけではない。
 そのうち古川さんが一人で夜警を始めたらしいと、妻が私に話した。
「それ、直接本人に聞いたの?」
「ううん、古川さんの奥さん。今日回覧板を持ってきたときに聞いたの」

 
「あのう、古川です。回覧板をお持ちしましたけど、少しよろしいですか。私少しお話しときたいことがありまして。

「うちのマロンがいたころは、よくお宅のワンちゃんの散歩のときにお会いしてたじゃないですか。それでよくお話をさせていただいてたんで、何かお話がしやすいというか、親しみを持ってるといいますか、そんな気がしてたんです。ですから奥様のお耳に入れといたほうが良いかな、なんて思ったんです。

「マロンも、お宅のジャン君もなくなっちゃって、なかなかお話しする機会もなくなっちゃって、回覧板お届けするときに、なんて。

「もう2、3年になりますよね。もう犬は飼われないのですか。そうですか。いえ、うちもなんだかその気になれないんです。ほら、犬の寿命はだいたい15年くらいって言いうじゃないですか。そうすると私たち夫婦は結構な年になるでしょう、朝夕の散歩とか大丈夫かな、なんて。少し躊躇するとこもあって。自信がないというか。何かあったらワンちゃん、かわいそうじゃないですか。

「いえいえ、元自衛隊なんて言っても、70近いんですよ。駅までだって歩くのが億劫だっていうんです。だから自転車なんです。ご存じでしょ?お宅のご主人なんて立派ですよ、毎日駅まで歩いてらっしゃるし、その前に軽くウォーキングだのジョギングだのしてらっしゃるじゃないですか。ええ、よくお見掛けしますよ。元気だなあって、主人とも話してるんです。

「え?痴漢の逮捕?私人として?あはは、それたぶん嘘です。見栄張ったんじゃないかしら。電車の中で何かあったのかもしれませんが、週に3回の巡回だなんてばかばかしい。はは。今はホームセンターでバイトしてますよ。

「お金とかよりも、なにかずっと家にいられないんでしょうね。退屈、ですかね。うずうずするとか、分かります?何か動いていたいんですよ、たぶん。

「いえいえ、そんな体力はもうありません。確かに若いころは仕事柄体を鍛えていましたし、今だって風邪はひかないし、幸い大きな病気もしませんけどね、やっぱり老人の体力になっていますよ。

「いや、それが、こと放火となると、目の色が変わるというか。スイッチが入るっていうんですかね。やはり危害を加えられるというような気になるのですかねえ。自己防衛本能が作動するんでしょうかねえ。

「それで、先週から夜回りを始めたんです。夜警というんですか。俺のこの手で、とかいうんです。何か目が燃えてるんです。ははは。少し気味が悪くって、わたし。

 

「そう、ほとんど毎晩なんです。プロ野球中継が終わって、しばらくして11時ごろですか。懐中電灯を持って、ふらっと、ちょっと見回りしてくるって。

 

「それで、一度変なことがあったんです。

 

「夜警の途中で、うちのが若い人ともめたことがあったんです。そこのコンビニで、5、6人くらいがなにかたむろして、タバコを吸ったりお酒を飲んだりしながら、店に来る女の人に絡んだり、大声でいやらしいことを言ったりしてたそうなんです、ええ。見逃せないくらいだったそうなんです。

 

「それで、注意したら、逆に、『なんだと』ってことになったらしくって。

 

「注意の仕方もまずかったんじゃないかと思うんです。直接的というか、思いっきり直球を投げ込むような。そんな態度で注意されたら、向こうだって引っ込みがつかないじゃないですか。

 

「それで、もみ合いになってひどく殴ったっていうんです。1人2人。それで、全力で走って逃げてきたっていうんです。何人かに追いかけられたけど、こっちは土地勘があるから、巻いてやったって。ゼイゼイ言いながら。

 

「どの程度の力で殴ったのか、相手にどの程度の傷害を負わせたのか、聞いても暗かったからわからないっていうんです。手の骨が折れていないか確かめてました。ですから相当ひどく殴ったようなんです。

 

「無我夢中だった。でも正当防衛だ。向こうから殴りかかってきた。自分は悪くない。ただ警察とか呼ばれると面倒なんで、急いで逃れてきたんだって。

 

「それから、不意に、私に、防衛大学の卒業証書を出せって。それと自衛隊でもらった辞令を出せって。

 

「もちろん大丈夫なんだけど、念のためだからって。

 

「何が念のためなんですか、そんなもの私は知りませんっていうと、ものすごく怒ったんです。そんなものとはなんだって。その時、殴られるかと思いましたよ。あんな顔は初めて。

 

「それなら預金通帳をだせって言うもんだから、もう、はいはいって。実印もいりますかって聞いたら、通帳だけでいいって。それでそれをもって、玄関の上がり框っていうんですか、あそこに正座するんです。通帳を横において。

 

「預金通帳には主人の全財産です。退職金もほとんど手付かずなんで、まあかなりの額です。あたしは本当は住宅ローンの繰り上げ返済とか、運用に回した方がいいんじゃないかって言ったんですけど、まとまった額が手元にないと何かあったときに困るだろって。取り合わないんです。ええ、心配性かもしれません。

 

「それで、さっきからなんですかって、私聞いたんです。卒業証書だとか昇進辞令だとか、預金通帳だとかって、どうしたっていうんですかって聞いたんです。そうしたら、警察が来るかも知れないからっていうんです。さっきの暴力沙汰で通報されたかもしれないって。もう日が替ってますよっていったんですけど。来るなら2人組だろう、若いのとベテランの組み合わせだろうとか。そうしたら防衛大の卒業証書と自衛隊の昇進辞令を見せるつもりだったっていうんです。

 

「でも、ないんだから、預金通帳を見せるほかないだろって。これは自分の自衛隊の退職金のほぼ全額で、これが自分の経歴の証明だって。自分は間違ったことをする人間でないことはこれを見れば明らかだろう、これが自分の信用だって。自分とあの若いチンピラとどっちが信用できるかって聞いてやるんだって。わっはっはって。

 

「いいえ、来やしませんよ、警察なんか。次の日も、またその次の日も。

 

「まあ、長々とすいません。家の恥を申し上げるみたいで。でも、いつもそうじゃないんですけど。

 

「するとですね、ある日、夜警から帰ってきて、こう申しましたの。ある人物を見たって。まさかあの人がっていう人が、うろうろしているのを見たって。

 

「あなた、まだ宵の口なんですから、人が歩いていたっておかしくないでしょって、私言ったんです。でも、見ればわかるんだ、周りに目配りしながら歩く姿。怪しまれているのを意識しながら歩く姿。後ろめたい人間の歩き方は分かるもんだって。そして、きっとそうに違いないって。

 

「わたし怖くなって。放火犯もですけど、主人もなんです。そう思ってしまったら、もう手が出ちゃうんじゃないかって。またいつかのように、わって、やってしまうんじゃないかって。

 

「そうなったら今度は間違いなく警察が来ると思いますよ。そこらのチンピラとのいざこざじゃないんですからね。

 

「ですから、ですからお宅にお伝えしたかったんです。取り返しがつかなくなる前に。ええ、そうなってからじゃ遅いじゃないですか。分かっていただけますよね?本当にそうなってからでは遅いんですから。

 

「申しげにくいんですけどね、その意外な人物というのは、

 

「お宅のご主人です」

 

10

 その朝。私の右側を自転車が通り過ぎていき、その人は5メートルほど先に停止して私を振り返った。満面に張り付いた笑顔で、右手を「やあ」といった風に上げてあいさつポーズを示した。

そうして翁の能面のような笑顔を浮かべた古川さんは、駅へ向かう坂道を下って行った。

 

                         2024年4月26日

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