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相良家700年。熊本県球磨郡。グーグルマップをゆく⑩

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立ったところを歴史探索をするグーグルマップをゆく。今回は熊本県球磨郡。

 熊本県球磨郡。かつては人吉市も含み、肥後国最大の領地だった。古事記の「熊曾」、または日本書紀の「熊襲」が、名前の由来と言われているがわからない。古代「クマ」とは、「奥の方」を意味し、日本の奥を表す言葉から来たのかもしれない。

 平安末期、この地に源頼朝によって配流されたものがいた。名を相良頼景と言う。その後相良氏は、明治までこの地を治めるが、鎌倉期からおよそ700年もの間、同じ一族が治めた土地はほとんどなく、「相良700年」と称される。

 室町末期、相良家は所領において一向宗を禁じた。日本歴史上、一向宗を禁制にしたのは他に薩摩藩以外にない。一向宗とは、鎌倉期から浄土仏教の総称として用いられた。鎌倉後期から室町期にかけて一遍上人亡き後の時宗が勢力を拡大し、日本各地で「南無阿弥陀仏」を唱える乞食僧が横行した。衰退の一途を辿っていた真言宗高野山も時宗化し、高野聖と呼ばれた。

 時宗の僧か高野聖かわからぬが、乞食僧が薬売りとなって人吉藩(球磨郡)を出入りし、相良家は禁制を出した。禁制文には、「由緒不二髄成一医術並売薬の事」「にせ薬種並毒薬売薬の事」とある。地方からやってくる正体不明の宗教者の医術行為や売薬活動が盛んで、それが一向宗の伝導活動と見なされて禁制の対象となったらしい。おおよそ「この薬と一緒に南無阿弥陀仏と唱えればもっと効き目がある」と言って札でも渡したのだろう。

 しかし、禁止すればさらに信仰が激化するのは今も昔も同じである。民衆は隠れて一向宗を信仰し、隠れ念仏と呼ばれた。見つかれば仏具が焼かれた。薩摩藩に至っては、拷問にまでかけられた。夜な夜な誰かの家に集まって、念仏を唱えて踊ったのだろう。そういったことは結束力を強める。禁制は明治まで続いた。

 禁制令を出せば、違反者は処罰できる。これは大きな抑止力となり、一向一揆などの反乱に至らなかったらずに済んだと言える。織田信長や徳川家康が一向一揆に相当な精神を削がれたことを思うと、卓越した政治力である。

 ここに「相良700年」が象徴されているように思われて仕方がない。同じ土地を700年もの間治める続けることは並大抵ではない。九州という中央の権力争いから遠く離れた小さな豪族であったということあっただろう。しかしながら、それ以上に時流を読む能力に相当長けた一族だったとしか思えない。


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