見出し画像

『ラストワルツ』ザ・バンド

 ロビー・ロバートソンが亡くなった。
たまたま昨夜「ハスラー2」を鑑賞していて、音楽を担当していたロビー。彼の人脈のミュージシャンのヒット曲が若きトム・クルーズと渋みのポール・ニューマンの演技に花を添えていた。
そのタイミングでの訃報。残念としか言いようがない。
古いブログを見つけた。
2023年8月10日

 70年代の音楽の終焉は、歌詞に表れた。山下達郎は「レッツ・ダンス・ベイビー」(1978年)の中で“ブルースは似合わない、速いステップで・・・”と歌い、それまでの関西ブルースの終焉を・・・。斉藤哲夫は「吉祥寺」(1973年)の中で“ロングヘアーに疲れた~”と歌い、荒井由実は「いちご白書をもう一度」(1975年)で“就職が決まって髪を切ってきたとき、もう若くないさと君に言い訳したね”と歌った。長髪=フォーク&ロック=若者文化という図式が崩壊していった。
退廃を信条としていた60年代~70年代の若者文化は日本だけに限らない。むしろ、ベトナム戦争や公民権運動に揺れていたアメリカの文化が日本に派生したものともいえる。映画「卒業」(1967年)に見るラストシーンの不安気な2人の表情は、愛を勝ち取った充実感はなく、ドロップアウトしていく表情としてその後のアメリカ(ベトナム戦争の深刻化、人種問題、ヒッピー・・・)を暗示させた。
“1969年物のスピリッツ(精神)は切らしております”とアメリカの退廃を歌うイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」(1976年)は、まさにその象徴である。
そして、ロックの終焉と呼ばれたコンサートが、1977年感謝祭の日にサンフランシスコ・ウインターランドで行われた。ザ・バンドの解散コンサートである。“ラスト・ワルツ”と題され、映画「タクシー・ドライバー」の監督で有名なマーティン・スコセッシがメガホンをとった。

 ザ・バンドは1人のアメリカ人と4人のカナダ人から編成されているが、音楽性はルーツ・ミュージック、ブルース、ゴスペルからフォーク・ロックといったアメリカのコアな音楽を得意としていた。
1968年夏発表の『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』は、まだ発表されたばかりのこのアルバムを、アル・クーパーは「今年のベストアルバム」と宣言。ブルース一辺倒だったエリック・クラプトンをはじめ、当時のプレイヤーたちに大きなショックと多大な影響を与えたアルバムである。ボブ・ディランとの有名な「地下室セッション」で培われた、土臭い田舎っぽい演奏とアバウトなハーモニー、老成された音楽は、1968年時点のロック界には無いものだったから、その衝撃の大きさは想像する以上だったことだろう。そしてザ・バンドはデビュー時からどこか特別なアーティストとして音楽シーンに君臨することになった。
 『ラスト・ワルツ』は、ザ・バンドがデビューしたホールで行われた。古いゴシック調の装飾が施されたホールで、ライブが始まる前までは本当にワルツのダンスが行われシャンデリアが最後のきらびやかさを放っていた。ワルツのパーティーのようにくるくると思い出が回り、それまでのアメリカンロックが散っていった。
 ザ・バンドが数多くのミュージシャンとの交流があったことは、“ラスト・ワルツ”のゲスト陣を見れば一目瞭然だ。ボブ・ディラン、エリック・クラプトン、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、ヴァン・モリソン、マディ・ウォーターズ、Dr・ジョンなど60年代~70年代を彩ったアーティストがザ・バンドのコンサートを盛り上げた。

 ウッドストック文化の象徴であったアーティストが年を取り、熟年に。当時の文化として「40歳以上の人間は信じるな」と叫んでいた中で、その先導をきっていた彼らが、その歳になろうとしていた。そんなジレンマの中でみんながもがいていたのかもしれない。
ザ・バンドの答えは、解散だった。リーダーのロビー・ロバートソンはインタビューで切々と語っていた。
「やるべきことは、すべてやってしまった。もうあのようなロード(過酷なコンサートツアー)には出たくないんだ。俺達は10年以上もそんな生活を繰り返していた。ジャニスやジミのようにはなりたくないんだ。」

 『ラスト・ワルツ』(1978)は、当初3枚組LPで発売。2002年のCDは完全盤として発表され、4枚組BOXとなった。BOXには、当日深夜まで行われたジャムセッションの音源など映画にも出てきていない楽曲も収録された。アルバムとして聴くこともお勧めだが、DVD(映画)で映像を観ていただくほうがより一層楽しめると思う。

2005年6月18日
花形

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?