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山口を支配する毛利氏。山口県周南市。グーグルマップをゆく⑯

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は、山口県周南市。

 周南市は2003年に発足した市でまだ新しく、ほとんどを徳山市を引き継いだ形である。徳山市は江戸期に徳山藩として栄えた藩で、毛利輝元の次男・毛利就隆を藩祖とする長州藩の支藩であった。

 毛利就隆は、歴史上においてあまりパッとしない人物のようである。これといって功績はなく、藩主として平凡な生涯を過ごす。彼の人生において事件をあえて挙げるならば、1634年、長府藩の毛利秀元が長州藩からの独立を図り、それに乗じて独立を画策したものである。

 どうもこれも毛利秀元にそそのかされて便乗した様子。毛利秀元は毛利元就の四男である。吉川、小早川と他藩を任された兄たちと甥っ子の息子である輝元への嫉妬もあったかもしれない。

 ここで着目すべきは、なぜえ独立を図ったのかという点である。それはひとえに、立地による。瀬戸内海の入り口で、大陸からの船が大阪へ向かう時には必ず通る港である。元々は大内氏が治めており、日中、日韓貿易が盛んな地で、室町期には「西の京」と称されるほどになる。

 それは長州藩にも引き継がれており、江戸期には防長三白という米、塩、紙の3つの産物を流通させて潤った。長府藩の毛利秀元は長州藩の支藩ではなく独立して自らが藩を統治したかったに違いない。

 徳山藩には、徳山湾があり、これは第二次世界大戦までの間、海軍の要港であった。戦艦大和の最後の補給地でもある。ここを取り込めば長州藩を出し抜けると踏んだのだろう。しかし、結局失敗し、長州藩の支藩として幕末まで続く。

 毛利就隆及び徳山藩は歴史的にはパッとしないが、立地と徳山湾によって十分な財源を確保し江戸期を生き抜いたのであろう。長州藩とその支藩である長府藩、徳山藩は、貿易によって幕府から与えられた石高以上の財源を蓄え、幕末に幕府を倒すに至る。

 毛利就隆が平凡な生涯を送ったと書いたが、毛利元就によって中国地方を支配し、戦国時代を生き抜き、関ヶ原の敗戦より、長州藩に閉じ込められてた毛利氏において、その子孫たちが何事もなく平和に暮らせたことは幸せだったに違いなく、毛利就隆を貶めようとするものではない。

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