京都・街の湧水11、御苑の古井戸

37妙音弁財天の白雲水


地下60㍍からくみ上げる白雲神社の井戸水
白雲神社の入り口

 手水場に備え付けの柄杓(ひしゃく)で、白雲神社・妙音弁財天の白雲水を飲んだ。口当たりが良く、なめらかな水だった。「軟水です。深さ60㍍のところからくみ上げています。涸(か)れたことは一度もありません」と神官。
 京都御苑(ぎょえん)の中で、拝観料無しの施設で井戸水が出ているのは、妙音弁財天の白雲神社と宗像神社の手水場の2カ所だけ。
 

現存の井戸は文化遺産級

 京都三大名水の一つとされる京都御所近くの縣(あがた)井や染殿井、祐井(さちのい)という著名な井戸も、また江戸時代の四親王家の一つで、現在の天皇家につながる閑院宮の古井戸も水枯れや使用をやめた井筒があるだけ。それだけに井戸水が出る手水場2カ所は現存するだけで貴重な文化遺産級だ。
 縣井は明治天皇の皇后、一條美子の産湯に使われたという井戸。祐井は明治天皇の生母の実家・中山家があり、明治天皇が産湯につかったとされる。染殿井を含めて井筒が現存しているが、住宅の密集とマンションや事業所のビルが立ち並び、浅井戸のため水は涸(か)れて出ていない。
 地下鉄工事の影響で水が涸れてしまったといわれている。京都市営地下鉄烏丸線と東西線が交差する烏丸御池駅は烏丸線ホームの深度が約15㍍、東西線ホームが地下20㍍とされている。地下鉄工事が浅井戸の水脈を切断した可能性もあり、「地下鉄工事の影響」という指摘もまんざら的外れではなく、浅井戸水涸れの一因になったと思う。

勢い良く出る白雲水

 白雲神社にある古井戸は旧西園寺家の井戸。西園寺家は東京に移転した。西園寺家を宗家とする琵琶にちなんで、音楽をつかさどる神・妙音弁財天を祀る社はそのまま残されたという。

白雲神社のいわれ書き

 西園寺家は藤原氏の流れをくみ、鎌倉時代に隆盛した。明治時代の元老・西園寺公望(きんもち)は幼くして西園寺家の養子に入り家督を継いだ。フランスに留学後、伊藤博文の腹心として枢密院議長などを歴任。立憲政友会総裁となって第一次、第二次と首相を務めた後、元老となって権勢をふるった。

白雲神社本殿

 公望は1969(明治2)年、邸内に私塾「立命館」を創設。これが後に公望の秘書が起こした京都法政学校(現在の立命館大学の前身)につながった。
 西園寺家は鎌倉時代に現在の金閣寺のある場所に北山別邸を持ち、「西園寺」を建立した。室町幕府3代将軍足利義満は、西園寺家から北山別邸を譲り受け金閣寺を整備した。

磐座の薬師石

 白雲神社社殿の右手に磐座(いわくら)がある。「薬師石」と呼ばれ、「御所のへそ石」ともいわれてきた。石を手でなでて患部をさすると治癒するといわれる磐座だ。

38宗像神社の井戸水

 宗像神社の井戸水は口当たりが良く、なめらか。うまい水ですこし甘い感じがした。境内に入って右手に孟宗竹(もうそうだけ)で作った柄杓(ひしゃく)を2個備えた手水場(ちょうずば)があり、青竹から水が出ている。すぐわきに井筒があった。神官によると、この井筒の井戸は使われなく、境内にある別の井戸からポンプアップした水を引き込んでいるという。
 

宗像神社の手水場
なめらかで、やや甘みが感じる井戸水

 「井戸は深さ10㍍ちょっとの浅井戸」。近年、涸(か)れたことはなく、湧き続けているという。「生水を飲んだ」と話したら、「検査もしていないし、手を洗うだけにしてください。飲用は薦めていません」と注意されたが、うまかった。煮沸しなくても飲用できると思った。
 丸太町通りを挟んで烏丸通りに面した京都新聞本社ビルにかつて名水「少将井」があった。ここは八坂神社の御旅所だった。開発で少将井跡がなくなるとき、井戸を祀(まつ)った少将井社を宗像神社で預かって摂社として祀った。宗像神社社殿のすぐ左わきに少将井神社の小さな祠と少将井神社の石柱がある。

宗像神社社殿の左手にある摂社・少将井神社の小祠

 「祠があるだけで少将井の井戸はありません」と神官。かつての少将井と同じ水脈だとしたら、少将井の水もきっと、甘い感じのする口当たりの良い水だったのではないかと推測した。
 京都市営地下鉄烏丸線丸太町駅の1番口から出て、丸太町通りに面した同駅近くの間ノ町口から京都御苑に入ってすぐ正面に宗像神社がある。社は花山院家の鎮守神。
 境内にある花山院邸跡の石碑などによると平安時代後期、藤原道長のひ孫が花山院を開いた。その孫が摂関家に次ぐ家格の清華家を確立。花山法皇から東一条殿を拝領して花山院にしたという。

宗像神社の社殿

 社の主祭神は、福岡県の宗像大社と同じ宗像三女神の多紀理比売命(たごりひめのみこと)、多岐都比売命(たぎつひめのみこと)、市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)を祀(まつ)る。

宗像神社のいわれ書き

 社殿は室町時代の1467年から10年間続いた応仁の乱で焼失。江戸時代後期に現在の社殿が建立された。明治時代初めの東京遷都で花山院家邸宅は廃墟となり、宗像社の社殿だけが残された。
 摂社の花山稲荷社は花山院家の守護神「倉稲魂神(うかのみたまのかみ)」を祀る。近くにある樹齢600年とされるクスノキの巨木がご神木。

井桁を残す名水

 京都御苑の中に名水といわれた井戸がある。いずれも由緒、いわれある井戸だ。どれも浅井戸で、市内の地下水位がかなり下がってしまったこともあって、今は水が出ない空井戸の状態。石組みの井桁(いげた)、井筒だけが残っている。名水の跡を訪ねた。
 御苑内には200近くの宮家や公家の邸宅があった。明治時代の東京遷都後、多くの邸宅は無くなり、公園「京都御苑」として整備された。宮家や公家の邸宅にあった井戸は埋められた。残った井戸は水が涸(か)れた。

39明治天皇ゆかりの祐井


祐井の井筒

 祐宮(さちのみや、明治天皇の幼名)の産湯に使われた井戸。旧井戸は祐宮2歳のころに大干ばつで干し上がってしまい、新しく掘削されたのが現在の祐井。

祐井のある旧中山邸跡。門の奥に祐井がある

 公家の権大納言・中山忠能(ただやす)の邸宅跡にある。祐宮は1852年(嘉永5年)に産まれ、中山邸で4年間過ごした。母親は忠能の娘・権典侍慶子(ごんのてんじよしこ)。慶子は孝明天皇の女官として仕えた。
 中山邸跡は桂宮邸跡の南隣にある。京都御苑の北側を東西に走る今出川通りの「今出川出口」から入るのが近道。

40縣井

 旧一条邸の屋敷跡にある井戸。近くに縣宮(あがたのみや)と呼ばれる小さな祠があったことから縣井(あがたい)と名付けられた。井戸水は明治天皇の皇后、昭憲皇太后の産湯に使われた。

縣井。井筒に「縣井戸」と刻まれている

 地方官任命の儀式である「縣召(あがためし)の除目(じもく」)の際には、任官に挑む人が縣井の水で身を清めて宮中に参殿した。この水で身を清めることが出世につながるといわれたという。
 古井戸は御苑の西側を南北に走る烏丸通り沿い、宮内庁京都事務所の前にある。乾(いぬい)御門か中立売(なかだちうり)御門から入るのが近道。

41染殿井

 染殿井(そめどのい)は平安時代の藤原良房の邸宅跡にある。場所は京都迎賓館の東側。今出川通りから寺町通りに入った石薬師御門からが近道。現在でも水が出ている梨木神社の染井の近く。染井と同じ水源とみられている。

染殿井の井筒
染殿院の跡地にある染殿井

 良房は、飛鳥時代の乙巳の変(いっしのへん、645年)で、中大兄皇(なかのおおえのおうじ、後に天智天皇)と共に豪族・蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺した中臣(藤原)鎌足(かまたり)の子ども・不比等(ふひと)の息子4人の中で最も力を持った摂関家・藤原北家の藤原冬嗣の次男。皇族以外で初めて幼い天皇を補佐する摂政の座に就いた。良房の娘、明子(染殿皇后)の染殿院があったことから染殿とも呼ばれた。

42閑院宮邸跡の古井戸


洲浜の庭にある古井戸跡

 閑院宮(かんいんのみや)は、江戸時代の中期、東山天皇の6番目の皇子が創設した宮家。天皇の血脈が絶えないように新設され皇統存続を図った宮家で、閑院宮の血統が現在の皇室まで続いている。無料で拝観でき、南側の洲浜をあしらった池がある。池の西側寄りに古井戸がある。

池周りの石組みが洲浜とされる閑院宮邸跡の池

 御所は、794年に奈良から京都に遷都した桓武天皇によって整備された。1331年に光厳天皇の代に現在地に移され、室町時代から内裏(だいり)として定着した。それ以前は現在地より約2㌔西にあった。1869年に明治天皇が東京に移るまでの間、天皇の住居、儀式所、執務所として使われた。
 政争による内戦や天変地異で建物は何度も焼失。現在の建物の多くは1855年に再建された。紫宸殿は、平安時代の建築様式。現在の建物では明治、大正、昭和、三代の天皇の即位礼が行われた。
 明治時代初めの東京遷都で宮家、公家も東京に移住。邸宅跡は公園として整備され。京都御苑と呼ばれるようになった。御苑内にはクロマツやカシ類、クスノキなど古木が多くあり、野鳥も多く生息している。白雲神社前の砂利道を挟んで南西にある「出水の小川」で2022年夏、オニヤンマが産卵していた。自然が豊かだ。(一照)(つづく)


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