記者まっしぐらⅡ
法、財政を学ぶ
国政や中央省庁、地方自治体の行政や議会を取材するうえでやはり、基本的な学習が必要となる。まず国政なら憲法や国会法、地方行政なら地方自治法や地方財政法などが必修となる。憲法は前文から各条項までみっちりと学び、他は簡単な入門書やポイント解説書程度で十分。ただし、頭の中に叩き込んでおく必要がある。どこで、どういう問題にぶつかるか分からないからだ。
森林法や港湾法など専門的な方は取材のつど額事例に即して学習すれば覚えが早いと思います。 要点やポイントぐらい学習しておけば、一応の用は足りる。法律そのものの逐条解説も大事だが、具体的な例を取り上げて読み物風に説明してある本もある。読んでおけば、国や自治体の予算を書く時、公務員の不正など不祥事があった時に役立つ時がある。省庁や地方行政で公務員と追及することもあるので公務員の職務など法的な根拠を学んでおけば、具体的な追及をしやすいこともある。
気を付けること
取材で気を付けることは多々あるが、これだけは絶対しない方がいいということを一点だけ記す。それは取材先から金品を無料で得ないことだ。例えば、新商品を開発した人や企業を取材するとする。取材元は記者に取材されて新聞やTVなどの報道媒体に出れば広告効果があるので、記者に何かを持たせるのが一般的だ。企業なら既に販売している商品や新規開発の商品を記者に持たせる。
だが、「ありがとうございます。いただきます」と無料でもらってはいけない。理由はモノを持たせれば、きっと商品紹介の良い記事を書くはずだという先入観を相手に与え、もらった方は相手の思うつぼにはまる可能性が大きいから。手土産に相応の商品を持って行ったならば、応分のものだけをもらっても構わないと思うが、高額な商品はもらわない方がいい。
もし、もらいたかったら、もらった商品の価格を支払うことだ。相手側は、「では、これはおまけ」として商品1個のところを2個に増やすかもしれない。とにかく、一応の代金は払うべきだ。ただでもらっていると、だんだん人間はいやしくなりがち。取材に行ったら、何かもらえるかもしれないという気持ちを自分で醸成してしまう心配がある。もっと、気を付けないといけないのは暴力団、ヤクザの親分の直辺り取材。取材を終えて帰り際、看板料だ、足代だと万札を入れた封筒を渡される。絶対、もらってはいけない。
ヤクザの親分が河川敷沿いの田んぼを農家から極めて安く借りて、水田の泥をかき出して、その下にある砂利を採取。掘った後に廃棄物を投棄して埋め戻していた。砂利で儲け、廃棄物処理で儲けと大儲けしていた。農家からのタレコミで取材に行った。帰り際、看板料と足代だと封筒を渡された。丁重に断ると、玄関の入り口にいた若い組員2人から「せっかくの厚意を受け取れないのか」などとすごまれた。このままでは帰れないと思い、封筒を手にして、「ありがとうございます」と言って引き揚げた。
封筒には5万円が入っていた。帰り際、郵便局を探し、現金書留で封筒ごと現金を郵送して返した。翌々日、県警本部の暴力団担当に行くと、「あの親分から電話があったよ。返したんだって。親分が『少なかったかなあ』と話していたよ」と言われた。暴力団と担当刑事はツーカーの仲。封筒をもらっていれば、この記者はこの程度かと思われたうえ、警察の信用も失っていたところだった。
警察の暴力団担当にとって、暴力団員との面識づくりは日ごろの大事な仕事。暴力団員は「識」(しき)のある警察官の言うことだけは聞く。暴力団担当刑事と暴力団員は常に情報交換していると思ったほうがいい。
カネ回りのいい国会議員の秘書も要注意だ。こうした秘書は情報収集で記者に会いたがる傾向がある。普段は現金入り封筒などの謝礼はしないが、国政選挙のときなど現金入り封筒を渡す時がある。ある新聞社の記者が現金をもらったことがあった。警察はすぐにこの事実をキャッチ。警察署幹部から「封筒、もらわなかったんだって」といわれた。こっちの方も警察の情報網に引っかかる可能性が大きいので日常の取材で注意が必要となる。
記者まっしぐらⅡ
実践・記者道入門Ⅱ部
エラクなるとは
Ⅰ部を読んだ人は、そこまでやったことは分かった。やるべきこともわかった。だが、そこまでしないと記者になることはできないのか。そこまでやらないと、記者として活動できないのか。それで、そこまでやったあなたは、記者としてエラクなったのか、ジャーナリストの肩書を付けられるほどの識者とか書き手になったのか、ジャーナリストとして大成したのか、社内的にエラクなったのかと問われるかもしれない。
また、そんな程度のことをやればいいのかという感想を持った人もいると思う。実際にやってみると日々かなりハードだ。自負するわけではないが、どんな著名なジャーナリスト新聞協会賞を受賞した記者でも、ここまでやった人はいないと思っている。まず、週に最低1本、できれば3、4本は独自取材の記事を毎日、あるいは週に3、4日、日替わりメニューで地域版のトップ記事候補として出せる記者はほとんどいないと思う。
ここまでやってもエラクはならかった。組織内でエラクなろうとも思わなかった。専門的にどの分野に強いとか、特定の問題を追及してジャーナリストの肩書が付けられたかというと、何でも屋に終わり、つけようがなかった。特定のテーマに絞って取材することもできたが、しなかった。強がりのように聞こえるかもしれないが、初めからエラクなったり、ジャーナリストの肩書がつく記者になるつもりがなかった。ただし、関心がある特定分野については続けてスクラップや資料集めをしている。
後で組織内でエラクなった方が給料がもっともらえたと思ったことは確かに少しはあったが、地方勤務が長く、ライン上のポストにも就かず給料が安いまま定年を迎え、安い給料の嘱託、アルバイトの身分で会社を辞めた。だが、40代前半に大手放送会社から「若手に取材の仕方、特にネタの拾い方、夜回りの仕方を教えてほしい」と、報道部長就任の誘いがあった。生涯記者と決めていたので断った。
「エラクなるよ」と言われて、「エラクなるとはどういうことか」と考え続けてきた。20歳前後、山登りで転落や雪崩、猛吹雪、雪道で迷ったことなどで何度も遭難しかかった。助かった命、拾った命を生かそう。世のため人のために命を捧げようと誓って記者になった。世のため人のために役立つとは組織内でそれなりの地位について、いわゆるエラクなるのとは違うと思ってやってきた。どうした生き方をするのか考え続け、世のためひとのために、いささかでも役にたてるーというポリシーを持った記者として活動し続けることだと確信した。
人それぞれ
記者を目指す人の志望動機は人それぞれだ。「報道機関は給料が高いから」「記者は格好良いいから」「社会正義の実現に少しでも寄与できるから」等々、志望動機はいろいろある。その人の生き方やスタイル、考え方、人生観もあり、人の生き方はさまざまだろうから、一概に記者とはこうあるべきだという型にはめにくい。
報道機関に所属せず、個人で記事を発信する人もいる。だいたい1つのテーマや独自のネタを追っかけ、深掘りして追及するタイプで、ルポライターとかジャーナリストの肩書を付けている。新聞・TV記者出身もいれば、最初から独立してライターの仕事をする人もいる。PCとスマホの急速な普及でだれでもソーシャル・メディアで情報発信が可能となった。記者出身を除いて記者稼業の基本的な訓練は受けていないが、記者以上に記者らしい仕事をする人もいる。
新聞記者希望者のほとんどは著名な大学や大学院で学んできただけにエリート意識が強い。記事を書いて情報を発信することで生涯一記者として活動し、結果的に社会正義、弱い立場の人の一助になろうという人がどれだけいるのか疑問に思っている。
エリート意識から上昇志向が強い人や社会正義に欠ける人が、記者として資質に欠けると言っているわけではない。社内的にエラクなるとかエリート意識が悪いかと言っているのではない。そうした意識は持って生まれた、生きるために必要な人間の欲、業なので、人それぞれ生き方の違いが出るだけであると思う。
記者志望の若者がそろって学生時代に勉学にいそしみ、多くの専門書を読んで専門知識を蓄えていたかとなるとははなはだ疑問に思う。学業成績が優秀だった人が記者に向くかというと分からない。高校卒でも記者として活躍する人もいる。向き不向きがある職業だと思う。実際、高学歴でも一線に出ると、取材の現場に出て何を取材していいのか、何を書くのか戸惑う人がほとんだ。ネタを拾えない人が多い。ネタを拾っても、これが記事になるかどうか迷う人も多くいる。こういうことがないようにするためスクラップと新聞を隅から隅まで読み続けることの重要性がある。
報道機関の入社試験は概して難しいので、記者になるために報道機関が主催する記者入門講座、マスコミOBが講師の専門学校、マスコミの現役記者や退職記者が講師となる講座を受講してコネクションをつくり、首尾よく報道機関に入社して記者になったりする人も多くいる。記者出身の教授がいる大学で教授のゼミを受ける学生が選考されるケースもある。
要領だけで
記者は支局に配属の後、警察・行政を担当して、ひと通りの経験を積んだ後、だいたい本社勤務となる。支局での勤務はだいたいどこの報道機関も3~5年が一般的。支局時代の終わりごろ、本社配属の希望を所属長の支局長に出す。社会部、政治部、経済部、外信部、科学部、学芸部、生活家庭部、運動部等々、報道機関各社によって編集局の各部はさまざまだ。
このごろではソーシャル・メディアの普及でメディア情報部とかデジタル報道・編集局などの新部門が設けられ、新部門の方に優秀な人材が配属される傾向にある。配属先は編集局と人事担当部門が協議して決めるのが一般的だが、希望が実現する人もいれば、希望が通らず、別の部門に配属になる人もいる。希望通りの配属が実現せず、この時点で辞めてしまう人もいる。
政治家、特に国会議員の二世、三世で記者を志望する人の多くは、政治部記者を経てだいたい世襲議員として国会議員になる人がほとんど。政治部に配属になるとまず官邸詰めで首相や官房長官の担当をして、省庁や政党担当を務めて省庁や政党部局の仕組みや役割を学ぶ経験を積んだ後。父親の跡を次いで政治家になるケースが多い。何かの足掛かりにステップ台のように記者職を選んだと思うが、人それぞれなので安易な批判はできない。
支局時代、ほとんど独自取材の記事を出稿せず、自分の追求するテーマだけを追う人もいる。支局時代、日々の出稿をあまりしなかったのに、後々、新聞協会賞を受賞したり、特定のテーマだけを追求して成果を挙げ、専門記者として、評論家として活躍しテレビ出演する人もいる。それぞれ、その人なりに努力した結果なのだから、他人がとやかく言える筋合いはない。
組織に所属して持ち場や各部の移動を繰り返し、ある程度の年限がきたら、その組織でラインの部長や局長などのポストに回される。ラインの部長など社内でそれなりに有力なポストを拒否する人はほとんどいない。誰しも偉くなる方を選ぶのがごく当たり前の社会だから仕方がない。
エラクなるには、一つの課題に対処して結果を出す道筋を示したり、配下の記者をまとめ上げるなどそれなりの資質が必要だ。当然報酬も多くなるから、人それぞれで、結果としてそういう人がいても不自然ではない。だからといってポスト争いをしなかったり、ポスト争いで弾き飛ばされたり人が記者として劣っていたかというと全くそういうことはないと思う。
周囲を観察していると、立ち回りがうまい、要領がいい記者が多いような気がする。大きな事件事故では取材が長期戦になり、各社とも独自ネタや特ダネを打ち上げる。いわゆるドンパチ合戦。勢い、特ダネが多いと勝ち戦さ、ヌカレが多いと負け戦さとなり、要領のいい記者は負け戦さとなるといつのまにか取材陣から離れて消える。勝ち戦さのときは最後まで取材陣にいる。要領のいい人は、肝心の場面にいないことが多いので、要領のよさがバレないように回っている。
負け戦さの時、いち早く取材陣から外れれば、向こう傷を負わないで済むし、「あれがいたから負けた」などと揶揄されないでも済む。この他人や同僚に気づかれない立ち回りがすごくうまいのには感心する。私の知る限り、こんな要領の良さだけで、ろくに取材の苦労をしないで逃げるが勝ちと決めた人が社内的に有力なポストに就く傾向がある。どこの職場、どこの組織でも同じだと思う。
帰宅は週に3、4日
かつて「事件記者」というTVドラマがあった。NHKが1958年から1966年にかけて放映した。スクープを求めて取材を繰り広げる記者の葛藤や人間ドラマを描いた。記者ものブームの火付け役になったヒット作だ。見て思い出に残ったシーンは居酒屋に集まって酒を飲み、たばこをふかす記者の姿だった。出稿を終えるか紙面の刷りを見て夜回り取材に走り、取材の報告をノートに書き終わると、順に行きつけの小料理屋などに行って食事をして、仲間が集まる飲み屋に行く。それがドラマの一場面になったと思う。
こんな悠長なことはテレビドラマの話。実際は夜回りや夜回りの成果をつづる取材ノート作成の仕事があるので、午後10時前に飲み屋さんに行けることはほとんどない。だいたい午前0時過ぎる。午前2時から飲食なんてこともざらだ。飲食が終わったら支局に戻り仲間内で麻雀なんてこともある。
では、寝る時間はあるのかということになる。寝るのはだいたい夕刊時間帯の出稿が終わったころから、朝刊向け記事の出稿をする間の午前10時から午後4時ごろまで、支局のソファか、記者クラブの仮眠用ベッドで熟睡する。家に帰るのはせいぜい週に3、4日程度。若くて体力があるからできる芸当で、だいたい早死にする人が多い。別々の支局で同じような生活につき合わさせデスク2人を現職中に死亡させてしまった。
社内的にエラクなる人を観察すると、思うに、学生時代、特に記者になってからあまり本を読んだり学習しない人にこの傾向が強い。記者は記者になってからの読書、勉強が大切で、学べば学ぶほど謙虚な考え方になると思う。だが、政治部記者になって官邸で首相番記者にでもなると、まるで自分が首相になったような気分で上から目線でモノゴトを見るようになる記者が多い。
社会の疲弊を追う
私事の場合、その時代や世の中の疲弊、弊害が地方に突出して現出することから、なるべく地方に出て疲弊の事象を追うことに努めてきた。もっと世の中の疲弊状況を取材して、時代の変遷を勉強したいという気持ちがあった。農林漁業が衰微する実情を追い、社会的な弱者の実情、地域の現状を自分の目と耳で確認する作業こそ記者の本来の仕事だと思ってきた。
本社に勤務すると上ばかり見ていて、要領良く立ち回ることだけにたけて、ろくに日常的な仕事をしなくなる記者が多くいる。こういう要領の良さだけの記者に限って、支局勤務時代はほとんど仕事もしないで、社の幹部になっていくから組織とは不思議なものだ。新聞社だけに限ったことではないと思う。人それぞれだから、とやかくいう筋合いではないが、こうしたことを含めて世の中、何か変だと思うことが多々ある。
政治に一家言を持つとされ、TV出演もする政治評論家が、選挙の際に現職立候補者の応援演説に立ち、謝礼をもらう姿を多く目にしてきた。その人の生き方、スタイルだから、「だからどうなんだ」「他人から言われる筋合いはない」と居直られたら、返す言葉もない。ただ、個人的には記者だったら権力者、力のある人にこびへつらうことをしないで生きたいと思ってきた。
地方にこだわり
時代の社会的な疲弊、世の中のゆがみは地方に突出して出現することが多い。地方は農林漁業といった第一次産業の比率が高いこともあって、第一次産業の盛衰がその地方の金融的・財政的基盤に大きく影響する。あらゆる産業は資源や食糧の生産量の変化、価格の変動など世界的な変異や国策、時代の趨勢、社会的変化による影響を受けやすい中、特に第一次産業はこうした変動に直撃される。
これら変動の影響を受けて、どういう状況になったのか、どうように様変わりしているのかを観察するには現場に張り付いて自らの目で確認し、現場の人の話を聞くのが確実な方法だ。地方では時代の疲弊が突出するので、地方にいたら時代の流れ、産業の盛衰、社会の趨勢を敏感に感得できて世の中の変化が見え勉強できる。
大都会にいたら、若者中心の文化、大都会の繁栄の中に飲み込まれてしまい、都会人の視点でしかモノゴトが見えなくなってしまう心配がある。永田町、霞が関の視点が中心になったモノゴトの見方しかできなくなってしまいかねないという理由から、私は極力、大都市から離れて地方にスタンスを置いて、その地域に生きる人たちの生き方、日々の生き様を記事にして、地方から発信することを心掛けてきた。
首都圏の山村にこだわって20年以上、山村の変異を追ってきた。首都圏の山村が特に林業など産業の衰退や人口減などから集落として維持されない状況となるいわゆる「限界集落」となったら、日本国中の山村はみんな限界集落になってしまいかねないと思った。なんとか、この山村が元気を取り戻し、再び若い層の人口が増えることを願って記事を発信してきた。
山や森林の守り手、国土保全の守り手がいなくなったら、将来的に山も森も人手が入らず荒れ果ててがけ崩れなどが起き、河川水の流量変化から流域の農業だけでなく、下流域の洪水不安など都市生活にもさまざまな問題が生じる。山村が大事なことはだれしも知っているが、何でも入手できてモノがそろう大都市と違って、生活が不便なので、だれも住もうとしない。産業がないから若い層が定着しない。
田植えをした、コスモスが咲いたなどと四季のできごとなど通常なら、「どうでもいい」として取り上げないことをこの山村に限っては取り上げてきた。なんでそんな山奥の記事を発信するのか、人口が極端に少ない山村の出来事を記事にする必要があるのか等々と疑問が出されたこともあった。
もっと人口の多い地域、人が多く集まる都市部の交流などイベント情報を扱った方がよりましではないかという指摘があった。しかし、山村にこだわった。山村のイベント情報を出すと都市部の住民の参加が多かった。むしろ都市部の住民はこうした山村のことに関心があることが分かった。山村の将来を心配する都市住民も多くいることが分かった。(つづく)
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