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僧が建てた塚口城。兵庫県尼崎市。グーグルマップをゆく #70

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は、兵庫県尼崎市。

 大阪府と兵庫県の県境に位置する尼崎市は、古代より港として栄えた。漁民や海民を意味する「あま」と、海に突き出た場所を意味する「崎」を繋げて「尼崎」と呼ばれるようになった。

 また、平安期から中世にかけて、多くの荘園が作られたところでもあり、「武庫之荘」という地名は、その名残である。

 北部に塚口という場所があり、室町期、ここに一向宗の布教のために性曇という僧がやってきた。布教中に体調を崩してしまい、ひと月ほど留まることとなった。その間に祐信というものが帰依し、性曇にお堂を建てたいと願い出た。掘立小屋程度の道場であったろう。

 その後、お堂を中心に村が栄えた。しかし、村が栄えすぎたためか、土地の有力者に目をつけられ、村人との間に軋轢が生まれた。村人は一揆を決行する。その際、お堂の周りに土塁と堀を作って拠点とし、塚口御坊と呼ばれるようになった。

 小さな祠程度のお堂が土塁と堀によって立派な要塞になったため、戦国期、織田信長が謀反を起こした荒木村重を攻める際の駐屯地とした。これによって、塚口城と呼ばれるようになる。

 ことの発端となった性曇という僧が気になって調べたが、詳細がよくわからない。室町期の一向宗の僧であれば、浄土宗の僧で、法然の流れを汲むものであろう。法然の弟子には「性」の字がつく僧が何人かいる。

 布教中に体調を崩してひと月ほど滞在したとのことであるが、体調と関係なく留まった可能性もあるので、滞在の理由にするほどのことではない。

 今では一向宗の僧となっているが、当時は高野聖の類であっただろう。中世末期ともなると、乞食同然の旅僧は一向宗とも高野聖とも見分けがつかず、浄土宗の僧も浄土真宗の僧も、まとめて一向宗と呼ばれた。

「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」と謳われるほどに、物乞いをしにやってくる旅僧は嫌われ、事実、家に泊めようものなら、娘を手篭めにかけて家に居座った。

 徳川家康の先祖も徳阿弥という僧で、松平郷の松平氏に取り入ったと言われている。

 性曇もまたろくでもない僧であったかもしれないが、今となっては何とも言えず、それが歴史の面白さでもある。

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