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『アット・フィルモア・イースト』 オールマン・ブラザース・バンド

 1970年から1971年にかけて、一人の男の絶頂期を記した作品が2つ生み出された。デレク&ザ・ドミノスの『いとしのレイラ』(1970)とオールマン・ブラザース・バンド(以降オールマンズ)の『アット・フィルモア・イースト』(1971)である。そしてその一人の男とは、デュアン・オールマンその人である。
 デュアン・オールマンのバンドであるオールマンズは、アメリカ南部のジョージア州出身。デルタブルーズのメロディラインとゴスペルからインスパイアされたオルガンの旋律をバックにツインドラム、ツインギターを配し、重戦車のように音はぶ厚く、スケールの大きな作品が特徴だ。グレッグ・オールマンの歌声とオルガンはソウルフルであり、デュアンとコンビを組むもう一人のギタリストのディッキー・ベッツは、決してデュアンのサポート役に甘んじることなく、自由にフレーズを生み出していく。本当にのびのびと音楽を楽しんでいるバンドである。
 デュアン・オールマンは10代半ばでセッションミュージシャンになり、その後マッスルショールズで腕を磨いた。マッスル時代は、アレサ・フランクリンやウィルソン・ピケット、ボズ・スキャッグスのセッションに参加し、絶大なる支援を受けた。この時の経験が彼の音楽性を引き伸ばし、オールマンズの礎になったことは確かである。また、黒人よりも黒人らしいフレーズを弾くことでも有名で、特にボトルネックを使ったスライドプレイは音の空間を駆けぬけるイメージから“スカイドッグ”のニックネームも付いている。
デュアンは辛いセッションの仕事をしながらギターの腕を上げたが、ギターを弾くことが出来れば幸せだったという。ちょうどその頃に母親に言った言葉が残っている。
「ママ、僕はヒット・レコードなんか作るつもりはないよ。どこへ行っても同じ曲を演奏しなきゃならないなんていやだよ。有名になんかなりたくない。お金も欲しくない。毎日ハラいっぱいの食べ物があって、ギターをかきならすことができるんだったら、それで満足だよ。」
 
 1971年はデュアンにとって怒涛の1年だった。前年、エリック・クラプトンがデレク&ザ・ドミノス名義で『いとしのレイラ』の制作を行なう。クラプトンはデュアンの噂を聞きつけ、セッションを申し込み、そのままレコーディングに発展して行ったという。そして「レイラ」が完成する。「レイラ」の主要なフレーズは、ほとんどといって良いほどデュアンのスライドプレイだ。名演である。
お互いに影響を与えつつ、大親友となり、最後はクラプトンがデュアンをバンドに誘ったという。もちろんデュアンはオールマンを選んだ。
 
 デュアンは1971年3月12・13日フィルモア・イーストでオールマンズのライヴ録音を行なった。フィルモア・イーストは、名プロモーターのビル・グラハムがNYの映画館跡地に建てたライブハウスで、1968年のオープンから1971年の閉店まで数多くの名シーンを生んだ場所である(オールマンズのこのライヴの後、ほどなくして閉店)。そしてこのライヴの模様は『アット・フィルモア・イースト』として発表された。

 2枚組みのライブアルバムだが、7曲しか収録されていない。僕は最初アルバムを手にした時、単純に損した気分になった。アルバムを開き盤面を見た時驚いた。盤面に曲の切れ目が無く、1曲だけ収録されている面が2面もある。長い演奏を予想した時、ちょっと憂鬱になった。しかし、その不安も1曲目の「スティッツボロ・ブルーズ」のデュアンのスライドプレイでぶっ飛んでしまったのだ。
 長い長い演奏も緊張感と興奮で、最後の曲まで一気に聴くことができた!また、トム・ダウトがプロデュースをしているので、重戦車のような音もしっかりと分離され、素晴らしい音で聴くことができる。これを名演、名盤といわずして、何を名盤と言うのか!

 デュアンはこの年の10月、オートバイ事故で帰らぬ人となった。クラプトンはデュアンの訃報を聞いた時、人の目もはばからず、大声で泣いたという。デュアン、絶頂期の死である。スカイドッグは本当に空の彼方へ行ってしまった。僕たちは、デュアンの記録が残されているだけでも幸せかもしれない。

2005年9月15日
花形

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