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花粉と歴史ロマン  英国留学、ロンドンへ

1 英国の研究者との出会い

 留学先を決めたのは、Dr.PeterとDr.Webbの教科書に感銘を受けたことが始まりでした。教科書の序文から説明しましょう。( )は、私の意訳です。
This book seeks to do a number of things.
(この本は、多くのことを行おうとしています。)
〜中略〜
We have considered the errors inherent in palynological techniques and data and have reviewed the methods currently available to reduce these errors to a minimum.
(花粉分析の技術とデータに内在するエラーを考慮し、これらのエラーを最小限に抑えるために現在利用可能な方法を考察しました。)「たくさんのことを行おうとしている」の書き出しは、大学の学部生を対象に「学ぶべきたくさんのこと」があるよ。と聴こえるのです。

内在するエラー」他の学問分野にもあろうかと、思いますが、花粉分析には固有のエラーが存在することを、正直に示しているように思えました。しかも、そのエラーを無くすのではなく、最小限にする方法に触れています。おそらく、著者自身も経験した識別に関する誤りを指していると思えるのです。そこで、これから学ぶ人たちに対して、検索方法や形態に関する記載を簡潔にまとめ、さらに精妙な写真を添えてエラーが最小になるように編集していることが、伝わってくるのでした。

Dr.Peter先生のポケット植物図鑑の導入部分にも、彼の人柄を感じさせる一文がありました。

マレーシアで印刷された、ポケット図鑑£6.99

The sheer beauty of wild flowers needs no emphasis, yet their enjoyment can be greatly enhanced when spiced with more understanding of their construction and relations to one another. 以下、意訳(誤訳?)します。
( 野生の花の清楚な美しさを強調する必要はありません、ただし、その構造と互いの関係をより深く理解することでスパイスを効かせた時、その楽しみが大幅に向上します)。

 sheerは知らない英単語でした。pureと似た意味を持つことを知りませんでした。ロックバンドのQueenのアルバムに「Sheer Heart Attack」がありましたので、気になって、調べると、「心臓を一撃」だそうです。
 クイーンの「心臓を一撃」は、何やら自分の殻をやぶるための、強い告白のような感じでしょうか? sheerの使い方、面白いですね。

 また、花の構造や仕組みを深く知ることがスパイスを効かせる。この味わいのある表現自体がスパイシーですね。甘いばかりが美味しいと感じる子供時代、その先にあるスパイシーな世界があることを教えているようです。さらに、次の部分も、見逃せません。

One valuable feature of plants is their immobility - but this also makes them vulnerable for they are easily destroyed by careless misuse.
( 植物の貴重な特徴の 1 つは動かないことですが、不注意な誤用によって簡単に破壊されてしまうという脆弱性もあります )。

 いかがでしょうか?植物は動かない。誰もが知る事実の中に、人間に脅かされやすい植物の脆弱性を諭しているのです。植物には特有の強さもあれば、「か弱さ」も秘められているのです。
 私が初めて、彼の研究室を訪ねた時、ドアの内側には日本語で、シクラメンの原種探しを戒めるポスターが貼られていました(日本人が来るとわかっていたのにね、少しスパイシー)。

2 出発 1992年4月5日 日曜  雨

 ロンドンへの留学が決まってから準備の1年が過ぎた。私たち夫婦の目標はこの日を無事に迎えることだった。雨など気にすることはない。成田までは隣人がワゴン車を出してくれることになっている。スーツケース3個、段ボール箱2個を積み込み、朝7時に家を出た。隣人一家に手を振りながら雨の中を出た。途中、5歳になる娘が吐いてしまった。成田のコンビニで着替えをさせた。飛行機は英国航空のBA6便、11時発である。9時のチェックイン、時間に余裕はあったが、到着早々現地でŁ1850(ポンド)の支払い(家賃×2+電話代125)が必要なので、45万円の両替が空港での仕事である。

 いくつかある両替所は、レートの違いか、少々の混雑、少し焦る。同じ飛行機でロンドンに帰るOKa君と会うまでは落ち着かない状態が続く。搭乗口に降りるまでロビーで母、妹一家、隣人のTさんと挨拶を交わした。エスカレーターで降りると、もう日本と、みんなと別れたのだ。

 1年間どんな生活になるのか、OKa君は高校1年の時のクラスメートであり、公認会計士として既に6年英国で過ごしていた。今回の日本への出張の帰りを私たちの旅立ちに合わせてくれたのだ。その彼はまだ来ない。子供はジュース、私はビールを飲んでから機内へ。窓際の3席と中央の通路側の1席が私たちの座席である。手荷物をしまって、いよいよと思っていた時に、にこにこしながら彼が私たちのところに来てくれた。

3 Oka君の助け

 15歳で出会った。入学式後の教室で私(ウ)、彼(オ)の順で隣り合わせてから、の、つきあいである。25年の年数が過ぎていた。私たちも十分、中年のおじさんになっていた。離陸、急角度で1万m上空の世界に入った。子供たちは思いの他くつろいでいる。

 眼下には既にシベリアの大地が拡がっている。落葉の針葉樹か、タイガの林か、ゆるい起伏の地面に雪がかぶさり、強い光を反射させている(5年後ここに降り立つことになるとは)。

 ロンドン着は現地時間の午後3時、昼の中を12時間過ごすわけだ。娘は眠くなってきたようだ。窓のブラインドを落として、みんな少し休もう。機内に日本人はまばらである。団体の客はいないようだ。

4、5時間経った頃、トイレに立った。バイカル湖(1997と1998調査)が見えると他の日本人客から教えてもらった。あと8時間か、長いなあ、外の光が入らないように、ほとんどの窓は閉じられている。まぶしい光とは対照的に窓の外側には乾燥した空気の中で外側に薄い氷がついている。

 日本のことが気になる。特に私たちの留守中、母親が一人暮らしになり、犬(コロ)の世話など任せてきたからだ。母は昨年の夏、心臓を患いペースメーカーの埋め込み手術を受けている。この留学生活はいわば自分ひとりのわがままな気持ちから生まれたもので、勤務先から命じられたものでもない。

4 色々な助言

 外国に行くという挨拶回りの中、いろいろな意見があった。「仕事は二の次にして体を大事にしなさい」と言ってくれたのは、高校時代の書道のTANJI先生である。「行くからには精一杯研究に没頭して、帰ってきてからは適当にやれば良い」は、剣道の道場を開いている親戚(範士)だ。
 大学院時代の友人でフランスに留学経験のあるM君は、電話の中で「夫婦げんかをよくしました」と伝えてくれた。私たちの生活はどのように変化するのか、まるで実像を結ばせることのできない問が何度も繰り返し、頭から離れない。

 長男(6歳半)は任天堂ゲームボーイのおかげで退屈することもなくジュースを飲んだり、トイレに行ったり自由に過ごしているように見える。トイレ近くの窓から今までとは違った山並みが見えてきた。きっとウラル山脈だろう。これを越せば西洋に入るのだ。8時間が経過した。あと何時間?」繰り返される問は、その度に自分のものとなり、何度も時計を見る。既にロンドン時間に直してある。機内では映画(ターミネーター2)が始まる。

5 ロンドンは曇り 4月5日 (日)

 ロンドン ヒースロー空港第4ターミナル。機内から見えてきたロンドンの町並みは日本のゴルフ場のコースのように虫食い状態の街路が拡がっている。急降下の際、娘、気分が悪くなりまた吐く。着替えはスーツケースの中、少し汚れた服のまま降りることになった。妻も気分が悪いらしいが、手早く身支度をさせている。

 機外に出た通路でOKa君が待っていてくれた。「どう?食事は中々よかったろ」「娘がまた吐いてしまったんだ」と私。ほかの乗客に遅れて、長い回廊を私たちだけが進んでゆく。静かだ

 入国審査は家族一緒に受ける。係員は新米さんらしく、後ろの先輩の係員から何やら指示を受けながら審査を行っている。必要な書類はすべて提示してあるにもかかわらず(パスポート、身分証明書、帰国時の航空券、銀行の残高証明)長い時間がかかってしまった。OKが出て荷物の受け取り口へ、御徒町で買った安物のスーツケースの口が少し開いている。詰めすぎのせいだろう。

 ロンドンは薄曇り、日曜の午後3時、喧騒のない空港を後に、OKa君が手配してくれてあったミニバスに荷物を入れる。礼を言うと、運転手は、“It’s my preasure.”と、英語の初会話を試しつつ、乗り込むと高速道路に入る。30分程度でOKa君宅に着く。OKuさんの出迎え、私たちが疲れていることを察してくれ、みんなで食事をする手はずを整えていてくれたが、少し落ち着いたので、暗くならないうちに我々の住む家にまで送ってくれることになった。

 家に着くと暖房が入っており、日本人経営の不動産屋さんが来ていた。いろいろ説明を受ける。風呂場に浴槽の栓がない。「栓がなくてもいいのか?」と、とぼけた私の質問に、OKa君「それは良い質問だ」。不動産屋さんが台所の流しの栓を見つけ、代用することになった。「明日は休みとってあるから私たちの手足となって動くから、ではまた。明日」。友達のありがたさをこれほどまでに受けたことはなかった。ありがたい。日本にいたらおそらく、ここまで感じることは無かった。この気持ち、うれしかったなあ

6 自宅(Regal way 138)の周辺 4月6日(月)〜4月10日

 翌日、6時に起床、一人で周辺を歩くことにする。外国に慣れるには、到着後、疲れを気にしていてはいけない。歩き回ることだ。海外調査の心構えとして生態学会誌の記事にあった。薄着のまま、昨日、自動車で来た道を思い出しながら店のあるところまで行く。禁煙していたがタバコが欲しい一心で、雑貨屋さんのような店に入る。マルボロŁ.2.25買う。

今日は子供たちが通うことになっている小学校と連絡を取ることになっている。これもOKa君が手配してくれてあった。定員オーバーの懸念があることは知らされていた。こわごわ電話をかけ皆で面接に出かける。

 はじめ出てきたのは、いかにも校長先生らしい太った婦人であったが、彼女は秘書であり,校長先生は紺のカーディガンがよく似合う細身の女性であった。こんな先生の元ならば子供よりも自分の方が通いたくなってしまうほど、素敵な人でありました。これは、Dr.Moore教授の顔も知らず、年齢も知らず、ただ、ただ手紙のやり取りだけで留学先を決めてしまった不安感の裏返しだったのだろう。11時ころOKa君が銀行口座の開設とスーパーでの買い物の世話のために来てくれた。

 銀行は地下鉄メテロポリタンラインのプレストンロードの近くにあるバークレイ銀行である。日本からの送金先として、また自動引き落としのための口座の開設が目的だったが、金利の高いHRDとC/AC(カード利用)普通口座を設けた。係員は30代半ばころの金髪のお姉さん。

 OKa君も自分用にカード入れをサービスしてもらいながら手続きを進めている。慣れたものである。買い物はウェンブリースタジアムに近いTESCOという大型のスーパー。日用品など5万円ほどの買い物。小雨の冷たいロンドンで,もしOKa君の助けがなかったらと思うと、またまた感謝。
 二人の子供は、ともに4/28から入学することになった(今年は休日:バンクホリデー、イースター、学校の春休みの関係から)。Dr.Moore教授(King’s College)には,明後日の4/8に会いに行くことになっている。明日は大学の場所の確認と日本大使館へ在留届の提出を出しに行くことになる。さて明日からは自分たちだけの生活が始まる。近いうちに食事を一緒にということでOKa君と別れる。

彼の自動車はBMWの新車で頑丈そのもの、妻は自動車の必要を強く感じたらしい。後日、隣家の大家さん(ギリシア人)から中古のBMWを購入しました。

7 曇り空、時々雨 King’s  College下見 4月7日(水)

 大学の所在地は地下鉄サークルライン(日本の山手線か)のHigh Street Kensington下車、徒歩10分程度の場所。旅行案内にはQueen’s Collegeとある。いつから変わったのであろうか?King’s  Collegeが現在の名前であることは確かであり、よくわからないが、おそらくこれだろう。住所は一致しているので、探し当てたKing’s Collegeの標識が交差点の角にあった。

 木製の標識を背景に記念撮影をする。「とうとう来たか」目標地点に立てたことで、何か得体の知れない緊張が走る。門を入り、建物を確認、Dr.Moore氏の研究室は1stFloorとのこと、学生らしき人から教えてもらう。確かにここだ(現在は移転してしまいました)。娘がトイレに行きたいという。我慢ができない子供の要求は、面倒であるが常に自分を自然体にしてくれる。トイレの場所を聞く。体験学習が始まった。次は日本大使館、Green Parkへ、この駅からなら歩いての距離らしい。本を片手に探す。やっとのことでその場所につくと、引っ越しの張り紙。疲れもあって、歩く気になれない。タクシー(Black Cab)に乗る。大使館は2時まで昼休み、もう動きたくない。建物内のソファーで休む。在留届提出、「お預かりします」。外務省関係の役人らしく、無表情で丁寧な言葉遣い。さて、また一つ終わった。

8 快晴 Dr.Peter Mooreとの面会 4月8日(木)

 手紙には午後としていたが、午前中に会えるのであれば、それも良いと思い、早めに家を出る。10時に着いてしまった。当然彼は来ていなかった。彼の部屋に通じる場所にエレベーターがあり、その前に簡単な応接セットがあった。はじめ、3階(日本では4階)の秘書さんの所へ行き、待たせてもらおうと思っていたが、食堂に行けば飲み物もあるから、そちらへ行くようにというつれない返事。

 食堂では自販機のホットチョコ(25p)を飲んでいたが、ここも落ち着かない。一番良いのは彼の部屋の前だと思いなおして、これまた不自然ではあったが、一人で2時間も座っていた。途中下に降りてゆき、建物の前の樹木や草花そしてリスなどを見ていたが、敷地が狭いのでそれほど時間を費やすこともできなかった。何度も何をしているのかと尋ねられ、「会いに来たのだが早く来すぎてしまった」と答えて、「ありがとう」と返しておいた。

 この時、親切に声をかけてくれた人の中で、後に同じ研究室仲間となった、エジプト出身のセキーナ女史がいたのだが、その時はあっさりしたものだった。

 12時丁度、彼が来た。彼がMoore先生であることは直感できた。彼も私を直感した。銀髪の赤ら顔の彼は笑みを浮かべて部屋に通してくれた。部屋のドアの裏側には、日本語で書かれたシクラメンの乱獲を無くそうとのキャンペーンのポスター。天井は高く観葉植物がたくさん置かれている。彼の部屋はまるで温室のようであった。

 Moore氏は50歳、私とは10歳違いだった。彼はウェールズ大学で学位を取り、25歳からこの大学に勤め、現在はEcological Journalの編集者という地位にあることを後で知った。年代的にも私に適した、最高に適した人物であることを感じた。Moore先生は、明日(4/9)、Green Park近くのロイヤルアカデミーで開催されるリンネ協会の部会である花粉の専門家による、春の会合に参加するとのこと、私も出席するようにと地図を書いてくれた。土産物として持参していたコンパクトカメラと銀座の鳩居堂で買ったミニチュアの屏風を差し上げると、大変喜ばれた。そして早速、その場で私を撮影、この時の写真は印刷されたかどうかわからないが、おそらく緊張でひきつった顔にちがいない。疲れも出てきたので明日を約して帰宅。

9 ロイヤルアカデミー、リンネ協会 4月9日(金)

 Green Parkで降り、ロイヤルアカデミーは古色蒼然とした権威のかたまりのような建物で、リンネ協会の部屋にはダーウィンの肖像が掛けてある。講堂である。開会前のアイスブレーキングにお茶とビスケットのサービスがあった。リンネの塑像のある部屋は図書館でもあり、その場の空気を吸いながら、いきなりこれから生きてゆく社会に放り込まれたようなとまどいが心地よかった。
 兎に角、自分は旅行者ではなく、花粉分析を通して、この国の社会に入り込んだのだ。午前の部が終わり、Moore先生とトイレで「連れション」便器の位置の高いこと!身長は考慮されていません!すぐ隣の関係は親しみを作ってくれた。トイレの出口ではこの会の会長さんにも紹介された。昼休み、付近のパブに案内された。途中、セキーナ女史から昨日の件を話しかけられたが理解できず、彼女の顔が不機嫌になる。「仕方ないじゃないか」これ、わたしの気持ち。

 薄暗いパブ:の中でサンドウィッチを注文、Moore先生は私にもビールを持ってきてくれた。この時、先生の教科書(Pollen Analysis)の共著者であるJ.A.Webb女史と相席となる。「日本には何人ぐらいの花粉分析の研究者がいるのか?」「およそ50人ぐらいです」。彼女、先生と顔を見合わせる。多いと思ったのか、少ないのか、それも良くわからない。自分の分析方法として、「コナラ属の落葉型と常緑型の識別基準を説明する」が、「その区別は難しいのでは?」という顔が返ってきた。先生は優しいまなざしで聞いているだけ、彼は私の専門用語の乏しさを見抜いていたかもしれない。

 午後も同じようにお茶とビスケットの提供の後、講演を聞く。講演終了後、同じく教科書の共著者のCollinson女子と合流し、セキーナ女史も加わりダーウィンの画の前で記念撮影(表紙写真)

 3時終了した。今日も疲れた。帰路地下鉄駅近くで、娘の誕生日(4月9日)のプレゼントに本を買う。英語の本で、スイミングスクールに通う女の子の絵本、そして道路地図(London A to Z )

10  4月10日(土) 

 在留届とは別に、Horbornの警察署にあるAllien Officeへ家族と出かける。場所がわからない。何人もの人に聞いてやっと発見、日本のように大きな標識がないためか?子供連れで道に迷う、お父ちゃん、しっかりしなくちゃあ!
 担当者の説明では、妻のパスポートに入国審査官のスタンプが押されていないことが指摘され、妻のパスポートは保管するから連絡後に取りに来るようにと指示される。ああ面倒だ。近くの大英博物館へ、子供たちもそれなりに楽しんでいた。大英博物館で、花粉の発見(受粉の霊力)大英博物館の展示物には、紀元前(883〜869)シリアの石板(人工授粉)があり、以下の説明がありました。

AshurnasirpalⅡ王の石板 BC870-860、 Ashurnasirpal   Ⅱ BC883−859 ナツメヤシ(神聖な樹木)の雄花を雌花に受粉する超自然霊が建物と支配者を守る:メソポタミアの古い伝承

「花粉分析」を学んでわかることとは?時空を超えて、過去を表現するといえるかもしれない。その一方で、ある時、祖母に昔のことを聞こうとしたら、「そんなこと知って何になるんだい」とのつれない返事、祖母にとって過去は思い出したくなかったのかも知れない。「過去は現在の鏡である」とか「母を見れば娘がわかる」とか、卑近なところも含めて、「過去を知る作業」に関する私の課題が続きます。

11 Pingo(ピンゴ)堆積物の分析

10000年前:Martin Ingrouille :HISTORICAL ECOLOGY of the BRITISH FLORTA,1995より図には海面低下により陸続きとなった状況の中、英国南部海岸沿いに樹木や灌木を交えた草原が分布し、内陸部は草地が卓越し、スコットランド東岸地域はツンドラ植生に覆われている。

さて、ピンゴです。白色のロンドンクレイの表層部分に有機物に富むレンズ状の堆積物がある。

白色のロンドンクレイの表層部分に有機物に富むレンズ状の堆積物がある。
Pingoの中心部の堆積物断面から、金属枠を打ち込み「モノリス」と呼ばれるサンプルを採取する。左は試掘のためのボーラー(ロシア型)
左:Dr.Peter Moore先生と2名の協力者, 右: Pingo中心部分の最下部に白色のロンドン・クレイが見える。

 2万年前:テームズ川北部は、北西ヨーロッパ全域を覆った氷床の下に置かれていたが、1.4万年前になると氷床は後退し、1.1万年前になるとスコットランド北西部の山岳氷河に縮小しました(下図)。

傾斜地の地下水が窪地に溜まり氷結して、地表を盛り上げる地形をピンゴと言います。温暖化した後、氷が溶けるとツンドラ植物の表層部分が崩落し最下部に堆積し、やがて侵入してきた低木などの花粉が堆積を開始します(Moore先生のスケッチが元です)。

 寒冷期は流水の作用が停止した地上部では、堆積物は蓄積されないが、周氷河地域の地形として知られているPingo(地下水が傾斜地の地下で凍り、氷塊が徐々に大型化して地表を盛り上げる地形)は堆積物の受け皿になる。温暖化が進むと氷塊が解け上部が崩落するため、Pingpの底部には、氷河が後退した直後の植生を示す堆積物があり、草本を主とする花粉組成を確認することができました(日本花粉学会会誌5(1):35−47))。

Dryas octopeteraの花、Google 画像より 10枚の花弁が特徴

12  完新世初期(約1万年前以降、現在まで)

 15000年前から始まる温暖化によって、地下が融解すると地表部が崩壊し窪んだ底部に堆積する。その後、池となった場には周辺に発達した低木林が生産した花粉が堆積し、森林変遷が記録されることになる。英国南部は大陸と繋がっており、大陸から植物が分布拡大し英国の植物相も、大陸と共通していました(「ガリア戦記」に続く)。

Dryasが指標となる花粉帯(下部と上部)があります。ツンドラ植生を指標するDryasが多産する花粉帯に挟まれたAllerodアレレード期はやや気温が上昇した時期。上部Dryasは「寒の戻り」と表現されます。


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