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ブルース・リー

“気楽な人生を願うな。
困難な人生を耐え抜く強さを願え”


時代は進んでも、彼の名が消える事は
無い程の人物だった。
真の武道家で、非常に精神も肉体も
強靭な人であった。

ブルース・リーの言葉ではあるが、
このような言葉はよく見かける。

それはこの言葉が事実だという
裏付けにもなる。
つまりは正しい意見だと言える訳になる。

この言葉自体似ている言葉だけでも、
多数の人が言っている。
更に似たような意味を持つ言葉を入れると
その数はかなりの人物たちが言っていた。

人間は不思議な生き物で、周りの環境に
適応できる動物の中では一番上と一番下の
両方ともを持っている。

適応という言葉が正確かどうかは微妙では
あるが、日常と変わらない時は普通だが、
日常が崩れた時には、人間というよりも
猛獣のような顏を見せる。

命の危険に晒されれば、他人を足蹴に
してでも生き延びようともする。

大多数の人間はそういう生き物である。

しかし、ブルース・リーのような言葉を
言っている人は違う。
命懸けで人助けをしたり、
私財を投げ打ってでも人々を助けようと
奮闘する。

私の大叔父の一人は、昔、大洪水の被害で
大勢の人が亡くなった事があった。

その時、私財を使い、大勢の命を救った。
天皇陛下から勲一等を授与され、
祝いの席にも招かれた事もあった。

私が住んでいた町では、三賢者と呼ばれ、
死後も戒名をつけられ、石碑にも名前が
彫られ、今でもそれは残っている。

しかし、その家も没落した。
結局は血はあまり意味を成さないと
言う事だ。

一人一人がそれぞれ自分自身を持っていて、
父と私が正反対の意見を持っていたように、
どう生きてきたかで、意見は全く別となる。

父は人生で銀行に行った事は一度も無かった。
お金の下ろし方も知らないような世界で
育った。その結果、お金で何でも解決できる
という思想を持つようになり、その思想は
悪い方へと育っていった事から、邪魔な人間は
排除すればいいという考えを持つようになった。

非常に恐ろしい考え方だが、事実である。
私はそんな人間にはなりたくないと思ったから、
真逆の生き方をしてきた。

父のような人間には、哲学は絶対に理解できない。
ある程度は頭もやわらかくないと、他人の意見を
受け入れなくなるからだ。

柔軟性は常に持っていたほうがいい。
そうしなければ頭の固い人間になるからだ。
気を付けておかないと、気づかないうちに
頭の固い人間になってしまう。

だから日頃から物事に対する考え方等も
1つでは無く、他にもあるはずだと思ってもいる。

“気楽な人生を願うな。
困難な人生を耐え抜く強さを願え”

このような言葉通り、実際に求めている人は
数少ない。
私はブルース・リーの言うような人生を願っている。
おそらくこれ以上ない程の困難な人生に、
一度は立ち向かい、私にとって最悪の人生であったが、
生き残ってしまったからだ。

今は徐々に復活してきているが、一生つきまとう
ような、本来はあってはならない事の中でも、
生き残ってしまった。

当然、簡単に今のように文章を書く事など出来ず、
悩む日々の連続だった。
耐えれるようになるまで、数年を要した。
耐えれると言っても、ただ単に生きていただけで
あって、何もしていなかった。

お金は多少あったので、困る事は無かったが、
精神的な面も誰にも相談せず、一人で背負った。
相談できる相手もいなかったし、私の場合は
相談したからといって解決出来ない事は自分自身で
分かっていた。

自分で立ち直るしかないという事は分かりながらも、
何年もかかって、ようやく耐えきったと今だから
言える。

ブルース・リーのこの言葉は、色々な面で優れた
人間になるためには、必須とも呼べることだ。

しかし、私が受けたような事は受けないほうがいい。

私は過去の歴史上の人物たちを調べ上げた。
生き残るには、どうすればいいのかを偉人たちに
求めたが、ほとんどが事実だったが、
一人も正常には生き残れた人はいなかった。

似た状況の人も調べたが、2人だけいた。
一人は武田信玄の妹で、諏訪家へ嫁いだ女性だった。
当然、政略結婚ではあったが、本物の愛が生まれ、
信玄としては諏訪を排除したかったが、
降伏すれば命は助けるという条件を提示した。
妹にもその事を伝え、諏訪は一度は降伏したが、
監禁させられていた事から、逃げ出した。

その罪として切腹を申し付けた。
諏訪家は断絶し、信玄の妹は、兄である信玄を恨み、
食べ物をほとんど食べずに餓死して死んだ。
女性であっても意地を貫いたと言える。

他には、中国の三大悪女の一人である劉邦の正妻で
あった│呂雉《りょち》の恨みからの凶行であった。
劉邦は大の女好きで、最後は│戚夫人《せきふじん》を
寵愛していた。

戚夫人は劉邦がもし死ねば、自分は大変な目に合う
事を分かっていた。そのため、一度は劉邦に自分の子を
跡継ぎにしてほしいと劉邦に懇願した。

劉邦はそれに応じて、朝礼の時に、跡継ぎは戚夫人の
子にすると発言した。家臣たちは跡継ぎは長子がなる
と決まっていると、劉邦を諫めた。

家臣一同に反対され、劉邦はその夜、戚夫人に
謝ったが、それは現実となってしまった。

劉邦の死後すぐに呂雉は動いた。
戚夫人を奴隷とし、その息子を殺害。
更に、呂雉は皇帝となった自分の息子に、
便所にいったら面白いものが見れると言った。

当時の便所には豚に便を食べさせていた
習慣があった。
戚夫人の両手両足を切り落とし、
目玉をくりぬき、薬で耳と声を潰し、
その後、便所の中に落として人豚と呼ばせ、
そのさまを笑い転げながら見ていた。

あまりの酷さに激しく落胆した恵帝は
政務を放棄し、酒と女に溺れ、間もなく死去した。

この時、呂雉は泣いているふりをしていたと
歴史には書かれている。

私が生き残る対象として上げたのは、
この2名であった。
つまりは耐えられない状況だった。

そんな中、私は毎日のように飲みに
出ていたが、どれだけ飲んでも酔えなく
なっていた。テキーラやウイスキーを
ロックで飲んでも全く酔えず、少しでも
精神を酔わそうとあらゆる手を尽くしたが、
何も効果は表れなかった。

そして、それ以前まで独学で学んでいた
哲学を再び考え出した。
良き出会いもあり、私は何とか脱する事ができた。

そして1年前からnoteを勧められ、
書き始めた。
私にとっては大きな一歩だった。
前に進もうとし始めた。

今は時間が惜しいほど、アンテナを張りまくって
いる。数年間を取り戻すために、頑張ると決めた
からだ。自分で自分に約束するのは誓いのような
ものであるので、破る事は許されない。

幾つかの誓いを重ねる事により、
その絆を強くして、絶対的なものに
していった。

そうすることで、自分自身を無理矢理納得させた。
そして、現実の世界での知り合いに
自分の誓いの事を話す事によって、
約束、誓い、嘘をつかないという連鎖を作り、
絶対的なものへと変えた。
どれかを破れば、連鎖反応していくようにわざと
誓いの強さを命と同等にまで押し上げた。

こうして私にとっては、noteに1日最低3本書くと
言う公言をして、自分の中でも大切な事である
ので、そうすることにした。

最初の頃は、お酒を飲みながら書いていた。
しかし、お酒を飲んで書くと、ペースは上がるが、
内容が良くないものになると気づき、
書いている時は、お酒を飲まないと決めた。

しかし、他事にも時間を割いているので、
どうしても時間が秒刻みや分刻みで、映画を見たり、
色々な事をしていくうちに、お酒を飲まなくなって
いた。お酒を飲まなくなったのは今年の1月だった
ので、約1年間はお酒を飲んでいない。

私にとって、おそらくこれ以上の困難な目に
合う事は無いと思っている。
事実、病院にも行かないと決めてからは、
どんな病気であっても耐えてきた。

困難に打ち勝つ方法も知っている。
だからこうして現実と向き合えるように
なれたのだと思う。

しかし、満足はしていない。
最悪な父母から最後に学んだ事は、
いかなる状況であっても決して逃げずに
戦うという事の大切さをしっかりと
理解できた。

反面教師ではあったが、学べる事は
大きなものであったと今だからこそ思える。


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