キリスト教信仰の証言[3] -聖霊のバプテスマ-
キリストの教会・有楽器派の教会で洗礼を受けた後、すっかり元気を失ってしまった私。更に鬱が酷くなり、原因不明の胸の圧迫感と希死念慮など、数えきれない謎の症状に苦しんでいた。「キリストを信じて本当に良かったのか」という思いが頭をよぎることも日常茶飯事だったが、聖餐式を伴う礼拝には毎週、出席し続けた。キリストの教会での毎週の聖餐式が唯一の慰めだった。
そんな時、大学も夏休みとなり、聖書研究会恒例のバイブル・キャンプがあったので、常連の私は少々気が乗らなかったが、他大学の友人たちと会う目的でしぶしぶ参加した。正直、霊的・精神的にはボロボロの状態で無言を貫いていた。
一人で食事をしていると何やら、騒がしい連中が食堂に入ってきた。何と、キリスト者学生会に連絡した時のリーダーが先輩たちと一緒ではないか。
早速、彼は私に「キリスト者になったんだって?それなのにどうしてそんな暗い顔をしているんだ」「君らしいねぇ…」と笑われながら絡んできた。
私はすっかり機嫌を悪くして「色々あるんですよ!そっちみたいに能天気じゃないですから」と言い返すと「あ、そうだ、俺たち今、開拓伝道をしているんだけど、キャンプが終わったら来ないか」と誘われた。
別に断る理由もなかったし、それ以上に彼らの溢れる喜びが謎だったので好奇心を持ったのである。私は彼らの開拓集会に行くことを決めた。
車内で数時間、話し続けたのだが、彼らが頻繁に「聖霊様」と語っているのが気になって「聖霊って…、何のことですか?」と質問した。無論、三位一体の神としての聖霊だとはわかっていたが、こんなにも会話の中で聞くことは初めてだったからだ。
キリストと神に関しては常に教えられていたが、聖霊なる神については誰からも私は聞いたことがなかったのである。
聖霊にこそ、ボロボロの私が立ち直るキッカケを与える秘訣があるのではないか?と、私の中に希望が芽生えたのである。
開拓場所は賃貸マンションでとても広くて、15人くらいは軽く入れるようなトコだった。神学生のリーダーとスタッフの二人でルームシェアをして家賃を折半していたのである。部屋に入ると既に5人くらいの兄弟姉妹がギターでワーシップ・ソングを元気に歌っていた。もうそれだけでカルチャーショックだった。
当時は、プレイズやワーシップ・ソングをギターやシンセサイザーで賛美することは、特に礼拝の中では厳禁だったからである。ユース礼拝とか、超教派の聖書研究会では許可されていたのだが、あくまでも限定的な扱いであった。
加えて開拓伝道も、牧師や教会、宣教団体などからの許可が必要で、無許可の場合、コッピドク怒られて「解散しなさい」と周囲から厳重な警告と命令があったものである。
ちなみに開拓集会はリーダーの母教会の牧師の承認を受けていたのだが批判された理由は、リーダーが当時、新設されたJTJ宣教神学校の神学生をしていたことに加えて、他教会の教会員を引き抜こうとしていたからであろう。もちろん当時から、私は羊泥棒に大反対だったからよくリーダーと喧嘩した。
今からすると信じられないような、制度的なキリスト教の世界だったが、神の御前で一人立ち、キリストを宣教する召命を受けた方々は現在、教団教派によって派遣されるもよし、自由に独立開拓伝道するのもよし、そんな時代になっている。
1980年代〜1990年代の信仰の先輩者たちが白眼視されても召命に忠実だったからなのだ。ならば私もその一翼を担わせていただいたとも言えるかもしれない。あの頃は辛くても、あまりのキリスト信仰の爆発的な喜びに他人の視線と評価なんて気にもならなかった、とゆうか知らなかった。
自由な賛美から自然に礼拝となったのだが、これも私が未経験の礼拝で驚いた。皆で円になって座り、一斉に祈り始める。いつも私は聖書研究会でも教会でも、一人ずつ祈るのが習慣だったため、みんなの祈りの声で、逆に祈りに集中できなかった。それからショートメッセージが15分くらい語られて、聖霊の賜物を行使していく。ある人に主からの言葉があれば、それを語り、預言が聖書で吟味されて、癒しの祈りが按手と共に捧げられる。それらの過程で一貫しているのは聖霊に満たされることが歓喜の源泉になっていると気付いた。
何度か集会に通っているうちに、リーダーにいつものように相談をしてもらったのだが、痺れを切らした彼は「いつまで悩んでいるんだ!イエス様に失礼だと思わないのか!何のために十字架にかかってくださったと思っているんだ」「お前のためじゃないか」と強い口調で愛の叱責を受けた。
それでも私は「しんどくて痛くて落ち込むのがどうしても耐えきれないんです」「十字架の福音を心から信じているのに、それでも死ぬほどきついのです」と返答した。彼に対して私はいつも卑屈とゆうか、頭が上がらなかった。何故なら、彼が私を聖書研究会への参加を認めてくれて、教会も紹介してくれたし、一緒に礼拝に連れていってくれたから。
すると彼はそんな私の初めての強情さに思うところがあったらしく、「待てよ?お前、受洗教会で牧師と喧嘩したとか言っていたが、何があったのか聞かせてもらえないか」と言われたから私は詳しく答えた。
彼は「なるほど、それは聖霊を否定する罪だ」「悔い改めた方がいい」「そういうことならさっきは言い過ぎた、申し訳ない」と謝罪された後、主に聖霊を拒絶した罪を悔い改めて、呆然としていた私に「これから異言で祈るから聞いてて」と彼は言った。
「異言?何だろう」「そういや、コリント書とか、使徒の働きに書いてあったけど」と思っているうちにあまりに美しい祈りの言葉が彼から聞こえてきた。意味はさっぱりわからない。しかし、音節とアクセントがあり、言語の分節化はしっかりしている…なと。
現代言語学を学んでいた私はそのように考えていたが突然、天から霊的な大洪水のようなものが注がれて、神の愛に圧倒されて私は倒れてしまった。
その後、祈り込んでいたら、自分では理解できない言葉が口からでてきたのだが、彼は「その言葉で話し続けてみて」と言われたのでしばらく語っていると「異言の賜物が与えられたね。祈りの言葉だから特別な出来事じゃないよ。異言は自分の意志で話したり黙したりできるんだけど、自分で真似ようとしたら言葉が続かないんだ。お前のは継続的に語れるから本物だよ」と言われてから、聖霊について聖書から教えてくれた。
聖霊はキリストのことを思い起こさせる神の霊であり、キリストの言葉に私たちを結び付ける御方である。
聖霊は聖霊御自身を隠して、キリストに栄光を帰す謙遜の霊であられる。その他にも教えてくれたが、聖霊は神の力以上に三位一体の神の神格であるという点が強調された。
そして私は開拓集会に出入りするようになって、心理的な有鬱と不安がすっかり癒されて、霊の解放を味わった。キリスト教の信仰に聖霊の導きは切り離すことができないようになったのは開拓集会のおかげである。抱えていた統一協会の問題も問題にならなくなっていた。
異言と聖霊のバプテスマを受けた経緯はすばらしい経験だったのだが、倒れた時に頭を強く打ってしまい、別に異常はなかったので放置していたが、徐々に原因不明の症状に苦しむようになった。
そして、開拓集会や諸教会の牧師たちからエクソシズムを受けることになる。ここからが地獄の苦しみであった。とにかく毎日、激痛の連続で日常生活は崩壊した。断食祈祷院で何度も祈ったが改善することなく、余計に悪化して「もう本当に駄目かもしれない」と絶望した。
時に異言と聖霊のバプテスマが「悪霊からの…」と思うことがあったことを白状するが、聖霊に満たされることがなければ私はキリストを信じることが不可能になっていたから、そのような考えは瀆神的だったし、何の役にも立たなかった。
てんかんのような上肢の発作、筋肉の硬直、顎関節症、偏頭痛、どこが痛いかわからない激痛などに限界を感じて、エクソシズムを盲信することをやめて、脳神経外科で精密検査をしてもらった。脳波、CTスキャン、MRIのすべてが正常であり、病原が発見されなかった。そして実家に脳神経外科からの手紙が届き、とある大学病院の精神科への紹介状が同封されていた。両親は結論が出なかったらしく、私にどうしたいかを聞いてきた。私は「治るものなら治したい。入院しても良い」と答えて、すぐに入院生活が始まった。
しかし、薬がまったく痛みと発作に効かないのである。検査入院しても何の治療効果もなかったため、私は祈りながら自殺未遂した。誤診とは恐ろしいものである。
「主よ、私はあなたを心から信じています。キリスト以外に救い主はいません。ですが私はこの痛みと発作の症状にもう耐えることができません。自殺が罪であることは知っています。でも、どうか憐れんでください。私のように主を信じていても苦しみに耐えきれずに死を選択する方々がいなくなりますように」というのが祈りの内容である。
私は森の中で倒れていたところを、森の管理人たちに発見されて救急車で運ばれたらしい。気付くと数日間は意識がなくてどこかの病院の一室のベッドだった。両親が赤い目をして二人で私の手をつないでくれていた。一命は取り止めたが、何という親不孝だろうか。神に対して何の言い訳ができるだろうか。教会に戻ることさえ躊躇したが、症状が治ったわけでもないから再度、別の病院に転院させられた。
閉鎖病棟に閉じ込められたのである。患者たちは理性的に会話できる方々が少なく、衛生的に酷く汚かった。夜になると病棟と食堂を区切るためにシャッターが降ろされる。トイレに行きたい場合、必ずナースの許可がいる。暴力沙汰、脱走沙汰は日常茶飯事で、すべての窓には鉄格子がある。排泄物まみれの廊下。「まるで人間収容所だ」と私は呟いていた。親との面会は15分から長くて30分だ。真夜中になると私は非常階段で「主よ、何故こんなことに!」と毎日、泣きながら床を叩いて祈り叫んでいた。
閉鎖病棟の件はいつかまた記述することにするが、私は大学卒業を最優先にして、教会に復帰した。みんなが私に配慮して優しくしてくれたが、この体でどうやって生きていくのか、謎であった。
社会人となり働くようになっても突然、倒れたり、痛みに転げ回ったりと散々であった。「教会の外に救いなし」「キリストを信じる以外に救いなし」と事あるごとに私が言うのも、以上のような試練と困難を通過しているからだ。
詳細は省くが、いつものように耐えきれず私は街中で倒れて、大学病院の救急で診察を受けることになった。夜間の救急は駆け出しの医師が担当することも多い。だが、待っている間に症状が激しくなり、駆け出し医の「まぁ、大丈夫ですよ〜」という言葉が終わらないうちに各科の医師たちが「待て、簡易検査をする」と言って集まってきた。簡易検査で自分の専門でないことがわかると次々に医師たちは去って行ったが、一人だけ残って「これは脳神経内科の領域です。系列病院を紹介するから精密検査してください」と言われたのである。
私は驚愕した。10年近く、原因不明の症状が診察の対象に?!と。早速、病院で脊髄と脊椎のMRIを受けて「脊髄性ミオクローヌス」という症状名が付けられて薬が処方された。
一週間後、私の症状はすべて抑えられていた。医師に対して号泣しながら「ありがとうございます」と言い、神に感謝の祈りが絶えることはなかった。
何せ、10年振りの痛みと発作のない生活なのだ。私は「神から奇跡の薬をもらえた」と教会に報告した。
紆余曲折があったが最終的に、指定難病17の脊髄空洞症と病名も付き、指定難病受給者証を得た。所属教会では皆から「努力不足」「病気のせいにして」と罵られていたし、障害者扱いされないという逆差別に困っていたので、ようやく公的に、社会的に認知されたことになる。
所詮、教会は罪人の集まりであって、キリストを信じて礼拝する以外の意味を私は見出せなかった。だからこそ、教会を通じてでしか、キリストと出会えないのだから、教会から離れることもしなかったのである。
聖霊のバプテスマを受けてから、異言の賜物を与えられたが、それらは神の恵みであると同時に、私たちが試練に打ち勝ち、自分の力に頼らない者として砕くために存在する。断じて、霊的な恍惚体験などではない。異言の賜物も祈りの言葉であって、特に祈りに弱い方々に与えられるのであって、傲慢不遜になってはならない。聖霊はキリストにおいて陰府下降の霊でもあるからだ。
マルティン・ルターは聖霊の体験を強調する者たちの報告を聞いた時、即座にそのような運動を否定した。「聖霊は血を持って語る。霊的な体験をして喜ぶよりも、殉教を覚悟しながら、試練の中で歩むことこそ、聖霊の力なのだ」と。
試練の中の信仰は、キリストの似姿へと私たちを変革させていく。仮に聖霊のバプテスマを受けたとしても、異言の賜物が与えられたとしても、神に対しても、人々に対しても、「キリストから離れて私は生きていけない」と、自分の弱さを誇る者は幸いである。
証言の第一章では胎児の時から祈られてキリスト者になったこと、第二章では無神論者が神の言葉に導かれてキリスト者になったこと、そしてこの第三章では聖霊のバプテスマを受けて試練の中の信仰を訓練されたことを記述した。
祈り、神の言葉、聖霊のバプテスマは、キリストに対する信仰が包括されている。
キリストを信じる信仰の出来事は、限りなく証言していくことができる。私も証言していないことがいくらでもある。いずれ改めて語ることがあるかもしれないが一応、今回で証言を休むことにしよう。
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