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矛盾した世界を生きた自我の実話

今回のエッセイ部門では、
自分を対象とした体験の話を募集していた
ので、自分の中での一区切りとして
世には出ない話の一部を書く事により、
前に進めるものとしてみようと思いました。

事実なので、名前などは伏せますが、
体験、そして間違った思想が渦巻く中で、
自制を持って生きた人は少ないです。

私は金や権力よりも、大切な物があると
近しい親族の中で、そう思った人は、
私以外に2人だけいます。

血の近い一族だけでも15人以上いて、
その中で私を含めて3人だけは人間として
生きた話になります。

まずは私が事実として知る最初から
話していこうと思います。

私から見て曾祖父が一番、財を成した
所から始まります。

元々、裕福な家ではありましたが、
莫大な財を築いたのは曾祖父でした。

曾祖父が中学二年生の時、両親は家に
居らず、帆船のセールスマンが尋ねて
きたのですが、両親の承諾無しに、
そのまま帆船を買った事が最初の出来事
でした。

両親が家に帰ってきて、当然、曾祖父は
叱られました。
あまりにうるさく文句を言われ、
「それなら自分で稼ぐ」と言って商売を
始めました。

当時は漁師にはお金持ちが多くいましたが、
海も荒く、死人も出ていました。

今では海外等ではよくありますが、
貸倉庫の借主が死去したり、未払い期限が
過ぎた場合、貸倉庫の競売等がされていますが、
曾祖父も似たような感じで、最初は父母に
ある程度の出資をしてもらい、
借金が払えなくなった家に目をつけて、
借金の肩代わりをする仕事を始めました。

私の父は超現実主義者ですが、よく語っていた
事の中で、曾祖父に関しては、運というものの
存在を認めてしまう程、強運の持ち主であった
と、よく食事中に話していました。

借金の肩代わりをする変わりに、当時は蔵等を
幾つも持っている漁師も大勢いて、蔵の中に
何が入っているのかも、自分の蔵であっても
知らないほど建っていました。

曾祖父は借金の代わりに、蔵を買う商売を
始めたところ、いずれも当たりを引き、財を
成していきました。

その商売をしていた時、ある家の主人が死に、
未亡人となった妻から、蔵を買い取って欲しいと
言われ、中身はやはり分からないままでしたが、
借金の代わりにその蔵を買いました。

この時、蔵の中には途轍もない程の宝が眠って
いました。それは希少価値が恐ろしいほど高い
木材でしたが、その木材の価値は想像を絶する
ものでした。

他の商売も大成功して、一気に当時の広島県で、
1,2を争う財閥へと上り詰めました。

今のお金に換算して、およそではありますが、
兆円クラスであったのは間違いありません。

事実、祖父の代でも、家にある現金だけでも、
今の金額にして八千億円ほどあったので、
銀行等が出来る度に、一番に挨拶にきていたので、
そのあたりも含めるとやはり兆円越えは確実なので、
その程度はあったものと見られます。

曾祖父は囲碁が好きで、気に入った相手には
家を買ってあげていたと父は言っていました。

それも少数では無く、大勢に買ってあげていたらしく、
当時、二階建ての家と庭付きの家は2千円で建っていた
のに対して、1億円現金があった事は、父だけでなく、
親類も知っており、映画で例えるなら、
「アイアンマン」の資産が約8千億円なので、
あれくらいだと思えば想像できるかと思います。

祖父の頃、よく池田総理が家に来ては、「いい家だ」と
言っていたらしく、自分も同じ家を建てると言って、
日本全国にその貴重な木材で建てた家を、自分も作ろう
としましたが、あまりにも貴重な材質であった為、
日本中を探しても見つからず諦めていたと父はよく
言っていました。

父は池田総理の話をする時は、必ず池田さんと言うので、
よく家に来ていた事もあり、親交も深いものでした。

お盆祭りの夜、父は友人たちと遊んでいました。
隣町まで行って遊ぼうと誘われましたが、父は嫌な予感が
したと言っていました。自分でも不思議だがそう思えたと。

その時、父は何故か初めてお経を読んだらしく、
当時はガードレールが無かったので、夜になると、
毎年死人が必ず出ていました。真っ暗なので、
崖とカーブの違いは目では見えない事から、
毎年死者が出てました。

この時、父の友人たちは海に突っ込み全員死亡した事から、
祖父は父の友人たちが死んだ事により、池田総理に直接連絡
して、島中にガードレールを設置させました。

祖父は医者でしたが、友人に頼まれて町長に出馬しました。
しかし、当時、広島県で最初に車を買ったのは祖父でした。
対抗馬はそれを市の警察署に訴え、その時、30人近くが
警察署に出頭させられました。

そして、最初に祖父から事情聴取を取ろうとした時、
その部屋に県警から来た官僚が入ってきて、
祖父に挨拶をしました。
「〇〇さんはお元気ですか?」
「ええ、おかげさまで元気にしてます」

この会話の後、事情聴取は何も無いまま終わりました。
当然、当選もして、最初は頼まれて引き受けましたが、
面白かったらしく三期務めたと言ってました。

父は生前よく言ってましたが、「銀行は来るものだ」
と言っていて、財産分与に当たり、本来なら行かなければ
ならないものでしたが、父はその時、私が付き添いで
いった時の一度しか人生で銀行に行った事はありません
でした。

当然ながらキャッシュカードの存在も知りませんでした。

元々、面倒事は全て人にやらせていた結果とも言える
ように、ここで初めて触れますが、お金はあり過ぎると
あまり良い人生は送れません。

銀行としても、本来は父が行かなければならないもの
でしたが、何もしないし、文句ばかり言うので、
銀行の方が折れて、次回からはご子息様だけ起こしください。
と言われました。

父は自由奔放過ぎたので、死後に言われていましたが、
天皇陛下のような扱いで、しかも自由に育てられたので、
自由人と言えば聞こえはいいですが、
自由過ぎると迷惑しかかけません。

父も医者になりましたが、医者になりたくて
なった訳ではありませんでした。

最初は東京の昭和大学に4年間行き、地元の友達と
また東京に行きたいと話して、一番東京に長くいられる
のは医者だと知り、1年浪人して、昭和医大に入りました。

この時、1年で医学部に受かるために、私から見て大おじが、
毎日勉強を教えたそうです。
祖母の生家なので近い親族で、その大おじは東大主席で
卒業後、大和の設計にも携わった人で、IHIという
造船会社でも特例な扱いを受けてました。

家にも一度来た時、お酒が飲めたのは私だけだったので、
私とは色々話をしました。
祖母の家系は全員が大酒飲みでしたが、当時、大水害が
起きた時に何十億もの私財を投げうって、大勢の人々を
助けた事により、天皇陛下から勲一等の叙勲を与えられました。

都道府県により人数は多少変わりますが、
天皇陛下の祝いの席にも呼ばれた程の功績を
残した一族でした。

生前にも叙位を貰い、死後も叙位を受け、私の町では
三賢者の一人として、今も石碑に名前が残されています。

私は色々な世界を見てきましたが、血筋はあまり関係
ないものだと思っています。

実際、祖母の生家であった一族の多くは没落しました。
今でも山本五十六が通っていた料亭をしている所以外は、
会って話をしましたが、昔の名にすがって生きている
ような人もいました。

人は人です。お金はお金です。愛は愛です。

血が人を作るのではなく、血を引く人によって、
血脈を大事にする人は大事にしますが、
それはあくまでも血筋なだけであって、
現実的には自分次第で決まります。

父は昭和医大にいた時、高須クリニックの院長が
後輩だったらしく、絵をプレゼントしてきたそうです。
その絵は家に飾っていました。

父の趣味の一つは絵でした。
あくまでも見る方の趣味です。

「この絵は将来、価値が上がりますよ!」と言って
プレゼントしてきたが、高須は見る目が全く無いと
言っていました。

実際、価値は低いものでした。

父は何でも自由にしてきました。
戦後、食べものが貴重な時でも、
従妹の姉のような人と、喫茶店に入り、
ケーキとコーヒーを注文してました。

当時、サラリーマンの一ヶ月の給料で
ケーキ一つだけ買える時代でした。

店側は前払いを要求してきて、
お腹が一杯になるまで何度も注文した
と言っていました。

何もかもが自分の思い通りになるのが、
普通になってしまったのです。

私は実家で暮らしていた時、私も弟も
父も母も、全く会話も無く、お互いに
何が好きなのかや、どんな人間なのかも
知らないまま暮らしていました。

父は生涯を通して、妹婿である同級生しか
友達はいませんでした。
その同級生も同じく父しか友人はいませんでした。

お金はあっても何もない人生というのは、
実に何とも言い難いものです。

確か優里さんの歌の歌詞にもありましたが、
1年を1億で売って欲しいと、40年を40億で、
仮に売ったとして、その時点でその人が25歳ほど
だとした場合、残りの人生は長くても30年
程と言う事になります。

そこに幸せがあるかどうかは分かりませんが、
25歳程度ならまだまだ世界の事など何も分からない
状態です。

お金がある時は人は寄ってきます。
40億など、すぐに使い切れるものです。
10年で40億使ったとして、残りの30年間に、
何を考えて生きて行けると言うのでしょう。

人生に関する哲学では、
結果か過程かに分かれています。

私は過程にこそ人生があると思っていて、
過程により自己啓発の念が生まれる事により、
多くの事を知ることができるものだと
思っています。

父は結果こそ全ての人でした。
医者になり、世間からは名士と言われていましたが、
現実的に友人たちから見放され、私が産まれた時、
私は死んでいたらしく、逆さにして打つ事により、
産声を上げたと、昔聞きました。

その産婦人科の医者も友人だったらしいのですが、
何かしらのトラブルで見放されました。

医者でも無くなった時、ただの老人に過ぎない
人になった時、何を思っていたのかは知りません。

ただ、まだ癌の初期症状の頃、父の本性を知りました。
私には父が他界した今でも、理解不能ですが、
たわいもない話でもするような感覚で、
弟をバッドで殴り殺せと言われた時に、
初めて、父を理解しました。

私は色々な人間のタイプを見てきましたが、
父のように、一切の愛情が無い人間は初めてみました。
愛犬を毒殺し、邪魔であった弟を排除して、
私を実行犯として警察に突き出すつもりであった事は、
私の味方をしてくれた警官の人も同意見でした。

その警官の人は50歳代くらいでしたが、
私の話を聞いた時、
「私のような者には理解しかねますが、
賢いだけに苦労は絶えないでしょう。
生きて下さいとしか私には言えません」と言って、

「今日話した事は全て書き残させて頂きます」と言い、
実際に膨大な量の話を書き残してくれていました。

相談しようと思い、警察に電話した時、その人は休日で、
婦警さんが代わりに対応するというので、私は日時を
伝えると、
「ちょっと待ってください。読むだけでも
相当な時間がかかりますので、申し訳ありませんが、
緊急の事態でなければ対応しかねます」と言っていた。

大きな家に住んでいても、中身は空っぽで、
最後まで喧嘩の絶えない家でした。

どこの家でも問題はあるはずですが、
家庭環境を理解できるのは私しかいないと言っていた
親友も、私が以前、東京にいた時に完全に精神は
壊されていました。

お金持ちだからと言う理由で、大抵の人は甘く見ます。
しかし、世の中にお金持ちの生活や内情は外には
洩れません。

その理由は私だからこそ、
書き残せるものだと思っています。

まず第一に金持ちの息子なだけであって、
そのお金は基本的には英才教育に使われます。

私の場合を例としてあげます。

月曜日:家庭教師、個人塾、習い事
火曜日:個人塾、大手個人塾
水曜日:家庭教師、習い事
木曜日:大手個人塾、習い事
金曜日:家庭教師、個人塾、習い事
土曜日:家庭教師、習い事
日曜日:大手塾(9時~21時)

習い事は、硬筆、習字、少林寺拳法、絵画、
オルガン、テニス、バスケットボール、水泳等。

習い事に関しては、親のさじ加減で変えられて
いたので、こうなります。

これは小学生の時の私のスケジュールでした。

全ては母親が仕切っていたのですが、
暴力に関しては解禁してました。
私は家庭教師や日曜日の塾では、体罰は
当たり前でした。

家庭教師には私の足を引きずりながら廊下から
階段まで力任せに引きずられたので、
頭部から血が出ましたが、当時、小学校などの
教師は見て見ぬふりでした。

門限は5時とされ、塾や家庭教師等は優先されて
いましたが、1分でも遅れると、22時になっても
出されたままで、向かいにあるアパートの人に
心配されて、時々、危ないからうちにおいでと
言われて、助けてもらっていました。

この時、警察を呼んで虐待だとアパートの人たち
は言ってくれましたが、当時は医者であるうちに
対して、警察も弱い立場であったので、注意だけ
で済まされました。

それ以後は、4階にある拷問部屋に入れられるよう
になりました。電気も何もない1畳もない部屋で、
3メートルほどの高い場所に明かり窓があるだけで、
暗闇とコンクリートむき出しの部屋に、数時間
入れられるようになりました。

知り合いや後輩等の医者や歯科などの子供は、
一度は皆、家出をした経験がありました。

この幼少時代によって、大抵の場合、将来が
大きく変わってきます。

私には夏休みは無いものでした。
昔の夏休みは40日あり、1ヶ月は離島のホテルで
缶詰めにされて、朝から晩まで勉強させられて
いました。

当然ながら幼稚園時代から、金持ちの上に、友人
を作る時間は無かったので集団による虐めの日々
でした。

残りの10日間で宿題と、家庭教師に大金を払い、
大学生による科学研究平均200ページ程のものを、
書き写して学校に提出してました。

先生たちは何も言わず、私はただ写しただけで
あって、本当に頑張った人は報われない世界でした。

小学生時代に大手個人塾に通う医者の息子兄弟と、
私も兄弟で行っていたので、帰り道に話すように
なりました。

しかし、上記にあるように、常軌を逸した教育の
ための虐待は、男の子の家では多い傾向が強く、
酷さのほどは似たようなものでした。

この医者の息子兄弟の兄と最後に会ったのは、
恐らく私でした。帰り道でいつも通り話しながら
帰っていましたが、既にその時には自殺をする
つもりだった可能性は高いと思いました。

彼はいつも通りで、普通でしたが、覚悟を決めた
後は、私も経験したので分かりますが、迷いは
一切ありませんでしたので、話をしながら、
家に帰り、自室で首吊り自殺をしたと思われます。

ただ、彼の弟はその後、あまり話さなくなり、
兄の自殺から1年後、同じ部屋で同じように
首吊り自殺をして他界しました。

外からの目には決して見えないし、名士扱い
される事も多いので、そんな酷い日常がある事は
世間には洩れません。

しかし、これだけでは洩れる可能性はあります。
世間に洩れないのには、理由があります。

大抵の場合、死の道を選ぶ子供もいますし、
その理由は世間には洩れず、逆に知らない世界
なので、労わる傾向が強く、子供の自殺に関しては、
それしか本当に手が無いので、そうする事によって
意地だけでも見せたかったのだと思いますが、
子供ですので、命を捨てても、彼らの望む形で、
親が裁かれる事はないのです。

私自身、幾度か人に相談した事がありましたが、
母親は正に仮面をつけているように、
私が母親の文句を言うと、その場では笑いますが、
人がいなくなれば、完全に無視をする人間でした。

大勢の人を見てきましたが、私の母親に関しては
カウンセラーさんにも理解できないと言われました。

誰もが幼少期に似たような経験をしますが、
ここで外に洩れない最大の理由があります。

子供の頃は、こんな親には絶対にならないと思って
いても、大抵の場合、医者であれ、会社であれ、上には
常に親がいるため、親が引退する頃には、幼少期の教育
のお陰で、医者や重役になれたと思い込み、
同じような教育を自分の子供にしていきます。

そのため、完全に悪い方向へ染まっていっていくのですが、
だいたい3代目までは、同じような教育をしますが、
基本的に親の言われるがままに育っていますので、
自分で考える力に関しては、相当知能が低いものだと
言えます。

実際、東大医学部卒業をし、政財界にも多くの知り合いが
いる叔父は、肩書で言えば、海外や日本の大手病院の院長
を経て開業しました。

しかし、人生の多くをそこに費やしたため、
母親の差し金で、私に探りを入れてきた事がありました。
バレないように振る舞いましたが、私に対して、
結婚するのは大変だと言っていました。

まず、母親は大嘘つきであるので、基本的に信じられない
ような嘘を平気でつきます。嘘ばかり言うので自分で嘘の
管理ができず、次の日にはそんな事言ってないというほど
で、この叔父に関しても100回見合いをして、相手を選んだ
と言っていました。

しかし、叔父は真逆の事を私に言いました。
100回も見合いしてようやく相手を見つけたと、
私に言いました。

このように、医者という者は、
海外ドラマの「メンタリスト」でも主人公が言って
ましたが、看護師や婦長と、色んな医者を物色しながら
医者の事を聞き出していましたが、最後に主人公が
言ったセリフは「影のボスはあなただ」と婦長に
言いました。

これは実は現実のことです。
祖母が存命中の頃は、よくお盆や正月には、祖母の家に
集まって話してましたが、私の父も叔父も婦長がいない
と仕事にならないと言っていました。

例えば、うちの父の場合、近隣の人が亡くなり、
大抵は近所の人が手伝いに行ったりするものですが、
母に言われて、父は葬式に手伝いに行きましたが、
すぐに帰ってきました。

理由を葬式で聞くと、何もしないでずっと立ってる
だけだったとの事でした。
このように、一般的な事をする過程である人生を、
医者を学ぶ事に費やすため、世間知らずが多くなります。

医者だけの知識しかないため、私はある評判の高い医者に
対して、相当強く攻めました。
理由は、心療内科の話になった時、私も医者の息子である
ので、私はネットにもそれなりに強かったので、近所には
ほとんど無い事を知っていました。

しかし、その医者に「良い心療内科を知ってるんですか?」
と尋ねた時、「沢山知ってますよ」と言いました。
検査が終わり再び、その医者に「心療内科の良い病院は?」
と尋ねると、苦い顏をして、
「2件しかないです。どちらもご存じですよね」
と答えました。
私は更に現実を突きつけてやりました。

「今の時代はもう昔とは違いますよ?
今は患者が医者を選ぶ時代です」

そう告げた時、苦い顏のまま「そうですね」とだけ
答えました。

このように医者だからといって知識が豊富でもないですし、
ユーモアやセンスに関しても、弱い人の方が多くいます。

新しい病院が出来たら、よく若い医者だからと行く人が
いますが、実際はそれは間違いです。

医者はまず大学に6年通いますが、この時、医学部に属する
全ての知識を学ぶため、実際にはほとんど何も分からない
のが現実です。

歯学部等は別なので学びませんが、その他の専攻する医学は
多いので、大学を出た時点では、ネットで色々調べたほうが
確かなほど、何も知りません。

そのため、医学部を卒業するに当たり、専攻する分野を
それぞれが決めるのですが、開業しなければ元が取れないと
以前から言われてきた医者も、現在では少子高齢化社会により、
専攻する医学が偏り過ぎて問題となっています。

開業するまでには、大学で10年間、無報酬で専攻した医学を
勉強するのですが、実際、10年間でどれほどのものになる
かというと、新米で知らない事は多くあるのが現実です。

ですので、新しく出来た病院に行くのは、医学界の中では
タブーに近いものとされています。

歯科の時もそうでしたが、現在、医学部の専攻に関して
問題が発生しているのにも関わらず、政府は動こうとは
しません。

歯科の場合は、それに属する仕事をしていた人たちは、
潰し合いになる事は分かり切っていました。
今もまだ増えていくので、歯科の資格を持っていても
働けない人は出て来ています。

医者も同様に、専攻が脳外科と整形外科に集中しています。
リスクのある上に子供が減っている産婦人科や小児科を
専攻する人は減っていて、これももう何年も前から問題と
されていますが、政府の役人にとっては、もう引退した
頃に問題となることなので、軽視してますが、特に地方
での産婦人科や小児科は少ないので、今動いても手遅れ
ですが、動かなければ歯科の二の舞になるので、
早期に動かなければ大変な事になります。

この時点でお分かりかと思いますが、要するに、
医者や歯科になったら、親は常に上にいるので、
言う事を聞くしかなくなります。

そして、医者や歯科に関しては、従妹だけでも
10名以上はいますので、色々な話は聞いてきました。

まずは新しい病院に行ったとしても、今はもう時代が
患者の方が強いので、駄目な医者ならハッキリ言う
べきです。

私は医者を多く知っているので、駄目な医者の場合、
次回はどうされますか?と聞かれたら、「変えます」
と言います。

時代に合わせて我々も生きていかなければならない
転機に来ています。

歯科に行った場合、保険外の歯を勧めてきた場合、
「親戚に相談してから決めます」と言えば、受付や
歯科医は二度と勧めては来ないでしょう。

従妹や叔父にも歯科はいて、昔からよく同僚に相談
されていました。叔父などは人気が高く、日曜日は
往診していて休日は無い状態なほどです。

理由としては漢方医学も学んでいるため、麻酔を
針でするので痛みが残らないため、子供にも
人気があるからです。

叔父や従妹にも聞きましたが、保険外の歯なんて
勧めた事も無いし、自分でも入れない。保険の歯で
充分だから、そんな歯科は行かないようにした方が
いいとまで言っていました。

医者の世界や政府の世界は不透明でありながら、
一般人は何故か弱い立場にいると思い込んでいる人が
多い傾向にありますが、もう時代は違います。

患者が医者を選ぶ時代です。

父も最後は言っていました。
「まさか医者が食えない時代が来るとは思わなかった」

それほどまでになっている現実を見れば、
何が正しいのか分かるはずです。

10年間だけ大学にいって開業した歯科や医者等は、
まだまだ見習い程度でしかないので、現実的には、
患者で試すしかありません。

腕の良い医者は、しっかりと説明などもしますが、
目も合わせずに話す医者などは人間的に問題があるので、
そういう病院には行かない方が良いです。

間違っても保険外の歯など入れないよう
気を付けてください。

歯科医は潰れるので、保険外の歯を勧めてきます。
「他県にいる身内に相談してから決めます」と
言うだけで、相手は引きます。

今の日本は色々な面でおかしくなっています。
言われるがままでは無く、自分で選択する時代が
到来しました。

叔父に関しても、手術の腕は名医と言われています。
実際、確かに日本でもトップクラスではありますが、
人生は一度きりで、時間は生きている人に平等に
与えられたものです。

言われるがままに従うような真似は間違いを
学ぶようなものでしかありません。

実際、仮に複数人の新米医者の病院に行けば、
どんな診断をするかはだいたい分かりますし、
ドラックストアで売っているような風邪などなら、
病院には行かず、ドラックストアの薬を買った方が
よく効きますし、手間が省けます。

実際、家でも風邪薬などはドラックストアの薬を
飲んでいました。

第三薬品とは実は一番よく効く薬です。

政府から医師会へ言われて医者たちは、
昔のように、ビタミンCとかを出せなくなりました。

製薬会社は薬の開発に莫大な資金を使っています。
ですので、第三薬品として、よく効く薬を作っています。
病院の薬よりもよく効くので、医者は第三薬品を
家では使っている医者も少なくないです。

医者も所詮は人間です。
間違いも犯します。
ただ言われた事を信じるのではなく、
しっかりツッコミを入れてやれば
返答に困るはずです。

医者がいうから正しいという世界は、
今や昔の事になりました。
納得のいかない事をいうような病院には
行かない様にして、自分で選んでいくことを
お勧めします。


#創作大賞2024 #エッセイ部門

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