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カタルシスという供養

先日、父親の33回忌があった。
母は外出できないし私には兄弟姉妹もいない。

だから、おひとり様33回忌。

めんどくさいな、という気持ちもあったけけれど反面楽しみでもあった。
と言うのも、前回の父親の法事(27回忌)の時がとても良い時間だったからだ。

その時も、おひとり様。
数人でも参列者があれば、お坊さんの「法話」だったのかもしれないが、私ひとりだったので、

「お父様はどんな方でしたか?」

と、声をかけてくださった。
どんな話をしたのか今となっては覚えていないのだけれど、ただ、そのお坊さんが話をちゃんと聴いてくださった、ということは覚えている。

時折沈黙があっても、言葉を挟まず私の言葉を待ってくれていた。
ただにこやかに私の話を聴いてくださった。

私も相手がお坊さんだったからこそ話せたのだろう。誰にも話してないことも素直にたくさん話していたと思う。

純度の高いカタルシス。

お経をあげる時に、お経の冊子を渡されて、お坊さんと一緒にお経を読ませてもらえる。27回忌の時は、事前に少しだけお経を読む上でのレクチャーがあって軽く練習もさせてもらえた。とても親切。

私は、般若心経なら馴染みがあったし、声を出してお経を読むことが好きだったので、わりとすらすらと読めたのだろう。帰り際に「お経をしっかりお読みになられてましたね」と、ほめてくださった。
どんなことでも褒められることは嬉しい。

その時は「ありがとうございます!声出してお経を読むの気持ちいいですね!」と伝えたら、

「それが何よりの供養ですね」と仰って下さった。


という経験があったので、33回忌の今回も、きっとあの時のように父のことを聞いてくれるだろうか、そしたらどんな話をしようか、お経も大きな声で読むぞ!と楽しみにしていた。なのに、

ガッカリした。

お坊さんの法話は、テンプレートがあるんじゃないの?と疑うほど、内容の薄いぺらっぺらな感じだし、お経を読むためのレクチャーなどもない。

ないどころか、「一緒にお読みになってください」という声かけもなかったような…。

蔑ろにされたような悔しい気持ちで、お坊さんの声に負けるもんか!と姿勢を正し腹に力を込めて喉をひらいて声を出しお経を読んだ。なのに、

終わってからなんの一言もない、悲しい。なんて冷たい法事なのだろう。

故人のことを思い出して、故人との縁に感謝しながらお経を読む、と法話で話されていたけれど、だとしたら、私の心を温めてほしかった。

あまりにもガッカリして寂しかったので、法事が終わってから父親のお墓の前で、「ちょっと!聞いてよ!今日の法事のお坊さん!テンプレート!」と、(周りに人がいないことを確認してから)思いの限りを声にした。

ま、これはこれでカタルシスなのか。

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