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12年を経て〜急いで投稿したので書き漏れ多数でした〜

ふなっしーのTwitter

今年のふなっしー、最初は間に合わなかったようで『・』ひとつで時間投稿の後、こちらをアップロードしておりました。リプ欄も『・ 』で埋まっていたのが面白かったです。そういう私も『・』に便乗しましたが(笑)間に合わなくても何かをせずにはいられないふなっしーはやはり果物的にもすごいと思います。
(有名になり始めた頃、Twitterのリプ欄に「本物ですか?」の質問に「果物です」とお答えになってたので果物と表現させていただきました)

14:46  他の地域も同じだと思いますが時間にサイレン放送が鳴り響き、北東方向に向かって両親と娘たちと一緒に黙祷を捧げました。サイレンのなった瞬間、一瞬気づかなくて『なに?また火事?』と口をついてしまいましたが母の「違う!」の一言に「あ!!黙祷!!」とみんなで黙祷致しました。娘たちは『なに?』という言葉に震災の時間だ、と告げると納得してくれました。12年です。この12年は長かったのか、短かったのか、それはその人それぞれのことだと思います。12年が経過しててもあの日のことは鮮明に思い出せます。

前回書ききれなかったことがあったので、今回も続きを書いていこうと思います。

前回の時もでしたが、ある配信者の放送を聴きながら綴っていたのですが、その方は復興支援に行った時の話をたくさんしておりました。現場は想像を超える残酷な状況だったのは皆様ご存知の通り、報道には乗りませんでしたがご遺体が見つかった場所にそのまま横たえて、被災者は家族を探す、という状況だったり、安置所に運ばれてる方が居たりと混乱に混乱している状況下、支援物資を運ぶ為に車で向かったそうです。家の基礎だけが並ぶ一帯の中、被害から逃れた人が家の片付けをしていたのでペットボトルを渡そうとすると「車のナンバーでわかるけどあんた、他県から来たんだろ?まだどうなるか分からないから自分のために使いなさい。あと少しで構わないから避難所の方で足りない分を補給してやってくれ」と言われたそうです。その方の自分より他人を気遣う気持ちに心を打たれたそうです。手伝いに行ったはずなのに、被害者の方々は一日でも早い復興の為にテキパキと動いているのに、目の前の残酷な光景にメンタルがどんどん伏せていって体が思うように動かなくて、周りの片付けの速さに比べて自分の動きがものすごいゆっくりで、なんの為に手伝いに行ったのか、わからないような状態になっていた、とも言っていました。

それはそうだと思います。それまで見た事のない光景を目の当たりにして、現実を受け入れること自体が頭の中で整理しきれず、気持ちがついて行かない、そんな経験は震災ほどでは無いにしてもショッキングな場面に出くわした時、人は頭での情報処理がついていかないことがあり、身動きが取れなくなる。そんな経験って1度はありませんか?フリーズしてしまって動けないような理解不能なこと。

具体例はありませんが、どんなことが目の前で起こってフリーズするのか、というのも人それぞれだと思います。信じられないような奇跡のような九死に一生の経験だったり、彼氏に裏切られたことを知った時、彼女の浮気がバレた時、目の前で大切な人を失ってしまった時、こんな大きなことではなく、些細なことでもあるような気がします。

東日本大震災の時は余震も緊急地震速報もかなり頻発していたので、揺れの少ない地域にいた私たちでも若干の揺れを感じていることも多かったと思います。これが東北の人たちには追い打ちをかけるような激しい揺れだったのかと思うと、当時は頻繁にTwitterやLINE、アプリを使って安否確認を行っていました。「人は無事だけど、タンスの引き出し全部開いて中身が散乱した〜😭」というのはよく聞きました。津波や原発事故で家を失った人もいました。チェルノブイリに次いで原発事故としては大きなものだったと思います。日本でもその原発の利権問題などもあり、あまり私は原発について触れることには抵抗があるのですが、少なくとも何らかの秘密を握ると消される、という未解決事件が存在することも事実なのです。

東北の復興はかなり早いと言われていますが、それでもまだ避難所生活を余儀なくされてる方がいらっしゃると思います。津波で家を奪われ、避難先として提供された家(公務員住宅)から期限が来たから出ていけ、と言われ行く先を見つけられず自ら命を落とした方もいたのだと最近知りました。なんのための避難生活だったのか、わかりません。現地写真を見ましたが都内のタワマンでした。津波で家を失ってるのに埋立地の海に近い場所で、避難者の方はそこに恐怖心はなかったのだろうか?という疑問も浮かびましたが、そこで命を絶ってしまった方に聞くことはできませんし、他にどんな人がいたのかすら把握するのは、手配した人や身近な人にしか分からないことだと思います。野次馬根性でそんなことを聞いたところで、何もしてあげられないのが現状ならば、それこそ聞かない方がいいと思います。

都市伝説などで、東日本大震災は人工地震の可能性がある、と言われてたり、イルミナティカードで予言されていた、と言ってる人もいましたが、科学的根拠に元ずいた研究結果は『人工地震ではない』でした。東北地方は200年に1回くらいのペースで津波被害にあってきた、という歴史があるようです。その分、津波対策は行われていたようですが、予想を超える津波の高さで来てしまった為、為す術なく、と言った状況だったようです。地震直後の報道では最大6mとの報道でもびっくりだったのに、倍以上の高さで来るとは予測もできない状況だったでしょう。その情報を鵜呑みにして津波見物に行った1人の青年は帰らぬ人となってしまいました。『あの場所なら届かないだろうからちょっと見てくるわ』が最後の言葉になると思わなかった見送った人は『あの時、殴り倒してでも止めてればこんなことにならなかったのに』と後悔を口にした。『タラレバ』を口にしたところで時間は遡らないし、現実を変えることは出来ない。助かった人も助かった人なりに苦しみを抱えて生きている。

フィギュアスケートの羽生結弦さんが『ここにはたくさんのご遺体があった』とスケートリンクに手をついてお話された、というニュースをネットで拝見しました『ここに氷を張ってもいいのか?』と。12年の歳月が流れた今、それを問うても誰も責める人はいないと思いました。たとえその場所で再会を果たした遺族であっても。今もその場所が残っている、それが証明になるような気がします。追悼の演技をしたのならそれで良いのではないだろうか?

私は第三者だから言えることですか?

誰かが誰かを思い、涙した事実がそこにはありました。彼だって被災者で家族のご飯を分けてもらって避難所生活をしていた、という密着番組を見たことがあります。まだ10代だったから食欲も旺盛な時期だったから、申し訳ないと思いながら家族の倍は食べてた、と。少ない支援物資、炊き出しの中から子供が満足できるくらいの食事を出すのすら厳しい状況だったのでしょう。それでも、復興して徐々に日常を取り戻してる人がいたり、未だ避難所生活の人もいたり、状況はそれぞれです。避難所も多すぎて住所だって書けませんが、酷い名前でした。以前書いたと思いますが、郵便物の住所確認のテレアポをしていた時に送付先の住所を聞くと、2度聞きしてしまうほど『え?』という名前の避難所の名前を当てられている地域だってあったんですよ。それでも前を向いて生きている東北の方々には頭が上がらない思いです。

自分がその立場になったら、と考えると多分まともじゃいられない気がします。

亡くなった方々への哀悼と共に、今、力強く大地を踏み締めてる残った人たちへ

3月11日だから思い出すのではないです。強く思い出すのはやはり当日ですが、12年前の今頃はこうだった、あぁだった、日常の会話の中でもあの日の話は今でも出てきますし、計画停電で暗闇に飽きて泣いてた娘も来月から高校生になります。それだけの年月の経過をすると本人は全く覚えてないですが、ACのCMに文句を言ったこともありませんでした。緊急地震速報が流れる度にビクビクしてましたし、小学生になっていた長女はうっすら記憶にあるようで、未だにあの音はトラウマだと言います。

確かに不快になる音をわざと作っているのですから、あの音が好きだという人はいないでしょう。緊急車両も同じ原理で音が作られているのは有名な話だと思いますがら不快感で気付くのが早くなるように、という意図らしいですね。

岩手と福島のネッ友、宮城のお世話になった方々達が、今後も安心して暮らせますように

きっと少し大きめの地震は収まらないと思いますが、震災ほどの大きな地震は生きてる間にはもう来ないだろう、と思いたいです。

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