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「力道山」さんの全盛期の頃のお話し

【力道山、テレビ中継で興奮状態の大人達】  

むかし、昔のお話しで、申し訳御座いません

私がまだ、小学生の時代の頃(大分県中津市に在住)
町では、家庭にテレビがある家は数えるほど(数軒)しか無く、
観戦したくとも、銭湯♨️や、電気屋さんとかの限られた範囲にしか
有りませんでした

私の家ではいち早くテレビを購入して座敷に備え付けたのですが、
それが大変な騒動に成るとは思いもしませんでした

白黒テレビで、今みたいに放映するテレビ局も多くなく、
見られる番組は限られていましたが
その当時の人気者の「力道山」さんが出演する時間帯には、
多くの人達が我が家を訪れるのです

顔見知りの人はいいのですが、何故か知らない方々も、
何らかの理由のもと玄関から上がってこられて、テレビの前に陣取るのです

私の友達はテレビ観戦を期待して、当然のように、その様な状況に成っていよう
とは、つゆ知らずに(多くの人が訪れる等)
そんなに人が居ないであろうと、放送開始時間ギリギリに来るものですから、
私と共に後ろで隙間から覗くことになるです(人と人との間をぬう様に)

母親が用意したお菓子など、当然食べれませんでした!

今の若い世代の皆さんには想像出来ないでしょうが?

「力道山」さんの空手チョップが出ようものなら、みんな大興奮で、
その場では、拍手喝采や怒声が飛び交うのです

後ろで、観戦している私達は、耳を塞がなくてはならない程でした

気が付くと、誰が誰やら判らなくなって仕舞う様なプロレス観戦でした

テレビ放送が終わるや否や、 一同に退散してしまうから、
ただ、呆れるばかりでした
(座蒲団や、湯飲み茶碗等の片付けは、家族でした?)

その後の「力道山」さんの活躍はさらに勢いを増していきました

力道山さんに付いては、
最初は、お相撲さんでした(二所ノ関部屋の関脇まで、上り詰めた)
それからプロレスラーになられてからの大活躍には目を見張る勢いでした

不幸にも、その後に、東京・赤坂のナイトクラブで村田勝志という暴力団員に
腹部を刺され(1963年12月8日に)、
その1週間後の15日に、その傷が原因で亡くなられました

その死を看取ったのが
皆さんも御存知の力道山さんの付き人をしていた【アントニオ猪木さん】でした

死因には、色々有る様ですが、推測の域に成りますので止めにさせていただきます

ただ最後の言葉は「俺は死にたくない」と妻の田中敬子さんに残されたそうです


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