立脚点を探す
帰るべきところ
よりよく生きていくためには、「帰るべきところ」が必要だ。
それは「家族」でもいいし、「友人」でもいい。「先生」でもいいのかもしれない。
仮面を外して、素顔のまま、時間と空間を共有できる人がいれば、安心できる。
だが、「帰るべきところ」は喪失する危険性を常に孕んでいる。
「帰るべきところ」を失ったとき、現実の底が抜ける。
落下していく彼は、まず他者を失い、次に自己との闘いを迫られる。
自己の立脚点を知らない者は、藁にも縋る思いで「何か」を掴みかける。
たいていその「何か」は、観念的で脆い。
一方で、自己の立脚点をはっきりと知っている者は、すぐに自分自身との闘いに転じる。
彼は、そこでの立ち回りをよく心得ている。
北村透谷の「インスピレーション」
北村透谷は『内部生命論』で、「詩人哲学者の高上なる事業は、実に此の内部の生命を語るより外に、出づること能はざるなり」と主張した。
透谷によると、詩人と哲学者は「内部の生命を観察する者」に他ならなかった。
では、その「内部の生命」はどのようにして造られるのだろうか。
透谷は以下のように説明する。
「内部の生命」を再造するのは、「インスピレーション」である。
「経験」でさえも「インスピレーション」によって再造される。
私は、明治20年代の詩人・評論家として活動した北村透谷の立脚点をここに見る。
小林秀雄の「夢」
文芸批評家として活躍した小林秀雄は、デビュー作の『様々なる意匠』で、このように書いた。
小林秀雄は、「嗜好」と「尺度」を切り離さない。
つまり、ある作品に心を動かされることと、その「心を動かした何か」を分析によって探ろうとすることとは、互いに密着していて切り離せないということだ。
ここで、切り離せない「嗜好」と「尺度」は、「繊鋭な解析と溌剌たる感受性の運動」という言葉に言い換えられる。
そして、小林はボオドレエルの批評から「無双の情熱の形式をとった彼の夢」を見出す。
おそらくこの「夢」こそが、批評という「運動」をはじめて可能にするのであろう。
北條民雄の「いのち」
三年前に読んだ北條民雄の『いのちの初夜』は、強烈だった。
もう一度読もうと思い、再び手に取った。
内容は、「尾田」という青年が癩を発病して癩病院に入院することになり、そこで「佐柄木」をはじめとする様々な患者を目撃し、交流するというもの。
癩の悲惨さは小説に書きつくされていると思うので、未読の人は確かめて欲しい。
ここでは、作中人物の「佐柄木」の言葉を引用する。
「佐柄木」は自分も患者でありながら、他の重病者の世話をしている青年である。
現実を取り戻すための立脚点を探さねばならない。
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