京都・街の湧水

湧出地の紹介


 京都は東山山系と北山山系に囲まれ、鴨川と桂川に挟まれた地勢。盆地の地下に水量豊富な水がめがあり、古くから寺社の井戸から地下水が湧出していた。地下鉄や大規模なビル群などの都市改造から街の様相はかなり変わったが、古井戸の復活などで地下水の湧出が続いている。井戸水の維持管理費として水をくんだ際に管理料100円を納めるところがほとんどだが、くみ放題のところが多い。街の湧出地を追って水を飲んでみた。尋ね歩いた湧出地を紹介する。(一照)

①白峰神宮の飛鳥井


 白峯神宮の社殿が明治時代に建つ以前、ここに旧飛鳥井家屋敷内に「飛鳥井」と呼ばれる井戸があった。 平安時代、一条天皇の后・定子の女房として仕えた清少納言が今宮神社創建の1001(長保3)年ごろに書いたとされる「枕草子」172段で、「井は、堀金の井。走井は逢坂なるがをかしき。山の井、さしも浅きためしになりはじめけむ。飛鳥井『みもひも寒し』とほめたるこそをかしけれ。玉の井、少将ノ井、櫻井、后町の井。千貫の井」と京の名水9カ所をあげた。

平安時代からの湧出


 飛鳥井の「みもひ」は漢字を当てると「御水」。この九つの井戸のうち唯一現存する古井戸。古くより湧水があり、旱魃の際にも涸((か)れなかったという。口に含むと柔らかく、うまい。

京都市上京区飛鳥井町261にある白峰神宮の社殿
平安の昔から水が湧き出る白峰神宮の飛鳥井


②下御霊神社の御霊水


 下御霊神社(住所は中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)は寺町通り沿いにある。
 神社の社伝やいわれによると、江戸時代の明和七年(1770年)の秋、京の市中が旱魃(かんばつ)に見舞われた。当時の神主が夢告で境内の一カ所を掘らせたところ、清らかな水が沸き出た。「感応水(かんのうすい)」と呼ばれ、井戸は「常盤井」と名付けられた。しかし、いつしか地下水位の低下からか枯渇した。

蛇口から水が出ている手水場


水がくめる手水場
手水場に張り出された水質検査結果

 1991(平成3)年、氏子たちの努力で「感応水」と同じ水脈で井戸が約50年ぶり復活した。京都新聞1992年11月の記事によると、地下5㍍の井戸が枯れたため手掘りで8㍍掘り下げたら水が湧き出たという。水は「御霊水(ごりょうすい)」と名付けられた。神社は改めて手水場を設けた。くせがなく、まろやかでやわらかい水。神社では定期的に水質検査を実施。ほとんどの項目で基準をクリアしている。あくまでもお参りをする際に心身を清めるための水としており、夏場は念のため煮沸を勧めている。
 神社は京都御所の南東にあり、「銅駝(どうだ)水」から西に約150㍍離れたところにある。御所の井戸や梨木神社の名水「染井」と同じ水脈だという。京都盆地にある豊富な地下水に鴨川の伏流水が混じったかもしれない。

名水復活を伝える京都新聞の記事

 寺町通りは五条通り手前で河原町通りから別れて北進し御所に突き当たる丸太町通りまで続く。秀吉が国内を制圧して京に入った際、大規模な都市改造に着手。お寺を通り沿いに配置したことから寺町通りと名付けられた。通りにはお茶、骨董などの老舗が並び、京都では散歩して楽しい通りの1つだ。
 神社は平安時代初期、神泉苑での御霊会を起源とする。朝廷の高官から九州・大宰府に配置換えされて亡くなった菅原道真をはじめ貴人7人の怨霊を祀る。疫病退散や厄災を払う神として天皇、貴族ら身分の高い人だけでなく、町衆からも敬われてきた。
 1991(平成3)年、氏子たちの努力で「感応水」と同じ水脈で井戸が約50年ぶり復活した。京都新聞1992年11月〇記事によると、地下5㍍の井戸が枯れたため手掘りで8㍍掘り下げたら水が湧き出たという。水は「御霊水(ごりょうすい)」と名付けられた。神社は改めて手水場を設けた。くせがなく、まろやかでやわらかい水。神社では定期的に水質検査を実施。ほとんどの項目で基準をクリアしている。あくまでもお参りをする際に心身を清めるための水としており、夏場は念のため煮沸を勧めている。
 神社は京都御所の南東にあり、「銅駝(どうだ)水」から西に約150㍍離れたところにある。御所の井戸や梨木神社の名水「染井」と同じ水脈だという。京都盆地にある豊富な地下水に鴨川の伏流水が混じったかもしれない。
 寺町通りは五条通り手前で河原町通りから別れて北進し御所に突き当たる丸太町通りまで続く。秀吉が国内を制圧して京に入った際、大規模な都市改造に着手。お寺を通り沿いに配置したことから寺町通りと名付けられた。通りにはお茶、骨董などの老舗が並び、京都では散歩して楽しい通りの1つだ。

2022年の還幸祭で氏子地域を練り歩く下御霊神社の大神輿


 神社は平安時代初期、神泉苑での御霊会を起源とする。朝廷の高官から九州・大宰府に配転されて亡くなった菅原道真をはじめ貴人7人の怨霊を祀る。疫病退散や厄災を払う神として天皇、貴族ら身分の高い人だけでなく、町衆からも敬われてきた。

③銅駝水


 鴨川左岸近くの銅駝(どうだ)会館(中京区鉾田町542)にある。銅駝会館の銘板のある建物の前に「防火用」のプレートと蛇口がある。寺社とは関係なく銅駝自治連合会が独自に「防災用水用に」と地下80㍍からポンプアップしてくみ上げた井戸水。水道の蛇口をひねると勢いよく出る。東西は鴨川左岸を流れる高瀬川と河原町通りの間、南北は二条通りと丸太町通りの間にある。
 会館の西側わきに京都市立美術工芸高校(通称、美工)、真ん前に小さな銅駝公園がある。美工は日本で最初の画学校として1880(明治13)年の創立された。校舎は1939(昭和14)から7年かけて完成したコンクリート造りアールデコ様式の建物。
 蛇口の下に「防災用」のプレートがあるが、飲用、炊事用として近所の人だけでなく遠くからも水を求めてくる人が後を切らない。飲食業の人も通う。寺社の飲用・手水用とは違う普通の井戸水では人気ナンバーワン。

 

蛇口をひねると勢いよく水が出る
水くみ場は住民の語らいの場。入れ替わり立ち代わり水をくみに来る人が訪れる

 地元の銅駝自治連で毎年水質検査を実施し、すべての項目で合格した折り紙付きの名水。専門業者に頼んで井戸ポンプの点検やフィルター付き砂こし器やパッキンなど劣化した消耗部品の交換などメンテナンスも行き届き管理は万全だ。
 一年中24時間、いつでも水をくめることから人気がある。毎日、近所の人を中心に多くの人たちがペットボトルを持って並ぶ。管理料として100円を管理箱に入れるが何本くんでも同一料金。ただし、待ち人がいて行列もできるので、みんながそこは常識の範囲でくむ。

水の利用は「自己責任で」と呼びかける張り紙

 西に150㍍ほど行った寺町通り沿いに下御霊神社があり、神社の御霊水と同じ水脈かどうかは不明。
 銅駝地域は1896(明治2)年、「上京第三十一番組小学校」が開校した。その後、番組小は銅駝小学校、銅駝中学校、そして京都市立銅駝美術工芸高等高校(美工)の開校につながった。水の管理にも銅駝地域の自治の伝統が受け継がれている。(つづく)


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