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物理的世界と知覚のズレ、視点を変える絵画観察トレーニング、見ないことには本質を知ることはできない


「百聞は一見に如かず」とは
よく知られたことわざですが、
国語大辞典によると
何度も人から聞くよりも
実際に自分の目で見る方が
まさっているという意味で、
他人から聞いて知ったつもりに
なるのではなく、
”実際に自分で確かめなさい”
という戒めの言葉でもあります。


目にあるのは「視覚神経細胞」、
耳にあるのは「聴覚神経細胞」、
視覚神経細胞の数は約400万個、
それに対し、聴覚神経細胞の数は
約3万個とされています。


つまり、人間の「見る」という視覚は、
「聞く」という聴覚の約130倍の
神経を使っており、
結果として聞くよりも見る方が
脳細胞へ確実に信号を伝えることに
なるのです。


目で見るということは
それほど強力であり、
視覚情報がいかに重要であるかを
端的に表しています。

最近ではインターネットや
スマホの発達で、自宅にいながら
世界中の情報を知ることができます。
しかし、すべての情報が正しいとは
限りません。
情報をそのまま信じるのではなく、
別角度から確認したり、
さらには、直接見に行って
調べることも大切なのですね。


日常にデジタル世界が
どっぷり侵食してきたことで、
観察力、創造力、知覚力、感性
といった人の能力が鈍ったり、
あるいはそれらを発達させる
機会を多く失った気がして
なりません。


観察力、創造力、知覚力、美意識、
感性など発達させることは、
ビジネス界でも求められています。
なぜなら、たった今は
コロナ不況ではありますが、
豊かさが広がり、世界中で
「自己実現の追求」が
されるようになった昨今、
世界経済市場(デジタル世界)が
「自己実現欲求の市場」
になりつつあるからです。


市場が多様な自己表現欲求を
満たすためにある以上、
「思考力」だけで帳尻を合わせられる
時代が終わろうとしている今、
これまで重要視されてきた論理的思考
や機能的優位性を示すというよりも、
真っ先に磨くべき、高めるべきは、
思考の前提となる認知、
「思考“以前”の力=知覚力」
すなわち「知覚(感じ取った外界の刺激に
意味づけをするまでの過程)」です。


ご存知とは思いますが、
「知覚」とは感覚器官が捉えた情報を
脳が自分にとって有利な情報に
作り変えて意識に上げたものを
いいます。


私たち人間は三次元(立体的)な
世界を生きているつもりに
なっていますが、
そもそも視覚はカメラと同じ構造に
なっていますから、二次元的(平面的)
にしか物事を捉えていません。


そして、視覚が捉えた
二次元的な情報をもとに、
脳の神経を伝わっている間に
三次元的に作り直された情報が
意識に上って、
私たちは”もの”を見ているわけです。
つまり、おかしな言い方ですが
私たちが普通に”もの”を見ているのも
ある意味、錯覚であり、
「知覚」の段階にまで処理された
情報なわけです。


すなわち、
客観的性質(物理的性質)と
観察したもの(知覚したもの)の
性質との差異(ズレ)が
あるわけですね。


近年、日本の医学部では、
医学生に対して
「診察の精度を高めるためには、
観察力を鍛える必要がある」とし、
カリキュラムのなかに
絵画の鑑賞を組み込み、
観察力を磨くトレーニングを
しているそうです。


患者さんに対する
観察力、診断力、共感力、
コミュニケーション力などのスキルは、
医学生だけでなく、卒業後も
医師として鍛え続けていく
(トレーニング)必要があります。


欧米では、アート教育と医学教育を
結びつけるという教育法を
取り入れている医科大学は、
ハーバード大学医学部をはじめとして、
かなりの数に上ります。


情報があふれかえる
デジタル社会の中で、
集中する対象を発見するには、
必要な情報をしっかりと
見極めることが重要になります。
そのため、情報の荒波をかきわけて
重要なものを発見する知覚の質次第で、
集中できるかどうかが左右されて
しまうのです。


スマホという依存性の高い
魅力的なツールに夢中になり、
集中が「貴重品」のように手に
入りにくくなってしまったところに、
科学的に効果が実証された
知覚を鍛える
「絵画観察トレーニング」に
注目が集まっている理由が
あるようです。


私たちは今、自らの文化や
精神性を改めて深く認識し、
それらをしっかり引き継ぐことを
真剣に考えねばならない時代にあり、
芸術の果たす役割もますます
大きくなっていくに違いないと
感じています。


人類史には偶然や失敗から
生まれた発明品が数多くあります。
偉大な発明はどこから降ってくるかは、
誰にもわからない、
探求するテーマで行き詰まったときこそ、
まったく違う世界へ飛躍してみると、
新しい価値が発見されることが
あるものです。


アイディアの発想も同様で、
誰しも仕事でスランプに
陥ることはあると思いますが、
実は行き詰まったときというのは
突破口が開ける直前であることが多く、
必要なのはアイディアに
形を与えるための”最後の一押し”
だったりします。


Every act of creation is
first an act of destruction.
– Pablo Picasso
いかなる創造活動も、
はじめは破壊活動である。
– パブロ・ピカソ


ピカソの絵は二次元ではなくて、
三次元的に見ると、時間が経って
モデルの身体の位置がズレたり
してくるに従って、描いている
こちらが見ている場所も
変わってくるという作品です。


1881年に
スペインのマラガで生まれた
「20世紀最大の画家」
「パブロ・ピカソ」として知られる、
彼の本名は、
「パブロ・ディエゴ・
ホセ・フランシスコ・
デ・パウラ・ホアン・
ネポムセーノ・マリーア
・デ・ロス・レメディ
オス・
クリスピン・クリスピアーノ・
デ・ラ・サンディシマ・
トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」


親や親戚の名前や神聖な名前を
つなげて名づけられているのだそう。


偉大な芸術家だけれど
「わからない」芸術家でもある
パブロ・ピカソ。
どんなにデフォルメされた人物像を
描いていても、彼は決して現実から
離れることはありませんでした、
常に現実から出発し、
その時々の感情や感覚を素直に
表現することが、ピカソ作品の
大きな特徴の一つです。


美術教師であった父親に
幼少期より絵画を学び、
早くから才能を発揮しました。
1890年、15歳のピカソは、
父親の指導のもと「生と死」を
テーマに制作、
『科学と慈愛』をコンクールに出品し、
結果的に金賞を受賞し、
この作品はピカソの神童ぶりを
示しました。
ピカソは亡くなるまでこの作品を
手放さなかったといいます。


審査員を驚かせるほど
高い技術を身に着けていた彼は
決して同じ場所にとどまることなく、
変貌を繰り返し、自由に飛躍していき、
伝統的な絵画表現は物足りないものでした。
そこでより自分らしい絵画表現を探求し、
青の時代、バラ色の時代を経て、
”キュビズム”の表現方法に到達しました。


”キュビズム”とは、
それまでの常識であった
「ひとつの視点から対象物を見て描く」
という考えを捨て、
あらゆる視点から対象物を見て、
それをつなぎ合わせることによって
表現する描き方をいいます。


同じものでも、見る角度や
そのときの環境によって、
まったく違った見え方をします。
ピカソはそういった見え方のすべてを
1枚の絵に収めようとしたのですね。


最初はたった数人の画家の活動でしたが、
キュビズムは誕生からわずか数年で、
後に続く美術の革命の土台となるほど
大きな革命だったといい、
それまで西洋美術の中で当たり前と
されてきた遠近法などのルールを
根底からひっくり返しました。


20世紀の始まり頃になると、
多くの画家が物が本当に
そこにあるかのようなリアルな絵を
描こうとはしなくなり、
物体や空間をキャンバスに
そのまま再現していく事が
重要ではなくなったのだそうです。


つまり、ピカソは
「見えるものを描くのではなく
知っていることを描く」
といっているように、
抽象画を目指していたのではなく、
絵画に、知的で新しい要素を
取り入れたのです。


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