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自分自身であることを許してくれる誰かとの「真実を語り合い聴き合うことのできる関係」

イソップ 寓話の中に、北風と太陽の
どちらが強いかを決めるために
勝負する話があります。
北風と太陽は道を歩いている男を
見つけました。


そこで北風はその男のコートを
脱がすことができると言い張りました。
太陽はこの勝負を受けて立つことに
しました。
北風が強風でコートを吹き飛ばそうと
すると、男は脱がされまいと必死で
コートを押さえました。


北風が勢いよく吹けば吹くほど、
男はますますしっかりとコートを
押さえました。次は太陽の番です。
太陽が暖かな陽ざしをいっぱいに
注ぎ始めると、男は”自ら”コートを
脱いだのでした。


北風と太陽のコートを脱がす勝負が
心理療法の理論に何の関係がある
のでしょうか。
この一見やさしそうな物語は、
効果的な介入、つまりは、
望ましい治療結果に対する
先駆的な存在として、理論の重要性を
浮き彫りにしていると考えます。


指針となる理論がなければ、
個人の役割を理解することなしに
症状だけを治療しようとして
しまうかもしれないし、
間接的な支援方法(太陽)が、
しばしば直接的な方法(北風)と
同じくらい、あるいはそれ以上に
効果的であることを理解できない
かもしれない。
治療の理論的根拠を見失い、
代わりにたとえば、
社会的正当性にとらわれたり、
シンプルなことはしないように
なってしまうかもしれない。


統合のプロセスを歩んでいる
人がいれば、その人のいる場所が
学校になると思っています。
道とは人間の統合プロセスの道程であり、
進化そのものだと考えられますが、
今はそういう場所がなくなって
いると思います。


昔は情報が少なかったぶんだけ、
自然の流れに直結した感覚で
生きられたのではないか
という気はしています。
自然に囲まれた環境で生きていたら、
当たり前にように
”自分は大きな流れのなかで
生きている”という感覚が
湧いてくるのかもしれません。


しかしながら、
あらゆる情報が次々と飛び込んでくる
現代のように感じるべきことを
考えようとすると自分がわからなくなり、
「あれがいい」「こうあるべきだ」
「あれは間違いだった」
と翻弄されてしまうこともある。


そういった意味で考えると
他人に教えられるものなんて
大したものでもなく、
統合した大人の生き様から
学んでいけるような居場所、
教える、教えられるの関係ではなく、
暮らしのなかで学び、育っていける
ような場が理想だなと思っています。


「何が起こっても体験として
味わったらいいのではないか」
となれば、
感覚器官は自然に開いて、
人生に対して
「何が起きても大丈夫」と
信頼して受け入れられるようになる、
これが人間、本来の姿であり、
自分の身体と内面で体験し、進む。


ブータンにいくとみんな
貯金などほとんどしておらず、
不安はない、いざというときは
助けてくれる人が50人はいるから
大丈夫といいます。
日本にもかつては村社会のような
コミュニティがありました。
つながることが安心感だったんだと
思います。


でもいつしか、
つながりよりもお金のほうが
安心できるのではないか
という幻想を抱くようになり、
それがお金がなくなることへの
恐怖に変わってしまい、
何のために働いているのか
わからなくなっています。


アメリカの臨床心理学者で
来談者中心療法を創始した
カール・ランサム・ロジャーズ氏の
著書からは、
一人一人が自分の
『内臓感覚=内なる実感』に即して
「自由に生きること」
「徹底的に自分らしく生きること」
「自分の実感以上に信頼できるもの
など何もない」
「それ以外は何も恐れるに足らない」
「周囲の期待に応えるな」
「孤立を恐れるな」
そんな強烈なメッセージが
発せられています。


しかし、これを一人で貫くのは
困難を極め、多くの人は困難に
ぶつかり、心が折れて、挫折する、
その前に人とぶつかるのを恐れて
周囲に迎合し、自分の気持ちを抑えて
「いい人」になって過ごそうと
するかもしれない。


けれど心の中では叫んでいる、
「本当の私はここにはいない!」
では何が必要なのか、
真に自分として生きるために
必要なものは何か?
それはあなたが本当に自分自身である
ことを許してくれる誰かとの、
「真実を語り合い聴き合うことの
できる関係」だとロジャーズは
考えます。


人が真に自分らしく生きるには、
誰かたった一人でいいから、
あなたの本当の理解者が、
あなたの傍らにいてくれることが
必要なのだと。
ロジャーズにおいて
人が自分自身を生きることと、
それを可能にする誰かとの
「関係」はワンセットなのです。


人はその人をその内側から
深く丁寧に理解してくれる人が
いるならば、おのずと、
定型的なパターン化された
思考をやめ、自分自身の内側に入り、
内側で思考し、内側から言葉を
発するようになり、
「内側の、言葉にならない、
大切な何か」に即して
言葉を探すようになっていきます。
その「何か」、言葉にならない
暗黙知に触れながら、それを
何とか言葉にしようと絞り出し、
自分自身の言葉を取り戻す時、
人は自分の内臓感覚から言葉を
発するようになるのです。


この内臓感覚という言葉が
現代人が新たなよりどころを
探すキーワードの一つになり、
確固としていて確かです。
私たちが今までは何か違うと思う時、
あるいは、人生の大事な岐路において
何か誤った選択をしそうになっている時、
それは確かな「内臓感覚的違和感」を
もって軌道修正を迫ってきました。
(なんか、違う感じがする…)


その時点ではそれが何であるのか、
どのような理由でそうしては
ならないのかわかりませんが、
確かに重要であるということは
よくわかり、しばらく時間が
経った後ではじめて、
それが何であったかわかるのです。


ロジャーズがいう
”内臓感覚”で考えるというのは、
「考えるな、感じろ」といった
反知性的な生き方のことでもなく、
内臓感覚を大切な思考の手がかりとして
生きる人は、それまでに獲得した
多様な経験や知識など、
ありとあらゆるデータをフルに
活用して、より賢明にものごとを
判断していくようになるというものです。


誰か、たった一人でいいから、
その人をただそのまま受け止めてくれる
関係性を与えられた時、
人は内面的に自由になっていき、
自分がどのようなことを
どのように語っても、ただそのまま
受け止めてもらえる関係の中で
人は承認の条件から解放され、
自由になることができるのだそう。


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