見出し画像

古代の水都、大阪府高槻市。リアルグーグルマップをゆく。

 諸用で大阪府高槻市に赴く。ここ数年でJR高槻駅の周辺は様変わりしたように思う。

 高槻というところは、大化の改新以前より栄えた土地で、三島県主(みしまのあがたぬし)という宿禰が治めていた土地である。瀬戸内海から淀川を上がってくる水路は、京都府乙訓郡大山崎を終点とし、淀川の各津は栄えた。高槻もその一つである。

 現在の北摂地区は古くは三嶋郡とされ、高槻から水無瀬までの北側を嶋上、高槻より南側の吹田、箕面、豊中、摂津のあたりを嶋下とした。

 現在、その地名の名残は三島郡島本町だけとなってしまったものの、高槻市にも三島という地名は残っている。継体天皇は、淀川の水路の守り神として高槻の三島江というところに朝鮮半島の大山祇神(おおやまづみのかみ)を勧請した。

 これがのちに、瀬戸内海伊予の大三島と静岡の三島市へと分布し、三三島(さんみしま)と呼ばれるようになる。また、現在も大阪の北側、吹田、箕面、豊中、摂津、高槻、茨木、島本を「北摂」地区と呼ぶが、これらは古代からの名残である。

 古代、淀川沿線を押さえておくことは政治上重要であり、北摂は摂津とも呼ばれ、特に重要な地であった。「摂」という時は「摂政」にも使われているように、「かねる」「兼務する」「かわる」などの意味があり、「摂政」であれば「政治をかわる」という意味であり、「摂津」であれば、「津(港)をかわる」となり、政治的な意味を含ませた。

 政治的に重要な地であったことが、漢字からわかるのである。難波宮を中心に、淀川の北側の三島と、瀬戸内海の中央に位置する大三島に大山祗神をおいたと言うことが、水路を押さえる役目を持っていたということである。

 大阪と京都の真ん中に位置し、ベッドタウンとして機能している高槻市は、現在も特有の文化圏であることは古代の名残かも知れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?