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素晴らしき蔵の町喜多方。福島県喜多方市。グーグルマップをゆく㉗

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想散策する、グーグルマップをゆく。今回も友人にタップしてもらってピンが立った、福島県喜多方市。



 喜多方は会津の北部にあったことから「北方」と呼ばれていたものが、明治になって「喜多方」に改名された。

 喜多方は蔵の町で、4000以上物蔵がある。蔵の在り方はあまり他の地域では見ない。通常、蔵というのは貯蔵などのために建てられているものであるが、喜多方においてはそれにとどまらず、店舗のために使用する店蔵、居住としてしようする蔵座敷、漆器職人が作業を行うための塗り蔵、屋敷の塀としての塀蔵などがあり、厠蔵というトイレまであるのだ。もはや、町が蔵のようである。

 これには大きな理由があり、それは明治13年にこの町を襲った火災によるものである。

その時の様子について、

 現在の喜多方市の中心部(当時は小荒井村)の表通りにある1 軒の店から出た火は、瞬く間に燃 えひろがり、約3百棟が灰燼(かいじん)と帰 した。失意に沈む村人たちの目に 映ったのは、1面の焼け野原の中にくすぶりながらも残った蔵の姿であった。

平成11年 喜多方市勢要覧(喜多方市教育委員会)

と記されている。

 この火災についての詳細はよくわからないが、これをきっかけに土蔵の耐火性への信頼が増し、喜多方の人々は貯蔵庫から作業所、店舗、住まい、という順に蔵を蔵作りの建物を増やしていくこととなる。

 勝手な推測を進めるならば、この火災より遡ること12年前の明治元年、会津地方は戊辰戦争を発端とする会津戦争の戦場となった。主戦場は会津若松であったが、政府軍は喜多方にも侵攻する。その際、会津藩東軍は小荒井村の民家に火をかけて退路を防いだ。

 会津戦争から12年という年月は、まだまだ人の記憶には鮮明に残っている。ようやく復興した町が再び火の海となったことに、防火意識がより高まったのではないだろうか。

 喜多方の人々の蔵に対する想いはひとしおならぬもので、「ーに嫁とり、二に孫もうけ、三に宝の蔵を建て」「仲人は蔵三つまではさばをよんでもよい」「年増女房は蔵が建つ」「男四十にして蔵をもてぬようでは、一人前とはいえない」という独自のことわざを産むに至り、素晴らしい街並みと独自の文化を今に残している。

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