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神様を見たことがありますか

高2になって、電車にも荒い運転と安全な運転があることに気づいた。毎朝同じ時間だけ電車に揺られて、工場ロボットのように足を進める。本当に行きたかった場所は海馬の蜃気楼に溶けていった。規則正しく動く社会で軋む歯車の音が聞こえた。



さて、人生はつまらないという。しかし、つまらないことは人生を悲観する理由にはならないのである。つまらないとは案外素晴らしい。ぼくらはどこにでもあるような道を歩く。しかしずっと平坦というわけにはいかないだろう。地球は誰にとっても丸く、山も海も丘も谷も、誰にとっても等しい数がこの世にはある。どの道を選択するかは僕が決めるけれど、どうしようもない壁が空から降ってくることだってあるわけで。
ぼくのつまらないの内訳はきっと「苦 悲 悲 怒 苦 苦 死んでもいいくらいの悦び」くらいだろう。
苦しみや悲しみの数の暴力を一瞬でへし折ってしまう悦びがぼくの人生にはある。ぼくだってただつまらないだけの人生のために生きれるほど強くはない。これが幻想でも防衛本能でも構わない。幸せならいい。そう思えるその一瞬に縋るぼくの姿は鼻で笑いたくなるくらいに滑稽だけど、無性に愛しくて、ああ、ぼくはこいつのために生きてやらなくちゃと思う。


人生は人の生(ナマ)と書く。ぼくらは間違いなく生の世界を見ている。生の世界を生きている。嘘も虚空もない。ただ愚かで浅ましい。これも生である。

あなたは震い付きたくなるくらい綺麗で穏やかな誰かの微笑みを見たことがあるだろうか。快楽で脳を震わすほどの雨の音を聞いたことがあるだろうか。そういった類のものをぼくは神様と呼ぶが、その神様に出会う度に、ぼくは生であるこの世界が憎たらしくて堪らなくなる。もう1回なんてない。思い出を増やす度に、忘れたくない景色を見る度に、悲しい。いつかすべて忘れるのに、褪せてしまうのに、それがどうしようもなく切なくて、だからこそ大事に大事に持っておく。忘れても憶えていられるように。
ぼくは、ぼくという1つのLIVEを見ている。好きなアーティストのライブに行くような楽しさもワクワクも感じられないけど、ライブのセットから進行、MC、背景、セトリすべてはぼくに委ねられている。これを幸と呼ぶか不幸と呼ぶかはまだ分からないのにもうかなり疲れてしまったことだけは分かる。

それでも、生きたい。生きていたい。これを読んでいるあなたにもできれば生きていてほしい。

死ぬこと以外かすり傷とかいう胸糞悪い言葉があるけど意外と的を得ているのかなとも思う。正しくは「死んでさえいなければなんとかなる」なんとかなるって無責任で体はベッドに沈んでしまうけど、本当になんとかなるから。なんとかなることを祈っているから。

ぼくは何度だって神様に会うために生きる。それがいずれ必ず無窮の底に消えてゆくものだったとしても、無駄なものばかりを愛して、愛していたい。

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