プロレスに詳しい人の意見を聞きたい、昭和プロレスの「ん?」その4

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『ジャパンプロレスはマッチメイクの面で、全日本プロレスに対してどの程度もの申せたのか』

 昭和のプロレスで忘れてはいけない団体の一つが、ジャパンプロレスでしょう。主催興行のみならず、曲がりなりにもシリーズを開催しているのですから、れっきとした団体として認めなくては。何よりも、その活動期間の短さに反して、当時の存在感はかなり大きかったと言えるのではないでしょうか。
 シリーズ開催は、もちろん全日本プロレスの協力があってこそだったとは思いますが、その割にマッチメイクでかなり大胆というか好カードを連発しており、ひょっとしたらジャパンの方が主導権を握っていたのではないかとすら思えてきます。

 たとえば……いきなりですが、クイズです。全日本に移籍して以降のデイビーボーイ・スミスから、最初にピンフォールを奪った日本人選手は誰?
 答、長州力。一九八四年12月のジャパンプロレス自主興行後楽園大会にて、シングルマッチで対戦し、長州がフォール勝ちを収めています。ちなみにスミスの全日本初ピンフォール負けは、最強タッグ公式戦のハンセン&ブロディvsキッド&スミスで、ハンセンに。
 その後、スミスは何度か全日本プロレスに参加し、しばらくピンフォール負け(ギブアップ負けも)なし。二度目のフォール負けは、翌年5月に行われたジャパン主催のミニシリーズ・ビッグラリアートフェスティバルの最終第六戦、札幌大会での長州&マサ斉藤vsハンセン&スミスで、またも長州に敗れています。
 対する全日本プロレス勢は、スミスから一つもきれいな勝ちを上げられないまま、キッド&スミスの一度目の離脱を迎える。
 全日とジャパンの提携における契約条項の一つに、長州がフォール負け・ギブアップ負けすることはないというのがあったそうですが、そこへ加えて、スミスから二度のフォール勝ち。随分と厚遇されたものです。長州の格上げ、というよりも鶴田らの格下げのためにスミスを“いけにえ”にした感さえあると言っては言いすぎでしょうか。スミスも「あの長州にならフォールを取られても自分が落ちることはない」と捉えていたのか……。

 まあ、デイビーボーイ・スミスのことはまだ分かるのですが、対ジャパン勢でよくこの扱いに甘んじたなと感じる大物外人レスラーが二人います。
 一人は、テリー・ファンク。一九八六年10月ジャイアントシリーズ両国大会、リック・フレアーのキャンセルにより急遽実現した長州との一騎打ちで、サソリ固めでギブアップ負けを受け入れるのはいかなる心境だったことやら。ドリーの乱入で反則負けっぽく装ったのがせめてもの抵抗?
 いま一人は、ミル・マスカラス。露骨な負け役こそなかったものの、小林邦昭やヒロ斉藤(カルガリーハリケーンズですが、実質的にジャパンプロレス)と両者リングアウトドローというのは、メキシコでの格を思うと、マスカラスにとって屈辱だったのでは? ジャパン勢云々から離れますが、二代目タイガーマスクの三沢光晴とも引き分けでしたし。

 もう一つ、ジャパン側がマッチメイクで相当力を持っていたと思えるのが、鶴田と長州の一騎打ちです。この一戦、最初は一九八五年の8月、ジャパン主催の大阪大会で行うことが発表されました。しかしその前のジャパンのシリーズ開幕戦にて、鶴田がジャパン軍の集中攻撃を受け、右肘を負傷し欠場。当日は代替カードとして長州の相手を、天龍、カーン、谷津、ジャイアント・キマラの中からファン投票で決める形式が採られ、谷津に決定。快勝した長州が試合後にマイクを取り、「俺達の時代」宣言をしています。
 筆者は当時この成り行きを見て、鶴田vs長州をジャパンのリングで行うことに、全日本から横やりが入ったのかな?と頭の片隅で思ったものです。反面、興行の流れとして、ジャパンの選手達が鶴田に集中攻撃を仕掛けるのは分かるけれども、それで欠場させてしまうというのは不合理な気がしないでもなし。
 で、上のように感じたものですから、鶴田vs長州の初シングルは全日本の興行で実現するものと信じ込んでいました。が、実際にはおよそ三ヶ月後、ジャパン主催の同じく大阪大会で実現したことは、昭和プロレスファンならご存知の通り。結局、ジャパンでやるんだ? じゃあ鶴田欠場はマジだったの?と不可解さを覚えたものです。
 邪推するに、本来は8月のジャパン大阪大会で、長州が鶴田の右肘を攻め立ててレフェリーストップ勝ち(当然、レフェリーはタイガー服部)をし、10月から11月にかけての全日本の大会で鶴田が借りを返す予定だったのかも?
 でも馬場は「長州は天龍と同格、鶴田は二人より上」という考えを基本的に持っていたとされていますから、一勝一敗のストーリーに土壇場で反対した? だからといって二試合続けて引き分けも芸がないし、馬場からすれば「二連続ドローだと鶴田と長州が完全に同格になってしまう」ってなもんで、同意しがたい。
 そうした諸々をうまく飲み込むべく、鶴田vs長州は一九八五年11月の一度きりで、鶴田が余力を残したように見えるドローで幕引きにした――。もしこれが的を射ているとすれば、馬場は長州らジャパン側に譲歩しつつ鶴田の格だけは絶対に守ると決めていたのかしらん。

 無論、長州は長州で、鶴田と再戦しないことで己の格を守ったのかもしれません。そんな長州も、譲歩したなと思しき試合がいくつか見受けられました。
 たとえば石川隆士とのシングルマッチ。阿修羅原の復帰へのストーリー作りという側面があるとは言え、石川とノーコンテストの引き分けというのは、大幅な譲歩。
 またたとえば、最強タッグ公式戦での、安パイと思われていた外人チームから取りこぼす。次でも触れますレイス&ジェシー・バーを始め、ニック&カート・ヘニング、マーテル&ジンクから二点を取れていない。リーグ戦全体の星勘定があるとは言え、かなり顕著な傾向と言えそう。長州は外人レスラーが苦手という定評にも当てはまる。

 あと、ジャパンではなく全日本での興行でのことになりますが、ちょっぴり引っ掛かりを覚えることがあります。すなわち――ハリー・レイスとジャパン勢主力との一騎打ちは悉く流れている。悉くと言っても二度だけですけど。
 まず一九八五年3月、エキサイトシリーズの名古屋大会で、レイスvs谷津が組まれましたが、レイスの欠場により流れています。このときはレイスがだいぶ前から試合に出ていないので、本当に体調不良による欠場だったのかもしれません。
 次に同年の12月、世界最強タッグ決定リーグ戦の新潟大会にて、レイスvs長州の特別試合が予定されるも、確か長州から体調がよくないと申し出があったとかでカード変更に。それなら長州のパートナーである谷津が代わりにレイスとやれば3月に流れた試合が実現するし、いいと思うのですが、熱戦譜によると実際の変更カードは、長州&谷津vs天龍&渕、レイス&バーvs園田&冬木というなんの変哲もないタッグマッチ二つに。馬場の地元である新潟大会で好カードが消滅したというのに、代替カードがこれって違和感があります。他の選手のカードもタッグマッチ連発で大したことないと言えます。
 3月の件はともかくとして、12月の方は、ひょっとしたらレイスと長州らジャパン勢の間で何か確執が生まれていたのでは?と勘ぐってしまう。二日前の山形大会で、レイス組と長州組の公式戦が行われ、レイスと長州は椅子を持っての大乱闘の末、レイス組が反則勝ちで二点獲得していますが、これが伏線となったのかどうか……。この公式戦はテレビ中継されたのを観ましたが、荒っぽい試合ではあったもののプロレスの枠内に収まっていたように記憶しています。

 最後に。前田日明と長州のトークで、長州ら維新軍が新日本から全日本に戦場を移したのは、実はアントニオ猪木の指示だったという話が出たのをきっかけに、あれこれ検証されてなかなか説得力を持った説になっているみたいです。
 仮にその話が真実だったとして、あれは何だったと思ったのが上でも触れた「俺達の時代」宣言です。あれは「もう馬場・猪木の時代じゃない。両巨頭抜きでオールスター戦をやろう!」というような主旨だったと思うのですが、猪木は許していたのかどうか。当時の報道では、馬場・猪木を除いたオールスター戦実現の気運が高まるも、結局は両巨頭の力により潰されたことになっているはず。猪木は長州らに全日本に行けと言っただけで、長州の言動にまでは手綱を付けられなかった?

 それでは。

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