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先見の明があり過ぎた藩主・堀直虎長野県須坂市。グーグルマップをゆく④

 グーグルマップ上を適当にタップし、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は長野県須坂市。

 長野市と上田市に隣接する須坂市は、堀直重を藩祖として信濃国高井郡に立藩された。1万石程度の石高であったが、明治まで続いたところを見ると可もなく不可もなく安定した藩であったと思われる。代々の藩主も特に目立った様子もない。

 そんな須坂藩から、幕末に傑物が輩出される。13代藩主・堀直虎であである。ペリー来航の17年前にあたる1836年に江戸生まれた彼は、幼少期より聡明で、漢学や国学をはじめ英学や蘭学も学び、書も一級であった。剣も直心影流で、英才教育を受けて育った。ペリーが来航した頃には兵学砲術を学んでおり、南郷茂光の「英国騎兵連兵書」の翻訳に取り組み、海外への興味も深かった。

 当時の12代藩主だった兄・直武に西洋軍式を取り入れるよう「警備策」を進言し、自らも衣服を西洋風に改め、写真機を購入して写すなど、当時の日本人としては、かなり進んだ考えを持っていた。

 自らの名前である直虎を「Straight Tiger」と称した。自らの名前を英語に直訳するユニークさを当時の日本人が持っていたことに驚かされる。英語を学んでいる者の中で、そういった遊びが流行ったのかもしれない。それに対して、周りの人間はそんな彼を「唐人堀」と呼んだ。幕末において、英国かぶれを「唐人」と比喩するあたりに当時の日本人の海外に対する鈍感さを伺える。

 1861年、25歳にして藩主になる。当時の須坂藩の城内では賄賂などによって藩政が乱れており、これを一掃すべく家老などの40人もの家臣を追放して改革を行い、軍制もイギリス式に改めた。

 藩主在任中に大政奉還が行われ、その直後に若年寄兼外国惣奉行という要職に任命される。時を同じくして王政復古の大号令が発せられ、新政府が樹立し、翌年には鳥羽・伏見の戦いが勃発する。

 鳥羽・伏見の戦いで敗北した徳川慶喜は京から江戸に逃げ帰り、旧幕府の家臣たちは混乱を極めていた。その最中、直虎は江戸城内で自ら命を絶ち、突然生涯を終えるのである。

 なぜ、突然命を絶ったのかについては不明で、徳川慶喜に何事かを直接諫言し、受け入れられなかったことが原因とも言われている。

 大政奉還直後に任命された外国惣奉行という役職であるが、これは大政奉還後に設けられた新しい役職であり、外国奉行という役職を取りまとめるものである。しかし、外国奉行は外国惣奉行より10年も前から存在しており、外国奉行の人間が自分達の上にできた役職の人間をうとましく思い、良からぬことを上に言って、直虎に責任を取らせたのかもしれない。

 当時、外国惣奉行の職に就いていた人間は直虎を入れて3人で、その内の直虎以外の他2人は鳥羽・伏見の戦い後免職されており、残りの一人である塚原昌義についてはアメリカに亡命している。

 もう少し想像を想像を広げるならば、直虎はイギリス贔屓で、薩長もまたイギリスと通じており、もしかしたら薩長との間者の容疑でもかけられたのかもしれない。

 直虎の死について、勝海舟が解難録という記録で触れているが、直虎の名前が間違っているなど解せない点も多く、全くもって謎のままである。

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