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『ホテル・カリフォルニア』 イーグルス

 グレン・フライとドン・ヘンリーはロサンゼルスで出会う。バンドで「ひとやま」当てに来たグレンは気弱そうなドンを見て、半ば強引にバンド作りを始める。その後バーニー・リンドンやランディー・マイズナーを仲間にいれ、リンダ・ロンシュタットのバックバンドとして音楽業界に入りこむ。1970年初頭のことだ。
 デビュー曲はジャクソン・ブラウンのペンによる「テイク・イット・イージー」。歌の内容のように“気楽に行こうぜ”とお調子者のグレンはバンドメンバーに話したことだろう。しかし、神経質で臆病なドンは、いつも自分の道を模索していたという。
ほどなくして、アメリカを表す“鷲”をバンドに取り入れ、イーグルスは羽ばたいていった。
 セカンドアルバムやサードアルバムと順調にヒットを飛ばし、小さいながらもコツコツと活動を続けていった。アメリカ人の心の歌であるカントリーソングを取り入れ、コーラスワークを駆使し、人気も上っていった。そんな中イギリスではグラムロックが流行し、時代の流れがよりハードな歌を求め、エアロスミスやキッスなどのニューエイジが次々とデビューした。イーグルスもどんどんハード路線に移行し、ドン・フェルダーを迎え入れた。そんな中イーグルスは音楽の幅を広げるべく、メンバーチェンジを行う。カントリー色の強いバーニーが抜け、よりハードなギターを弾くジョー・ウォルシュがジェイムス・ギャングから加入。そしてあの名盤『ホテル・カリフォルニア』(1976)を発表した。

 今のようにMTVなんて無い時代に、プロモーション・フィルムはロック小僧には絶対の存在だった。レコード屋のモニターの前に僕達は陣取る。普及したてのビデオデッキから排出される映像は、何回も何回も「ホテル・カリフォルニア」のライブ映像をリピートしていた。そして何回も何回も僕達は奇声を発しながら興奮した。エンディングのギターバトルではドン・フェルダーとジョー・ウォルシュがアイコンタクトをしながら気持ちよさそうな顔をして弾きまくる。中学生の僕と友達はお互いにドン役とジョー役を決め、あてぶりでギターの真似をしていた。とにかく格好が良く、衝撃的な映像だった。歌の中身なんてまだまだ知る由もない。あんなに辛らつな歌詞だったことに気づいたのは、高校に入ってからだった。
『ホテル・カリフォルニア』からのセカンドシングルは新参ジョー・ウォルシュの「駆け足の人生」だった。この歌も、ハードなギターリフが絡み合い「テキーラ・サンライズ」や「ニュー・キッド・イン・タウン」をのんびり歌っているバンドの曲とは思えないほどの歌だ。ジョー・ウォルシュのキャラクターは大人し目なイーグルスの他のメンバーとは違い、かなりぶっ飛んだものだ。でもその存在がバンドに勢いをつけたのかもしれない。『ホテル・カリフォルニア』はミリオンセラーになった。2年に及ぶ全米ツアーは大盛況。途中、ツアーに明け暮れる生活についていけなくなったランディーが脱退し、ティモシー・B・シュミットが加入する波乱もあったが、鷲は空を高く舞い続けていた。

 大ヒットアルバムを出した後のバンドは修羅場になった。前作以上の作品をファンは期待し、メンバーは創作活動の行き詰まりに焦る。お互いの才能を認め合っていた昔の優しさは消え、辛らつな言葉が飛び交う。中々ニューアルバムが出来ないことに対し、レコード会社からは矢のような催促が飛び、1978年にしょうがなく出したシングルはクリスマスの企画盤だった。ファンはオリジナルアルバムを求め、そんな中、『ロング・ラン』(1979)は発表された。しかし、アルバムが完成した時には鷲の羽根は傷つき、飛ぶことをあきらめていた。そして解散ツアーが始まった。ドンは『ホテル・カリフォルニア』を恨むようになったという。
 『ホテル・カリフォルニア』は歌詞の深さと音楽の構成がマッチし、練られたギターアレンジが施された名盤である。そのコンセプトは他の偉い評論家の文章を見てもらえれば良いと思う。それよりも、単純にギターバトルしている格好良さが僕は好きだった。エレキギターを手にすると、いまだに自然とエンディングソロが出てきてしまう。名曲ってそんなモンかもしれない。

2005年11月7日
花形

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