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一万円札が変わります(名言・格言)

【一万円札が変わります=その顔となる人物の名言・格言は】

・新紙幣:渋沢栄一(日本資本主義の父・次回の一万円札)
 =人は全て自主独立すべきものである

自立の精神は  
人への思いやりと共に人生の根本を成すものである

・旧紙幣:福沢諭吉(独立自尊・今の一万円札)
 =天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず

また、脱線致しますが、
福沢諭吉は「人の下に人を造らず」なんて言ってない

実際は「・・・、と云へり」と書いてるのだから、諭吉本人のことばではなく、
【と言われている】と言う意味で、人は皆平等ではなく(勘違いで)

「学問のすゝめ」では、
生まれながらに上下の差はないのに、貧富の差や身分の差が出来るのは、
学問が有るか無いかが原因と説明し、【学ぶ】ことが如何に大切かを訴えた

また、福沢諭吉の没後50年祭では、
昭和天皇陛下を(大分県中津市の福沢諭吉旧邸に)お迎えして執り行われ、
式後には、筆者のお祖父さんの(福沢諭吉の縁戚にあたる)別荘に御案内し、
休憩をされた

それから、話は変わりますが
【福沢諭吉】と【福澤諭吉】の表記について

文献の著書がどちらかを用いていたのかに従う
現代では「福澤諭吉」と表記されることが一般的となっている
そして福澤諭吉の苗字は、もともと、「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった

(この後は、一度投稿させていただきました文章も含まれますが)

【福沢諭吉翁と日野辰治(筆者の祖父)は、縁戚であり】

福沢諭吉翁と日野辰治(筆者の祖父)は縁戚であり、
これから色々なお話しをさせていただきます

【第一弾】
福沢諭吉翁遺愛のチョッキと丹前を翁の死後
福沢家から親族に(小田部家=日野辰治の長女~日野氏に)贈られた

現在は慶應義塾福澤研究センター蔵に、納められています。

また、日野氏出品の地球儀(大分県中津市豊後町日野辰治氏所有の地球儀)は、
旧中津藩主奥平公と福沢諭吉翁が米国ボストン市ギルマン・ジョウスチン会社から購入したもの

地球儀は朝日新聞の昭和23年12月15日の記事によると、
1870年(明治4年)に、直径一尺大、珍しい黄道帯のついている精巧なものは、現在の日本には残っていない全くの珍品とのこと

非常に貴重な資料です

等々、筆者の祖父は、福沢諭吉没後50年祭や、福沢翁の遺品紙上展の開催にも色々な遺品を出品して、協力をさせて戴ただいたので有る

最後に、福沢諭吉は、
大阪市の堂島(堂島ロールのある街)に生まれ、
2歳で大分県中津市に引越した(父親が中津市の下級武士で)

色々な論評のある中、2016年の日経新聞のリーダーの本音で
-日本医療研究開発機構理事長末松誠氏によると-

慶應大学医学部長になって初めて創始者の福沢諭吉に興味を覚えたと

諭吉自筆の七言絶句で書かれてる

医師は自然のしもべにすぎず、
治る病は治るが治らないものは治らない、
などと考えてはいけないと戒めています

優れた眼力とかゆい所に手が届く繊細さを持ち、
絶対に諦めずにあらゆる手段を尽くすことこそ
医学の神髄であると説くのです

また、「坂の上の雲」の第一巻に福沢諭吉が出ていて、
読み尽くし、あっという間に引き込まれたそうです

『医者の見た福澤諭吉』には、官学と私学の対立についても書かれています

役人におもねるな、尋ねるな、自分で考えろ
と言うこと、つまり【独立自尊】です

さらに、お金はきちんと稼いでそれを還元しなければ、
真の教育は出来ないという趣旨のことを具体例をあげて言ってます

福沢諭吉の言葉は、
努力して頑張っている地方の大学が報われるようにしたいという
私(筆者:末松氏)の気持ちとつながっているかも知れない

諭吉は機会均等の大切さも語っており、
競争的な環境の中で良い研究に財源をあてる私(末松氏)の考えと一致してします

長々と申し訳御座いません
一万円札の顔が、福沢諭吉から渋沢栄一さんに変わりますので、
最後の記念と思い書かせていただきました

この様に日々重い責任を負っての生活環境でした







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