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キリスト教信仰の証言 [2] -神の平安に包まれる-

引き続き、救いの証をまとめていきたいと思う。私がキリストを信じるようになった経緯は煩雑なので、複数の切り口から語っていきたい。


聖書研究会への参加


前回の記事で「東京での大学生活を夢見て、地元の北海道から上京して一人暮らしを始めたのだが、希望はすぐに失望に終わった」と書いた。その中身を伏せていたが、とても簡単な話で、大学の授業が理論的・抽象的すぎて面白くなかったことに尽きる。

私は当時の世界情勢だった旧・社会主義圏の民主化、ソ連の崩壊について研究したかったのだが、現在は違うが、その時は殆ど研究書がなく、関連資料さえも存在しなかった。その時、初めて私は政治学でなく、ジャーナリズム論を学びたかったことに気付き落ち込んでしまった。欧米は政治学部があって広範囲の領域を学べるが、日本の大学では法学部政治学科だとか、政治経済学部政治学科とか、法学の付属品としての政治学であり、経済学の付属品としての政治学という扱いなのだ。

講義がつまらなくて失望した私は父親に「退学して働きたい」と言ったが猛反対されて結果、卒業することになった。

そのような時に「そういえば、弁論部とか、学術系のサークルには参加していたが、聖書研究会のことを忘却していた。大学公認のキリスト者学生会と言い、全国の大学に展開するプロテスタントの福音派の聖書研究会だった。当時、聖書研究会ではヨハネの福音書を読んで感想をシェアすることをしていた。無神論者の私だから厳しい質問はするし、聖書の言葉に噛みついて異論を並べたてていた。

しかし、聖書研究会のキリスト者たちは優しく対応し続けてくれた。こんな私とキリスト教批判の発言を受け入れてくれたのだ。徐々に私は彼らの友情に心が柔らかくなり始め毎日、サークル室に出入りするようになった。高校時代の聖書を破れるほど、旧約の創世記から新約のヨハネの黙示録まで何度も通読した。

一日中、聖書漬けで、サークル棟で偶然、通りかかった親友から「お前、ずっと聖書を読んでいるのか」と驚かれた。良くも悪くも、それなりの大学に入学すると、一事に専門的に取り組んでいる学生は友人たちから一目置かれる。私の場合、キリスト教であり、聖書を読むことだった。

「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭10:41-42‬ ‭新共同訳‬‬
https://bible.com/bible/1819/luk.10.42.新共同訳
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こうして私は、すべてのサークルを辞めて聖書研究会に集中した。その時に政治家になることも、研究者になることも捨てていたのだと思う。

ある日、いつものように聖書研究会で学んでいると、リーダーの女性から「あなたはもうとっくにキリスト者だと思っていますよ」とニコニコと笑顔で言われて絶句した。何故、そう思うのかと問い返すと「聖書をたくさん読んでいるし、サークル室に来ない日はないし、私たちと一緒に祈ってるから」と答えられて考え込んだ。「そういえば俺、いつからこうなった?」と。

キリスト者扱いされた当時の私は目下、キリスト教の異端に騙されて過去と同じ失敗をして恐怖に怯えている真っ最中だった。都心を散策していた時のことである。「政治とか、国際情勢について学習するサークルなんだけど、きみもどうかな」と声をかけられて、大学の講義に不満を持っていた私は愚かにもヒョイヒョイと従ってしまったのである。少数の集まりの中、カウンセリングと称する対話をしながら映像学習するという内容だった。他の大学の学生たちもたくさんいるらしい。しかし、現在は内閣調査室で勤務している弁論部の先輩が「それは統一協会のダミーサークルだぞ。俺は関わりたくないから早く脱出しろ」と注意されて仰天しました。

またしても、キリスト教の異端の罠にはまりそうになっている。まだ二回しか参加してなかったので、三回目に「あんたら統一協会で洗脳しようとしてたのに嘘つきましたね?辞めます」と言い放って帰宅した。そうすると、脅迫手紙が届いたり、深夜に無言電話のラッシュで不眠に苦しむようになってしまった。

大学の保健センターに行き、東京大学から出向している医師から「強迫神経症だね」と診断されたほどです。精神的にはそこから被害妄想が強くなって外出できなくなり、他人が常に自分の悪口を言うような幻聴に加えて、何も動けなくなる鬱があたりまえとなりました。

「希望はすぐに失望に終わった」というのは講義に対する幻滅と、統一協会からの嫌がらせが原因だったのです。

高校生の時にはモルモン教にも騙されて父親が救出してくれたので助かりました。

即ち、私はキリスト教の三大異端のすべてから被害を受けたことになります。だから、現在の教会では「エホバの証人、統一協会、モルモン教の異端とは関係ありません」と宣言しているのです。異端は人間の人格を壊してマリオネットにしようとするので要注意です。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
‭‭ローマの信徒への手紙‬ ‭10:17‬ ‭新共同訳‬‬
https://bible.com/bible/1819/rom.10.17.新共同訳
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聖書の神


キリスト者扱いされた私は自室で考え込んでしまいました。「俺は無神論者だ。聖書を読んでとても変えられたし、皆と一緒に心を合わせて祈ることもしている。だが、個人的にどうやって祈れば良いのか」とサッパリわかりませんでした。異端者たちからの攻撃があったので、宗教一般に対する嫌悪感はありましたが、聖書を読むことは大好きになっていたし、イエス・キリストはすばらしい御方だと確信したり、聖書研究会の仲間たちは心から信頼できる…だから祈ることに決めたのです。「異端の神に祈ることになったらヤバすぎる。どういう言葉で祈れば良いのだろうか。そうだ、この聖書が証言している神はキリスト教のマジの神だ」と考え、我ながら名案だったのでドヤ顔しながら「(この手を置いた)聖書の神様、どうかあなたがおられるなら私に答えてください」みたいな呼びかけだった。しばらくしても特に変化はなかったのだが、言葉では表現できない平安に包まれたのだ。無神論者だった私が、(聖書の)神の存在をきちんと確信できた経緯である。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭14:27‬ ‭新共同訳‬‬
https://bible.com/bible/1819/jhn.14.27.新共同訳
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それから聖書研究会の担当主事だった方の教会、日本福音キリスト教会連合・主都福音百合丘キリスト教会の礼拝に出席するようになった。初めは説教中に熟睡ばかりしていたが、半年くらい経過すると、説教を集中して聴くようになった。すると礼拝中、頻繁に私の体に聖水が流れるような神秘的な体験があったり、迷子になって祈ったら目前に目的地があったり、不思議なことが積み重なって、いつのまにか、神に対する信仰、及び、神の存在を疑ったり否定する私は消えてしまっていた。


引越しによる転入会


教会の礼拝に通って、神からの導きを受けていたのだが、統一協会からの嫌がらせは収拾がつかないほど悪化していた。あの時、教会の誰かに発狂寸前であることを相談していたら変化があったかもしれないが、私の前に開かれた道は二つあった。第一は、異端からの攻撃を我慢して教会に残る。第二は、引越しをして別の教会を紹介してもらう。ボロボロの私には第二の選択肢しかなく、主事も残念そうにしていたが結局、別の教会を紹介してくれた。

「四十日の後、彼らは土地の偵察から帰って来た。 パランの荒れ野のカデシュにいるモーセ、アロンおよびイスラエルの人々の共同体全体のもとに来ると、彼らと共同体全体に報告をし、その土地の果物を見せた。 彼らはモーセに説明して言った。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。 しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。 ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます。」 カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」 しかし、彼と一緒に行った者たちは反対し、「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と言い、 イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。 そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」」
‭‭民数記‬ ‭13:25-33‬ ‭新共同訳‬‬
https://bible.com/bible/1819/num.13.33.新共同訳
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「共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。」
‭‭民数記‬ ‭14:1‬ ‭新共同訳‬‬
https://bible.com/bible/1819/num.14.1.新共同訳
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カデシュ・バルネアの危機──、私は神に初めに導かれた教会でなく、自分の事情と問題解決を最優先して引越ししたのだが、残念なことに新しく礼拝に出席するようになった教会では神の臨在が感じることがなくなった。断っておくが、教会が悪いというのではない。神に抵抗した私が悪かったのである。牧師からは「最初に聞いておくが、キリスト者になりたいのか」と直球だったので「はい、なりたいです」と答えると「なら、今週から洗礼のための学びをするから礼拝以外にも来なさい」と言われた。こうして受洗前の学びを終えて、洗礼日の前日に牧師との面接を受けることになった。「あなたは神の臨在とか、霊的な体験とか、そういう言葉を使うがどのような内容を表現しているのか」と牧師から質問されたので、聖書しか読んでおらず、求道者にすぎない私は言葉に詰まった。「それは感情でしょう。体験だよね。四つの法則にあるようにまず事実、次に信仰、その結果が感情だってわかるはずだ」と畳み掛けられて返す言葉もなかった。今でこそ言えるが、私は無神論者で、色々な哲学と思想で知性が神を否定する人間だった。そのような知性重視の人間は普通、信仰に入ることが難しい。だから神はまず知性を砕き、聖霊によって満たして信仰へと導いたのである。

御霊の御わざのうち主要なものは「信仰」である。だから、御霊の力と働きについて、聖霊がいたるところに示していることばの大部分は、この信仰に関するものである。なぜなら、御霊は信仰によってでなければわれわれを福音の光に導くことができないからである。
ジャン・カルヴァン著
キリスト教綱要 Ⅲ
新教出版社

そして、聖書には同時に聖霊によってでなければ不可能な事柄が書いてある。

「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」
‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭12:3‬ ‭新共同訳‬‬
https://bible.com/bible/1819/1co.12.3.新共同訳
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牧師は「私が学生時代、聖書研究会でペンテコステ派のキリスト者が未信者の前で異言を使って祈ったため、未信者は躓いて去ってしまった。聖霊の賜物だとか、聖霊の体験のようなものが躓きを与えるならば、私は今後、絶対にそのようなものを認めないと決心した」と語っていた。牧師の場合はそうだったと思うが、私はペンテコステ派のキリスト者ではなく、むしろ、立ち位置的に未信者である。神の臨在を否定されてしまうと、私は元の無神論者に戻ってしまう。頭が真っ白になり、思考停止になったが、牧師が間違うわけないと考えて「それらの体験は思い込みでした」と言ったら牧師は喜んで「しばらく一人で祈りなさい」と呟いて別室に行った。私のために祈ってくれていたのだと思う。一方、私は今までの神の存在に対する信仰の感覚を完全に失い、途方に暮れてしまった。牧師が戻って一緒に祈った時、私は「主よ、私はイエス様のことがわかりません。十字架のこともわかりません。だから教えてください。見捨てないでください」と叫んでいた。そしたら牧師は「それで良いじゃないか。明日の洗礼式は延期しようと思ったが、洗礼式をすることにしよう」と言われた。その時から私はあらゆる霊的な感覚がなくなり、福音が以前よりもわからなくなっていき、神の存在を再び疑うようになっていった。


聖餐式の執行


そうだったとしても、受洗教会での信仰生活がすべて空しかったというわけではない。キリストの教会・有楽器派というグループに属する受洗教会は毎週、非常に珍しく礼拝で聖餐式を執行していた。その効果は絶大で、現在の私たちの教会にも引き継がれている。無論、私たちと受洗教会では聖餐の神学が異なる。それでも、キリスト者の力になり、信仰を強めて、教会の一員としての自覚を明確にする。伝道にも、特に子どもたちに有効なのだ。残念ながら、プロテスタントで聖餐式を毎週、執行している教会は稀であり、多くても月に一度である。そして、私が牧師として、主に導かれて学んだ最高の神学が聖餐論であったのだ。

教会に入ることは、死の彼方に自己自身を見出すことである。これが教会の洗礼的性格を意味する。
つまり教会は復活と新生と未来の焦点である。
……聖餐は、この洗礼共同体を啓示するが、それは聖餐が常に新たにそのようなものとして自己を構成し、自己を認識することを可能にするからである。
それで聖餐と洗礼の間には密接なつながりがある。
聖餐は、受洗者たちの食事であって、それにあずかる人々を洗礼による復活の状態へと回復し、その信仰を堅固にし、そしてその信仰を成長させる。
フォン・アルメン著
聖餐論
日本キリスト教団出版局

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