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『噂』 フリートウッド・マック

 1975年から1977年にかけて、世界的なビッグヒットアルバムが乱発された。ジェファーソン・スターシップの『レッド・オクトパス』(1975)、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』(1976)、ピーター・フランプトンの『フランプトン・カムズ・アライヴ』(1976)。そしてフリートウッド・マックの『噂』(1977)である。
 この4枚は70年代を代表するメガヒット作品であり、シングルはもとより、アルバムが大ヒットするという事象の魁となった。それまでのアメリカン・ヒット・チャートはシングルの売上やラジオでのオンエア回数により集計され、どちらかというとシングル至上主義的な考え方であった。
しかし、短期間で大ヒットを記録したこの4枚はその考え方を否定した。もちろん、ピンク・フロイドの『狂気』(1973)のように約14年もの間で大記録を打ち立てるアルバムもあるが(全米チャート741週ランク・イン、全世界3000万枚以上のセールス)、短期間勝負で実績を残したこの4枚は永遠に語り継がれる作品である。

 フリートウッド・マックは、1967年にデビュー。当初はコテコテのブルーズ・バンドであった。なんせ、あのピーター・グリーンが在籍しており(クラプトンの後釜としてブルーズ・ブレイカーズに加入した天才ブルーズ少年)、ブリティッシュ・ブルーズを聞かせる有名なバンドであった。サンタナで有名な「ブラック・マジック・ウーマン」ももともとはフリートウッド・マックの曲で、もっとブルージーだったのだ。しかし、商業的にはあまり恵まれず、ドラッグと怠惰な生活に嫌気が差し、メンバーのほとんどが脱退してしまう。しかし、天は残ったミック・フリートウッド(D)、ジョン・マクビー(B)を見捨てなかった。彼らのもとに、ステキな3人が現れたのだ。
 スティービー・ニックス(Vo)、クリスティン・マクビー(Key・Vo)、リンジー・バッキンガム(G・Vo)の面々である。スティービーは小悪魔のようにクルクルと舞い、クリスティンは冷静沈着に歌い、そしてリンジーは情熱的に歌い上げる。5人はヴォーカル・インスツルメンタル・バンドへと変革した。そして彼らは、ブルーズ色を廃した上質なポップス・バンドになったのである。
彼らは、その後1枚を経て『噂』を発表した。

 フロントラインに立つ3人が曲を持ち寄り、3人の調和が取れたこの作品は、それまでのフリートウッド・マックにはないポップスセンスに溢れている。「ドリームス」「オウン・ウェイ」など、どの作品をシングルで切っても大ヒットの力を持ったアルバムとなった。アルバム全体に漂う西海岸風のアレンジは、当時の流行といってしまえばそれまでだが、ブリティッシュ・ブルーズ・バンドだった過去から考えると、全然別のバンドであるし、ピーター・グリーンの影を消そうと努力した結果の作品とも言えるのではないだろうか。
ジャーニー のヴォーカリストだったスティーヴ・ペリーが脱退した時、
“メインのミュージシャンが替わってしまったら、バンド名を変更したほうがいい”と言う思いを強めた事があるが、フリートウッド・マックもその類かもしれない。但し、このバンドは今でも休み休み活動を続けており、メンバーがコロコロ入れ替わる。バンドというより集合体という気もする。
 1980年代前半に活動を休止し、解散したと誰もが信じて疑わなかったフリートウッド・マックであったが、7年後、『タンゴ・イン・ザ・ナイト』(1987)を引っさげて舞い戻ってきた。時代にフィットしたアレンジの作品にファンは満足し、ヒットを記録した。3人の作曲バランスとリンジー・バッキンガムのプロデュース能力が光るもので、『噂』の再来とも言われた。
しかし、リンジーはその後バンドを追われた。独自性を出しすぎ、メンバーが追いつけなくなったのだ。新たにメンバーが加わり、新生マックが誕生し、『ビハインド・ザ・マスク』(1990)といったヒット作品も出すが、そこにはフリートウッド・マックの色というよりも、クリスティン色といったほうがよい作品だった。やはり3人がいて、フリートウッド・マックとも言えるのではないか。それが証拠に1997年、バンドは再びリンジーを呼び戻し、『ダンス』を発表する。ライヴ・アルバムであるが、往年のマックのように華々しい演奏が僕達を楽しませてくれた。還ってきてすぐにプロデューサーにリンジーの名前がクレジットされていたことに笑ってしまったが、リンジーの実力をメンバーが認めたということだろう。
 このアルバムのジャケットは『噂』のジャケットをパロったものとなっている。このことからもマックにとって『噂』という作品が大きな位置を占め、ベンチマークになっていることがわかる。

ダンス

2006年4月21日
花形

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