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鉄砲伝来と根来衆。和歌山県岩出市。グーグルマップをゆく #65

 グーグルマップ上を適当にタップし、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は、和歌山県岩出市。

 岩出市のほぼ真ん中に根来寺という新義真言宗の寺院がある。高野山の僧で空海以来の学僧といわれた覚鑁(かくばん)が大治5年(1130年)に開山し、正応元年(1288年)に頼瑜によって、現在の場所に移されて新義真言宗となった。

 鎌倉以降の真言宗は衰退の一途をたどる。空海の教えは見る影もなく、高野聖とは乞食僧であり、僧兵などに代表される、もはや僧かどうかもわからない荒くれ者で溢れた。根来寺も例外ではなく、室町時代末期の最盛期には450を超える坊舎と72万石もの寺領を持つ一大宗教都市を形成した。僧兵は1万を超え、彼らは「根来衆」と呼ばれた。

 根来衆は、鉄砲を武装した僧兵たちであった。岩出市は、天文12年(1543年)にポルトガルから種子島に伝わった鉄砲が、本州に初めて伝わった地として知られる。

 慶長11年(1606年)に、鉄砲伝来について編纂された「鉄炮記」によると、「紀州の根来寺の杉坊某というものが、鉄砲が欲しい一心でやってきて、その心に打たれたので杉坊某に鉄砲を贈り、津田監物に託した」とある。これによって本州に初めて伝わったとされ、津田監物については、戦国時代の砲術家で津田流砲術の祖となっている。

 鉄炮記に記されていることだけでは、どうして杉坊某を求めてやってきたのか、鉄砲の存在をどう知ったのか、など、不明な点が多い。杉坊某は津田監物の弟・杉坊明算で、根来寺の子院・杉坊の院主とされている。津田監物は、当時根来衆を統率していた紀伊那賀郡吐前(はんざき)城城主である。

 鉄砲伝来については諸説あるが、ここでは省くとして、どうやら津田監物は、鉄砲のことについてどこかで知ったらしい。どういうふうに聞いたかは、わからない。「遠くのものを撃ち落とせる筒があるらしい」とでも聞いたのかもしれない。

 それが、種子島にあると聞き、弟の杉坊明算に行かせたのであろう。杉坊の院主であったならば、新義真言宗の僧であり、相当の荒くれ者だった可能性もあるが、鉄砲の仕組みや火薬について、しっかりと教わって帰って来ている。しかし、いざ作るとなると難しかったのであろう。芝辻清右衛門という刀鍛冶に製作を依頼している。芝辻清右衛門も初めて見るであろう鉄砲の製作に困ったはずであるが、見事に作り上げている。

 史実がどうであったかはさておき、ここで着目すべきは津田監物の先見の明とマネジメント力である。得体の知れぬ鉄砲について、役立つはずだという判断のもと、適材適所に人を動かした結果、鉄砲は根来衆の主力武器となり、その後、それまでの戦のあり方を変えていくのである。

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