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長江文明と倭人

 1970年代に長江(揚子江)流域で次々と遺跡の発掘が続き、小麦と牧畜の黄河文明とは明らかに形態の違う稲作と漁労の長江文明の詳細が少しずつ明らかに成り、しかも黄河文明より1000年以上は遡り、エジプト・メソポタミア・インダス各文明並みの1万数千年以前の起源と推定され、紀元前6000年から紀元前5000年頃の河姆渡遺跡(かぼといせき)からは稲作の痕跡が発見され、その住居は高床式建物で発見された稲籾のDNA鑑定ではジャポニカ種の稲で有ったとされ、それら文明を担った人々は、黄河文明の漢族「漢人」ではなく「倭人」と呼ばれていたとする周の史書も存在し、時代は周代より1000年ほど進みますが「魏志倭人伝」に記された「倭人」とは、日本列島に住んでいた狭義の「倭人」ではなく長江文明を担っていた広義の「倭人」を含めて指すのではないか、その「倭人」は気候の寒冷化から南下した漢族に押され、民族の大移動とも言える東西南への大きな人の動きが有り、東に逃れた倭族の人々の一端が日本列島に稲作や鵜飼いなどをもたらしとする説が日本では有力と成って来ていますが、中国では黄河・長江両文明とも漢族の文明で、漢族による「黄河の文明」「長江の文明」としていて、倭族による「長江文明」の存在は認めず、その長江文明の担い手たる民族が「倭人」と言われた日本列島に住んでいた人々と同根で有ったのでは無いかまでは、今少し長江文明の発掘調査研究待ちに成りますか。

 東シナ海の海流などにより、現在でも年に数例は上海沖で遭難した中国の漁民が1日か2日位で長崎などに流れ付き、日本政府により航空機で中国に送り返されているそうで、海流に乗れば長江流域からは比較的容易に日本に辿り着けた様で、今後の長江文明の発掘調査の成果発表に関心が高まります。                      

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